1 お忍びの旅の始まりです! その3


「人目につかぬうちに、馬車へ戻ろう」

 畳んだ敷布を眠る侍女の隣に置いた英翔が、明珠の手を取る。


「どうした? 表情が暗いぞ? 季白の叱責を恐れているなら、安心しろ。わたしが叱らせたりはせん」

 心配そうに、長い指先で頬にふれられ、飛び上がる。


「ひゃっ! 何でもありません! ただ……。もう一度、敷布を洗うのは大変だろうなと思って……」

 もごもごと返すと、英翔の表情が安心したように緩んだ。


「それはそうだが、この侍女の手落ちなのだ。洗い直しは仕方なかろう。お前が気に病む必要はない」

 くしゃり、と大きな手が、慰めるように髪をでる。


「やはり、お前は人が好すぎる」

「そ、そんなことありませんよ」


 どうしてだろう。少年英翔となら、手をつなごうが頭を撫でられようが、全然、平気なのに、青年英翔になった途端、居心地の悪さを感じてしまう。

 身分の差を強く感じてしまうのか――単純に、少年姿だと、弟の順雪を連想して、自然となごむからかもしれない。


「と、とにかく、馬車に戻りましょう」

 英翔の大きな手から自分の手を引き抜こうとしたが、逆に腕を引かれ、引き寄せられる。


「そわそわしている方が、挙動不審で目立ってしまうぞ? 堂々としていればいい」

 空いている手で、地面に転がっていた水筒を持った英翔が、明珠を手を引いて歩き出す。手をつないでいては、明珠も歩き出さざるをえない。


(英翔様の容貌なら、堂々としていようが、隠れようとしようが、どちらにしろ、目立ちそうな気がするんだけど……)


 先ほど侍女も見惚れていた秀麗な面輪を横目で見上げて思うが、英翔の足取りは堂々としたものだ。

 誰にとがめられることなくうまやを通りすぎ、馬車まで戻ると、馬を交換していた張宇が、ぎょっと目を見開いた。


「何があった!? まさか……っ?」

 刺客か? と腰の剣の柄に手を伸ばしかけた張宇に、英翔が笑ってかぶりを振る。


「違う。ちょっと騒動があっただけだ。先に馬車に乗っているぞ」

「はあ……」


 英翔に手を引かれるまま馬車に乗り込み、座席に二人並んで腰かける。

 つないでいた手を放して扉を閉め、心地よい弾力と手触りの座席に腰を落ち着けると、ようやく気が緩んで、明珠は大きく息を吐き出した。

 英翔が青年姿に戻った時は、どうしようかと思ったが、人に見とがめられて、騒ぎにならなくてよかった。


 明珠は、隣に座る英翔の整った横顔をちらりと見上げる。


 英翔の本来の姿は、愛らしい少年ではない。

 命を狙う刺客の術師に禁呪をかけられた結果、英翔はかよわい少年の姿になってしまった。だが、本当の英翔は、しなやかな身体つきの青年だ。しかも――。


 不意に英翔がこちらを向き、見上げていた明珠は反射的に目を伏せる。と、急に英翔の長い指先がこめかみに伸びてきて驚いた。


「ひゃあっ!? 何ですか?」

「あ、いや。暴れたせいだろう。髪がずいぶん、乱れているぞ」

「えっ、あ……」

 左手を頭の後ろにやった明珠は、うなじのところで髪を一つに縛っていた紐が緩んでいるのに気づく。ふだんとは違う、慣れない位置で縛ったので、緩かったらしい。


「結び直してやろう」

「だ、大丈夫ですよ! 自分で……っ」


 明珠の言葉が終わらぬうちに、英翔がするりと紐をほどいてしまう。背中の中ほどまで伸ばしている黒髪が、ばらりとほどける。濡れた布をかぶってしまったせいで、少し湿気っている。

 今日の英翔は従者役なので、香を焚きしめた絹の衣を着ているわけではない。だが。


(近い! 近いってば~っ!)

 少年の時も青年の時も、英翔は妙に距離を詰めてくる。少年の時に明珠に甘えていたフリの影響が抜けていないのか、単に人懐っこい性格なだけか。どちらにしろ、少年英翔はともかく、青年英翔の時は胸が騒ぎ出すので、勘弁してほしい。


「髪を下ろしたお前を見るのは、二度目だな」

 長い指先にさらりと髪を一房からませ、英翔が呟く。


 確かに、仕えて間もない頃、風呂上がりに書庫で本棚の上のほうの本を取ろうと苦戦している英翔に、出くわしたことがある。その時の明珠は、英翔が少年だと疑いもしていなかった。さらに言うなら、腹違いの弟だと誤解していた。


「え、英翔様……?」

「そう警戒するな。ただ、髪を束ねるだけだ」

「いや、ですから自分でできます! っていうか、近いです!」


 いつの間にか、壁と英翔の間にはさまれて、ろくに動けない状況に追い込まれている。押し返そうとした手を、髪をふれていた手に掴まれる。ひやりと冷たい手。


「どうなさったんですか!? 手が冷たいですよ!? 体調がお悪いのでは!?」

 おかしい。英翔の手は、いつも温かいのに。


 逆に英翔の手を握り返して、かみつくように問うと、秀麗な面輪がくしゃりと歪んだ。形良い口元に浮かんでいるのは、苦い自嘲の笑み。


「情けないとわらってくれ。お前の怪我を治したのはわたしだというのに、お前が本当に無事かどうか、まだ不安がぬぐえていないのだ」


 そっ、と壊れ物のように抱き寄せられる。

 男物の衣の上から英翔の手がすべるのは、今はもう傷跡すら残っていない、妖刀に斬られた跡だ。


 明珠が斬りつけられてから、まだ半日も経っていない。あの時の恐怖を思い出すと、明珠自身、叫んで震えそうになる。


 だが、気を失い、気がついた時には傷を治してもらっていた明珠と異なり、目の前で人が斬られるのを見、後始末をさせられた英翔の方が、もっとつらかったに違いない。


「大丈夫ですよ! ちゃんと傷を治していただいたので、痛いところなんて、どこにもありません! ぴんぴんしてます!」


 英翔を慰めたい一心で、鍛えられたしなやかな身体に腕を回し、力をこめる。英翔が驚いた声を上げた。頭にも手を伸ばし、順雪にするように、よしよしと撫でる。


「もう大丈夫ですから。ね? 安心してください!」

「……これでは、どちらが年上が、わからんな」

 苦笑をらした英翔が身を離し。


「……で。季白、お前はいつまでのぞき見をしているつもりだ?」

「きはっ? えっ!? っきゃ――っ!」


 身を離した英翔の向こう、馬車の窓から季白のしかつめらしい顔が見えて、悲鳴を上げて英翔を突き飛ばす。


「季白さん!! 帰ってきてたんなら、声をかけてくださいっ!」

「そうだぞ。覗き見など、趣味が悪い」

 英翔がいたずらっぽい笑みを浮かべて、乗り込んできた季白をからかう。が、季白は表情すら変えない。


「覗き見ではありません。聞き耳を立てていただけです」

「それ、偉そうに言う台詞じゃありませんよねっ!?」

 堂々と言い切った季白に、思わず突っ込む。が、ものの見事に無視された。


「わたしのことはいいのです。それより、どうして元のお姿に戻っているんです?」

 季白の鋭い視線に、反射的に身をすくめる。

「そ、それは……」

「ちょっとした事故だ。案ずるな。騒ぎなどは起こしていない」

 口をはさんだのは英翔だ。


「それならいいのですが。せっかく元のお姿に戻られたのでしたら、どのくらいの間、その姿を保てるのか計りましょう。万が一、禁呪が強まっていて、元に戻れる時間が短くなっていたら、大事です」


「時間なら、今朝、計っただろう?」

「たった一度では確認になりません。あ、昼食はこれです。すぐに出発しますから、ちゃんとおかけください」


 季白が、抱えていた楕円形の弁当と竹製のはしを配る。英翔と明珠が座り直したとたん、馬車が動き出した。


「えっ? ほんとにすぐ出発しちゃうんですか? これじゃあ、張宇さんがお弁当を食べられないんじゃ……?」

 心配になって問うと、季白があっさりかぶりを振る。


「心配せずとも大丈夫ですよ。張宇はあれでかなり器用ですから、弁当を食べながら手綱を操るくらい、何でもありません」

「でも、張宇さんは全然休めないんじゃ……?」


 明珠達三人は座っているだけなのでいいが、張宇はずっと外の御者台で手綱を握っている。と、季白が不敵な笑みを浮かべた。


「張宇の心配ができるとは、なかなか余裕ですね。本当に休む暇がないのは、いったい誰やら。乾晶けんしょうの街に着くまでに、あなたに覚えてもらわねばならないことは、山ほどありますからね。他人の目が常にあるのです。蚕家さんけのように、のんびりとはしていられませんよ」


(……蚕家での奉公の、どこがのんびりだったんだろう……?)

 思わず心の中で呟くが、季白が怖くて口には出せない。


「明順。俺のためにありがとう。でも、大丈夫さ。これくらいでへばるほどやわじゃないし、ご主人様の無茶な命令には慣れているから」

 御者台から張宇の穏やかな声が聞こえてくる。


 「ご主人様」とは、今、主人役をしている季白と、本来の主である英翔のどちらだろうか?

 聞かないほうが身のためだと、かんが囁いて、明珠は素朴な疑問をそっと胸の中に押し隠した。

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