2 今夜は、誰と……? その1


「大丈夫か? 明順」

 ちょっとした休憩以外、みっちりと季白の講義を受けて、疲れ果てたのだろう。

 夕刻に着いた宿の前で、よたよたと頼りない足取りで馬車から下りた明珠に、英翔は思わず声をかけた。


 青年姿に戻っていれば、有無を言わさず抱き上げて運んでやったのだが、残念ながら、今の英翔は少年姿だ。


 昼間のくちづけで元に戻った効果は、たったの二刻ほどで切れてしまった。襲撃の際、明珠に宿らされた《傀儡蟲くぐつちゅう》に仕込まれた禁呪で、解呪時間が短くなっていたらと懸念していたが、どうやら解呪の条件は変わっていないらしい。


 今夜の宿は、宿場の中でも高級な部類だった。

 英翔自身は宿にこだわりなどないのだが、刺客に狙われている以上、どんな者が出入りしているかわからぬ安宿よりも、ある程度、警備もしっかりした高級な宿の方が、安心できる。

 少なくとも、旅人の荷を狙う盗っ人や、親切ごかしに近づいてくる詐欺師からは身を守れるだろう。


 今は、張宇が宿の記帳を行っていた。ふだんなら、こうした雑務は季白が一手に引き受けているのだが、今は主人役のため、張宇に任せているらしい。


「明順、しっかりしろ。もうすぐ夕食だぞ」

 よろめく明珠の手を握って励ますと、こくりと頷きが返ってきた。


「頭の中はいっぱいいっぱいで、今にも教えられたことがあふれてこぼれそうですけど……。おなかの方は、空っぽです……」


 「ごはん……!」と表情を輝かせる明珠に、つい口元が緩む。もし、今ここに菓子があったら、今すぐ可愛らしい口に入れてやるのに。


 季白の講義は、英翔にとっては既知の、さらに言うなら、常識ともいえる内容だったが、これまで市井しせいで暮らしてきた明珠には、全く知らない世界のことなのだろう。地方官吏の内実など、一気に説明されても、そうそう頭に入るものではあるまい。


 英翔は別に「官吏見習いの明順」など、必要としていない。だから、明珠にそれほど厳しく教え込むことはないと季白に言ったのだが、


「英翔様に仕える者が役立たずと言われるような事態は、決して招くわけにいきません!」

 と、鬼のような形相で返された。さらに、


「これは明珠のためでもあるのです。明珠が他の従者と異なる存在であると知られれば、必ず、その正体を探る者が出てきます。その結果、明珠を危険にさらすのは、英翔様の本意ではございませんでしょう? 明珠には、総督官邸で目立たぬように過ごせるだけの擬態ぎたいを身につけてもらわねば」

 と諭されては、ぐうの音も出ない。


 馬車で季白を交わしたやりとりを思い出し、英翔は明珠の手を握る指に、力を込める。


 本当は、明珠はどこに危険が潜んでいるやもしれぬ奉公など、する必要はないのだ。

 季白が脅しに使っている借金など、別のところで借りて返せばいいだけだ。ふつうの金貸しなら、命の危険に陥れられる事態になどなるまい。

 ただ、そんな方法があると、人の好い明珠は気がついていないだけだ。


 そして英翔は、それを明珠に告げられないでいる。――明珠を手放したくない。ただその一事で。


 己の卑怯ひきょうさに吐き気が湧く。


「英翔さ……ん。どうしたんですか?」

 いつの間にか、明珠の手を強く握り過ぎていたらしい。明珠の声に、あわてて手を放す。


「すまん」

「英翔さ、ん、もお腹が空いてきたんですか? あ、ほら。もう案内してもらえるみたいですよ?」


 気づけば張宇が手招きしている。笑顔の明珠に促され、英翔は心に突き刺さったままのとげの痛みを飲みこんで、明珠の後に続いた。


  ◇ ◇ ◇


 宿の使用人に案内されたのは、上客用のさほど大きくない部屋だった。おそらく、商談用などの用途で貸し出している部屋なのだろう。

 部屋の壁には趣味のよい壁飾りがかけられ、窓はあるものの、さほど大きくない。扉の板も厚めで、つまり、密談にも適した部屋というわけだ。


 英翔達が部屋に通されてすぐ、食事が運ばれてきた。作り置いていたのか、早い。だが、冷菜ともかく、温かい料理がちゃんと湯気を立てて出てくる。宿の高級ぶりがうかがえた。


 卵と野菜のスープ、蒸し鶏と青菜の和え物、川魚の唐揚げ、点心の籠がいくつか。豚肉とキノコの炒め物、炒飯……と料理が運ばれてくるたび、明珠が瞳をきらきらと輝かせる。

 卓の上に料理が並びきった時には、すっかりいつもの元気な明珠に戻っていた。


 宿の使用人達が全員下がり、四人だけになったところで、食事を始める。

 昨夜の襲撃以来、刺客の追跡や旅の支度など、ゆっくり休む間もなかった。季白や張宇はもちろん、英翔とて、この程度で音を上げるほどやわではないが、それでも、落ち着いて座って食事をとれるのはありがたい。

 四人とも、しばし無言で料理を口に運ぶ。


「そういえば、英翔様。この宿は内湯うちゆを備えているそうですよ。食事の後で、ゆっくりかりにいきましょう」


 皿がほとんど空になった辺りで、張宇が口を開く。今は部屋に四人しかいないので、いつも通りの口調だ。


「ああ、ゆっくり湯に浸かれるのはありがたいな。明珠も遠慮せず……」

 言いかけて、明珠は今は「明順めいじゅん」だったと思い出す。


「明珠には、部屋にたらいで湯を運んでもらおうな」

 張宇が取りなすように言う。


「すまんな。お前にだけ不便な思いをさせて」

 謝ると、明珠が慌てた様子でかぶりを振る。


「とんでもありません。お湯を用意していただけるだけで、十分です!」

「だが……」


 言いかけて、ふと引っかかりを覚える。と、はしを置いた季白が、英翔の心を読んだように口を開く。


「今夜の部屋ですが、今後、明順には、英翔様と同じ部屋に泊まってもらいます」

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