10 お風呂もゆっくり入れません? その1
「出てゆけ。
湯殿の脱衣場に入るなり、床に伏して控えていた女達を見て、龍翔は眉をひそめて言い放った。
先ほど、酒をついでいた女達だ。二人とも、身体の線も
「ですが、お背中を……」
「要らん。風呂くらい、一人で入れる」
顔を上げた女達に、冷たく告げる。
「総督様に龍翔殿下を御歓待するよう、重々申しつかっております」
「どうぞ
女達が口々に告げる。龍翔を見上げた目には、すがるような
総督が選んだだけあって、美しい女達だ。ふつうの男なら、ほいほいと誘いに乗っていただろう。
だが、美しいだけの女など、幼い頃に後宮で見飽きているし、無防備な姿を
「総督には、このような歓待は不要だと伝えよ。わたしは風呂は一人で入るのを好むとな。二度とは言わん。出て行くがいい」
きっぱりと告げると、女達は
「かしこまりました。総督には、龍翔殿下が要らぬとおっしゃっていたとお伝えいたします」
「お気が変わられた際には、いつでもお申しつけくださいませ」
一礼し、衣擦れの音をさせて女達が出て行く。
女達の姿が扉の向こうへ消えてから、龍翔は吐息して季白と張宇を振り返った。
「総督は、どうやってもわたしの気を引きたいらしいな」
「そうなのだとしたら、愚かとしか言いようがありませんね。あの程度の女達で龍翔様の関心を引こうなど」
冷ややかに季白が吐き捨てる。
「龍翔様を軽く見過ぎです」
「そう怒るな、季白。ある程度、
「龍翔様を軽んじるなど……っ! 万死に値します!」
息巻く季白に苦笑する。
「男に美女をあてがうのは、常套手段だからな。あまりに安易だが、有効な手だ」
なんとも言えぬ困った顔で沈黙している張宇を振り返る。
「張宇。今後もあのような女達が押しかけてくるかもしれんが、間違っても通すなよ」
「もちろんです!」
うっすらと頬を染めた張宇が頷く。
「では、警護は頼んだぞ。わたしが入った後は、お前達も入ると言い」
おそらくここは客用の湯殿だろうが、範が否と言うとは思えない。
張宇は外の廊下へ出て行くが、季白はさも当然と言う顔で脱衣場に残ったままだ。
「湯殿の中にまではついてくるなよ?」
釘を差すと、「かしこまりました」と微妙に残念そうな声が返ってきた。釘を差さなかったら、湯殿の中にまでついてきたに違いない。
旅の間、起きている間は四六時中、顔を突き合わせていたのだから、久々の広い風呂くらい、一人でゆっくり浸かりたい。
着物を脱ぎ、帯の間に隠し持っていた小刀を手に、湯殿に入る。
張宇と季白がいるので、刺客に襲われるような事態はないだろうが、用心するに越したことはない。
湯殿の中はもうもうとけぶる湯気で見通しが悪かった。一人で入るのが気が咎めるほど広い湯船だ。
範の言葉通り、水の貴重な西北地方で、ここまでの湯殿をしつらえるのは
子どもなら泳げそうなほど広い湯船に身を沈めると、思わず大きな吐息が出た。
久々に『龍翔』として人前に立ったことで、自分の想像以上に気を張り詰めていたらしい。
濡れた前髪をかき上げた拍子に、湯気の向こうの壁に描かれた絵に気づく。
緑豊かな川べりで仙女達がたわむれている壁画だ。艶めかしい身体つきの仙女達がまとっているのは、濡れて肌に張りついた薄物で……もし先ほどの女達を受け入れていたら、湯殿の中でも同じ光景が繰り広げられていただろう。
そんなもの、見たいとは欠片も思わないが。
この湯殿の入るたび、これを見なければならないのかと、壁画がある壁に背を向ける。
換気用だろう。壁画のそばには、湯殿の中で唯一の窓があるが、女子どもくらいしか通れなさそうな小さな窓だ。今はぴったりと閉められているので、賊が侵入しようとすれば、すぐにわかる。
壁画は
それよりも、今はゆっくりと身体を休めたい。
湯船の中で身体を伸ばす。
やはり、一人で入る広い風呂はいいものだ。龍翔にとっては、人目を気にせずゆっくりと過ごせる貴重な時間だ。
と、ふと気づく。そういえば、明珠を旅の間、風呂に入れてやれていない。娘だとばらすわけにはいかないため、仕方がなかったとはいえ、ずっとたらいの湯ばかりというのは、可哀想だった。
せっかく広い風呂があるのだ。入れてやれば、明珠も喜ぶに違いない。
◇ ◇ ◇
「え? 自分の着替えを持って湯殿に、ですか?」
一人、部屋に戻ってきた張宇の指示に、明珠は小首を傾げた。
「ああ。龍翔様が、明順もたまにはゆっくり湯に浸かりたいだろうと……。明順も、入りたいだろう?」
「そ、そりゃあ、もちろん。入れたら嬉しいですけど……。でも、いいんですか?」
正直、男装が続くとわかった時から、諦めていたのだ。それが、入れるなんて。
「龍翔様がいいとおっしゃっているんだ。さ、着替えを用意するといい」
「は、はい! ちょっと待ってくださいね!」
急いで自分の荷物の中から着替えを取り出し、張宇の後についていく。
湯殿の扉を開けて中に入ると、そこにいたのは、季白と、風呂上がりのためか、官邸に来た時よりはくだけた服に着替えた龍翔だった。くだけたとはいえ、やはり絹の服なのだが。
「明順、来たか」
明珠の姿を見た龍翔が、柔らかに微笑む。
「龍翔様……」
「お気遣いいただいてありがとうございます」と礼を言おうとした明珠は、途中で言葉を詰まらせた。
風呂上がりの少年英翔はこれまで何度も見ているが、青年姿の龍翔は、初めて見る。
いつもと雰囲気が異なると思い――湯上りで艶やかな長い髪を下ろしているからだと気づく。あまり着こんでいないせいだろう。しなやかな筋肉がついた鍛えられた身体付きがよくわかる。
ぼうっと端麗な姿を見ていると、「どうした?」と龍翔が微笑んで首を傾げる。風呂上がりの龍翔はくつろいでいて、機嫌がよさそうだ。
「あ、あの、その……。お気遣いいただいて、ありがとうございます……」
妙に気恥しさを覚え、着替えを胸に抱え込んで、礼を言う。
「ああ、気にするな。今まで不便をかけてすまなかったな。ゆっくり、浸かるといい。大丈夫だとは思うが、間違っても誰も入って来ぬよう、張宇を見張りに立てておく」
「龍翔様⁉」
「龍翔様が入られる際に警護を置くのはともかく、一介の従者が風呂に入るのに、張宇を警護につけるのは、不自然です!」
「なら季白、お前が見張りに立つか?」
「そういう問題ではございません!」
真面目な顔で返した龍翔に、季白がさらに顔をしかめる。
「わたしがこのままそっと部屋に戻れば、周りは、わたしがまだ風呂に入ったままだと思うだろう。張宇が見張りに立っていたとしても、誰も不審に思うまい」
「甘いです! 官邸の者は、龍翔様の一挙手一投足に注目していると、お思いになったほうがよろしいかと」
「だが、わたしやお前がここにいては、明順が入れぬではないか」
呆れ混じりの龍翔の声に、明珠はあわてて口を開く。
「あの、龍翔様。私は別に、お風呂じゃなくて、濡らした布で身体を清めるだけでも……」
入れたら嬉しいが、龍翔を困らせてまで望むことではない。
一つ吐息した季白が、あっさりと言い放った。
「要は、張宇が見張りに立っていて、不自然に思われなければいいのです。――お二人で一緒に入られては?」
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