10 お風呂もゆっくり入れません? その2


「「なっ!?」」

 息を飲んだのは、明珠か龍翔か。


「何を言い出す!?」

「なんてこと言うんですかーっ!?」


 明珠と龍翔の叫びが、見事に調和する。


「いっ、一緒にって、一緒にって……っ!? 季白さんの破廉恥はれんち――っ! むぐっ!」


 思い切り叫ぼうとした口元を、龍翔の大きな手にふさがれる。

「明順。すまんが、さすがに声が大きすぎる」


 風呂上がりで温かな大きな手。龍翔の手の熱が移ったかのように、瞬時に顔が沸騰ふっとうする。


 動揺のあまりよろめいた身体が、広い胸板に受け止められる。明珠の腰に腕を回して支えた龍翔の困りきった声が、耳のすぐそばで聞こえる。


「気持ちはわかるが、声は抑えてくれ。代わりに、季白を殴り飛ばしていいから」


「殴……っ!? いえ、そんなことしませんけど……っ」


 反射的に返すと、明珠の息がふれた手のひらが火傷やけどでもしたかのように、龍翔があわてて手を口から離す。腰の腕も外れ、ほっとする。


「では、代わりにわたしが殴ろう」

「り、龍翔様! さすがにそれは、その……っ」


 大真面目に言い切り一歩踏み出した龍翔の袖を掴んで引きとめる。


 明珠だって、季白の口を縫いつけてやりたい気持ちになったが、さすがに流血沙汰は駄目だ。

 明珠に止められた龍翔が、苛立ちを隠さず季白を睨みつける。


「季白、気でも狂ったか!? ふざけるなっ! そんなこと、できるはずがないだろうが!」

 龍翔が乱暴に季白の腕をつかみ、大股に扉に歩み寄る。


「どこに敵が潜んでいるかわからん状況で、大切な従者に警護をつけるのは当然のことだ! 異論は認めん! 明順だけ特別扱いなのが目立つというのなら、お前達が入る時も互いに警護し合え!」


 季白を引きずるようにして龍翔が出て行く。明珠は、呆気あっけにとられて二人の背中を見送った。


 ◇ ◇ ◇


 明珠が湯殿から出ると、廊下の少し離れた所に張宇がいた。その距離に、張宇の気遣いを感じる。


「ゆっくり入れたか?」

「あ、はい。ありがとうございます」


「じゃあ、次は季白と交代で、俺も入らせてもらうかな」


「どうぞどうぞ、すっごく広いお風呂で、私、感動しちゃいました! じゃあ、私は先に戻らせていただきますね」


 ぺこりと一礼して張宇と別れ、部屋へ戻る。

 すでに日はとっぷりと暮れているが、廊下のあちらこちらに灯火があるので、歩くのに支障はない。


 官邸は中庭を囲んで廊下があり、部屋が並ぶという龍華国の伝統的な造りだ。

昨日、一度通ったきりなので自信はないが、中庭は主に二つあり、公務に使われる執務室や、総督が住まう本邸部分と、龍翔のような客人用の離れに二分されているようだ。


 右手に広がる庭は、今は闇の中に沈んでよく見えないが、高低をつけて木々が植えられているらしく、明るいところで見れば、さぞかし美しいのだろうと、たやすく想像できる。


 春ののどかな夜気にまぎれて、花々の香りが流れてくる。

 乾燥した地方で、これだけたくさん植物を植えているという一事だけでも、官邸の豊かさがわかるというものだ。


「戻りました」

 部屋に入ると、龍翔は入口に近い卓に座って、何やら巻物を読んでいた。


 右ひじを卓につき、手の甲に頬を乗せた姿勢は、いつも凛としている龍翔には珍しい。ほどかれたままのつややかな髪が、広い肩にはらりと落ちていた。

 明珠の声に龍翔が巻物から顔を上げ、にこりと微笑む。


「ゆっくりと入れたか?」

「はいっ。あの、本当にありがとうございます! すごく立派なお風呂でした! 広くって、壁には綺麗な絵もあって……」


「ああ、うん。その。よかったな……」

 なぜか、龍翔が気まずそうな顔で視線を逸らす。


 その仕草に、不意に先ほどの季白のとんでも発言が脳裏に甦って、瞬時に頬が熱くなる。


 今、この部屋にいるのは、龍翔と明珠の二人きりだ。季白はおそらく隣の部屋にでも控えているのだろうが、何の気休めにもならない。


 気まずい。気まず過ぎる。


「そ、そのっ。龍翔様もお風呂上がりで喉が渇いてますよね? えーと、私、お茶でももらってきますねっ」


 一番奥の衝立ついたての向こう、明珠の寝台や長持ちが置かれた場所に駆け込み、自分の着替えを放り出すと、龍翔の返事も聞かずに部屋を飛び出す。


 今夜は、妙に居心地が悪い。いや、どう考えたって季白が悪いのだが。


 龍翔が少年姿ではなく、青年姿というのも、きっと原因の一つだ。だが、それに関しては、これから慣れていくしかないだろう。


 頬がまだ、熱い。

 小走りに進むと、頬に当たる夜風が気持ちいい。


 この熱さが湯上りのせいか、それとも別の何かが原因か……。明珠には、判断できなかった。

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