18 目覚めた瞬間、大混乱? その3


「龍翔殿下。もう一曲いかがでございましょう?」

 範の問いかけに、春を題材にした曲の名を適当に答える。


 いつもの龍翔なら、こんな茶番、早々に切り上げている。


 しかし、今日に限って、そう上手くもない演奏に渋々つきあっているのは、ひとえに部屋に戻って明珠と顔を合わせるのが、どうにも気まずいからだ。


 さっきはあわただしかったので、明珠も冷静な判断を下せなかっただろうが、もし部屋に戻った時に、明珠に軽蔑の眼差しを向けられたら……。


 そう考えた瞬間、目の前の卓に置かれ、つまんでいた菓子を、動揺のあまり、落としそうになる。


「っと……」


 それほど動揺してしまった自分自身に、驚く。

 誰かに嫌われてしまったかもしれないと心配するなど、生まれてこのかた、経験がない。


 龍翔の人生は、生まれる前から、誰かにうとまれ、憎まれる人生だった。


 嫌われ、死を望まれるほど憎まれるのが当たり前で――生き残るのに精一杯で、誰かに好かれたいという感情など、生まれる余地さえなかった。


 逆に、近しい人々、季白や張宇達はもう、龍翔と運命共同体のようなもので、好悪の感情を抱く次元は、遥かに超えている。


(わたしは、明珠に嫌われるのを、恐れているのか……?)


 初めて味わう感情に、自分の心の形がうまくつかめない。


「失礼いたします」

 形を成さない思考は、突然現れた季白の声に断ち切られる。


「おくつろぎのところ、申し訳ございません。龍翔様に、がく将軍からの急ぎの使いが参っております」


 深々と一礼し、場に割って入った季白が、龍翔に視線を寄越す。

 とかめるような眼差しに、龍翔はいまさらながら、己の身体に気がついた。


 明珠とくちづけしてから間もなく、二刻になろうとしている。

 何度も変化を繰り返すうち、なんとなくだが、そろそろ元の姿を保てなくなりそうだという感覚をつかめるようになってきた。


 もう、間もなく刻限がくる。


 そんな重大事さえ気づかぬほど、考えにふけっていたのかと我ながら呆れてしまうが、今はそれどころではない。


「範総督、宝春嬢。楽しい時間を過ごさせてもらった。急で申し訳ないが、失礼する」

 言葉だけで詫び、さっと立ち上がる。


「ありがたいお言葉、もったいのうございます。宝春のことでございましたら、いつでもお申しつけください。殿下のためならば、いくらでもおそばに侍ります。殿下のおそばに侍られれば、娘も喜ぶことでございましょう」


 父の言葉に宝春が頬を染め、艶の混じった視線を向けてくる。龍翔は頷きもせずに背を向けた。


「では」

 四阿あずまやを出て、声が届かぬ距離になった途端、季白が責めるように眉をひそめて口を開く。


「いったい、範殿とどんな重要な話をなさっていたのです? 解呪の刻限ぎりぎりまで、出られていらっしゃるなど……」


 季白はまだまだ文句がありそうだが、

「明珠を近くまで連れてきております。こちらの茂みへ」

 と、とりあえず説教は後回しにし、龍翔の袖を引く。


 人目を遮るかのようによく茂った低木のそばに、明珠が身をかがめていた。

 龍翔と季白の姿を見とめると、あわてた様子で立ち上がる。


「明順……」

 緊張した様子で龍玉を握る明珠の前に立つ。


「その……。嫌ではないか?」


「え?」

 ふれるのをためらい、距離を開けたまま問うと、明珠がきょとんと首を傾げる。その顔は、何を聞かれたのか、明らかに理解していない表情だ。


「その、夕べのこともあるし、わたしにふれられるのがだな……」


 気まずい。我ながら情けないことに、語尾が不明瞭に消えていく。

 だが、身体の方は、いつ少年姿になってもおかしくない状況だ。


「ええい、話は後だ」


 戸惑い顔の明珠を引き寄せる。理性というより怯懦きょうだが、すんでのところで、くちづけを優しいものに変えた。


 刻限ぎりぎりだったところに、蜜の香気が一気に流れ込み、酩酊めいていして立ちくらみを起こしそうになる。


 無意識に華奢な腰を右手で引き寄せ、左手ですべらかな頬にふれる。

 少年に変装しているため、幾重にも布を巻いた腰は、抱き心地に違和感を感じるが、それでも布の下のまろやかな曲線を隠しきれていない。


 抱き寄せれば、すぐに娘だとわかってしまうだろう。――そんな事態を、他人に許す気はないが。


 優しく――しかし、優に三刻は戻れるだけの長さをくちづけ。


「……怒っては、いないか?」

 ひるみそうになる心をおして尋ねると、首まで薄紅色に染めた明珠が、あわてたように口を開いた。


「えっ!? 私、何か粗相そそうをいたしましたか!? 季白さんが怒ってるんですかっ!?」


「なぜそこで季白の名が出てくる?」

 思わず眉をしかめると、


「だって……」

 と明珠が当て布をした肩を落とした。


「その……。私が朝、邪魔をしたせいで、《気》が足りなくなって、大切な話し合いを中断する羽目に……」


「あんなもの、重要なものか!」

 語気強く否定すると、明珠が驚いたように目を見開いた。


「お前が怒っていないか確かめる方が、わたしには何百倍も重要だ」


「え? 怒るって……。どうして私が龍翔様に怒ることがあるんです!?」


「お前を無理矢理、寝台に引きずり込んだだろう?」

 自分で口にした内容に、昨夜の己を殴り飛ばしてやりたくなる。


 言葉にすると嫌でも己の愚行を思い知らされ、胃がきりきりと痛む。

 龍翔の言葉に、明珠は愛らしい顔をさらに紅く染める。


「あ、あの、それについては……っ。ほんと、私は怒ったりとかそんなの、全然していませんので! むしろ、私の方が不敬罪で罰せられるんじゃないかって……」


「わたしがお前を罪に問うわけがなかろう」

 憮然ぶぜんと告げると、明珠が救いの手を見たような顔になる。


「で、では、どちらも悪くないということで! それで、この話は終わりにしませんかっ!?」


「お前は、それでいいのか?」

 釈然としないものを感じながら問うと、明珠はこくこくこくっ、と千切れそうな勢いで首を縦に振る。


「……お前がそう望むのなら、そうしよう」

「ありがとうございます!」


 明珠が嬉しそうに頭を下げたところで、「そろそろ、よろしいですか?」と、季白が茂みの向こうから声をかけてくる。


「ああ。明順、ひとまず戻ろう」

 明珠と茂みの影から抜け出すと、渋面の季白が待っていた。


「何をぐずぐずとなさっていたのです? 人目についてはまずいのですから、手早くお済ませください」


「鍔将軍からの使いというのは?」

 季白の文句は無視し、問いかける。


「わたくしどもの部屋で待たせております」

 部屋へと戻りながら、きびきびと季白が答える。


 鍔将軍には、数日に一度、官邸まで使いを寄越すように命じてある。お互いに得た情報をやりとりするためだ。


 それと――。

 ちらりと後ろを振り向くと、最後尾を歩いていた明珠と目が合った。


「? 何でしょうか?」


 きょとんと小首を傾げて尋ねた明珠に、龍翔は弾む気持ちを押し隠し、「何でもない」とかぶりを振った。

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