18 目覚めた瞬間、大混乱? その2
「ち……」
桜色の唇がわななく。
「ち、違います! 過ちって言ったのは言葉のあやです! 夕べの龍翔様はその、おでこにく、くくく……。と、とにかく! 私を抱っこしたまま眠られただけで、他に何もしていませんっ!」
「……ちっ」
背後で小さく舌打ちの音がした。おそらく季白だ。だが、今は問い詰めている暇はない。
「本当か?」
重ねて問うと、明珠が泣き出しそうな顔で視線を上げた。
「どうして私が嘘をつく必要があるんですかっ!?」
怒ったような表情に、真実だと確信する。
「すまん。その……。酒で記憶を失くした事態など、初めてでな。お前を傷つけるようなことをしでかしたのではないかと、不安だったのだ……」
謝ると、明珠がふる、とかぶりを振った。
「傷つけるだなんて、そんな……。龍翔様がそんなこと、なさるはずがないです。その、少し困りましたけど、私もそのまま寝ちゃったので、同罪ですし……」
明珠が恥ずかしそうに長いまつげを伏せる。
何だこの可愛い娘は、と思い、同時に、明珠から寄せられる曇りない信頼に、思わず苦笑がこぼれる。
一時の欲望で、明珠を傷つける羽目にならなくて、本当によかった。
「……龍翔様。今日の午前中は、総督から直々に紹介したい方がいると言われておりますが……。いかがいたしましょう? 夕べの酔いがまだ残っていると、お断りしておきましょうか?」
まるで、明珠と離れがたいと思っている心を読んだかのように、季白がどこか期待するような声で言う。
いつも、「公務は決しておろそかになさらないでください。いったい、何を理由に
明珠に視線を留めたまま、「いや」とかぶりを振る。
「総督が改まって紹介したいというのなら、それなりの人物なのだろう。こちらの都合でないがしろにするわけにもいくまい」
明珠と離れがたいという気持ちは、もちろんある。だが、少年姿とはいえ、このまま明珠と一緒にいるのは危険だと、理性が警鐘を鳴らしている。
せっかく夕べは、何事もなく明かせたというのに。
「龍翔サマったらまっじめ~。午前中くらい、明順チャンと寝台で過ごしてもバチは当たらないっスよ?」
「安理さんっ!? なんてことを言うんですかっ!?」
からかいまじりに背中を押すような安理の声と、明珠の反応に、かえって理性が働き始める。
安理を振り返り、唇を歪める。
「わたしはお前と違って働き者なのでな。お前のことだ。わたし休めば、お前もなんだかんだと理由をつけて、さぼる気だろう?」
「アレ? やぶへびだった?」
安理がおどけた様子で肩をすくめる。
「あの、龍翔様。総督の前に出られるのでしたら、その……」
困り顔で遠慮がちに口を開いたのは、張宇だ。真面目な張宇は、明珠に気を
「ああ、そうか。……お前達、出ていろ」
三人を見もせず命じ、明珠に視線を戻すと、愛らしい
困り顔すら可愛くて、このままもっと困らせてみたいと、悪戯心が湧いてしまう。
「……お気が変わられたら、お声かけください」
季白の言葉を皮切りに三人が退出し、内扉が閉まる音を背後で聞く。
明珠の手首を掴む手に力を込めると、
「あの……」
戸惑った声を上げた明珠の方を空いている左手でつかみ、寝台に押し倒す。
「きゃっ」
小さな悲鳴を上げて、ぽすんと布団に仰向けになった明珠の上に、身をかがめる。
自然と、唇が柔らかな笑みを浮かべる。
「夕べは、かつてなく心地よく眠れた。お前のおかげだな」
「お酒に酔ってらしたからじゃ……」
言い返した明珠に、微笑んでかぶりを振る。
「酒なら何度も呑んだことがあるが、夕べのようになったことはない」
仰向けに倒れたせいで、咲いた花のように寝台に散った黒髪を一房すくい、そっとくちづける。
明珠が唇にくちづけされたように頬を赤らめた。
「わたしを酔わせるのは、お前だけだ」
「え……?」
きょとんとする明珠に小さく笑って、「龍玉を」を促す。
掴んでいた手首を放すと、明珠が素直に守り袋を握りしめた。
目を固く閉じ、緊張に身体を固くする明珠の唇に、怯えさせないよう、優しいくちづけを落とす。
流れ込む蜜の香気が、一瞬で龍翔を
どんな酒よりも龍翔を酔わせる、甘い美酒。
このまま飲み干してしまったら、どれほど満たされることだろう。
「……夕べ、よく手を出さなかったものだ」
ちゃんと起きている今でさえ、先ほどの季白の甘言に乗ってしまいたくなるというのに。
「り、龍翔様。もうよろしいですよね!? どうぞ、お放し……」
顔を真っ赤にして、居心地悪そうに身じろぎする明珠に、悪戯心が刺激される。
「つれないな。夕べは、わたしの腕の中で気持ちよさそうに眠っていただろう?」
「そ、それはっ、龍翔様を起こしてしまっては申し訳ないと……っ」
「……そうなのか?」
真っ赤な顔のまま、明珠が頷く。
「あまりにも心地よさそうに眠ってらっしゃったので、起こしてしまうのが申し訳なくて……」
「それで、わたしの腕の中で眠ってしまうとは。まるで、狼の巣の中で眠る兎だ。いつ喰われてしまっても知らんぞ? ……こんな風に」
呟いて、柔らかな唇へくちづけようとし。
「に、二回も必要なんですかっ!?」
両手で口元を覆った明珠の手の甲に、阻まれる。
「それ、は……」
無意識にとろうとした行動に、
自分はいま、何をしようとした?
何も考えず、ごく自然に明珠にくちづけしようと――。
「すまん。悪ふざけが過ぎた」
自分で仕掛けた罠に、自分が
単なる悪戯のつもりだったのに――これでは、いつ「ついうっかり」明珠に手を出してしまうか、知れたものではない。
そんな事態など、決して許せないというのに。
これは危険だ。危険すぎる。
理性ががなり立てる警鐘に素直に従って、明珠を解放し、そそくさと寝台から下りる。
「わたしはあちらの部屋で着替えて、そのまま総督の元へ行く。お前は、こちらでゆっくりしているといい」
気まずさに、明珠の顔を見られない。
見て、ふれれば、また甘い蜜の香りに
龍翔は明珠の返事も聞かずに、足早に隣室へ移動した。
◇ ◇ ◇
(わざわざ会わせたい人物がいると言われて来てみれば……。とんだ茶番だ)
はあっ、と心の底からつきたい溜息を、胸中で飲みこむ。
龍翔がいるのは、総督官邸の中庭にある
水の貴重な乾晶では珍しく、周囲には青々とした緑が広がっている。おそらく、乾晶でもっとも花と緑にあふれた場所だろう。
それはそのまま、総督の富と権力の象徴でもある。
庭師たちの手で丁寧に手入れされた庭園は、木の一本でさえ計算されたような配置で、四月の今は、さまざまな花が競うように咲き誇り、かぐわしい香りを振りまいている。
縞模様の大理石でできた、異国情緒を感じさせる四阿にいるのは、龍翔と
範の妻も紹介されたが、彼女は四阿に移動する前に下がってしまった。
龍翔自身は、総督が直々に紹介したい人物がいるとだけしか聞いていなかったため、昨日の宴に都合がつかなかった有力者か、龍翔とよほど
(まさか、娘とはな)
冷めた眼差しで、目の前で箏を弾く宝春を見やる。
年の頃は十五、六歳か。明珠と同じ年頃だ。
薄紅色と黄の華やかな絹の衣装を
うっすら化粧をした顔は、父親の範ではなく、美人の奥方に似て、愛らしくはあるが、所詮、十人並みの容姿でしかない。
宝春の後ろに控える数人の侍女達の中に、昨夜の酌女が一人もいないのは、、宝春の他に、少しでも龍翔の目を引く者がいないようにという配慮だろうか。
どちらにしろ、幼い頃を
「龍翔殿下。いかがでございましょう? 我が娘の宝春は。父に似ず、器量よしに育ちまして。行儀作法も、どこに出しても恥ずかしくないよう、
一曲、春を題材にした曲を弾き終えた宝春が一礼し、恥ずかしそうに龍翔に視線を寄越す。
緊張しているのか、ふっくらした頬は薄紅色に染まっていて、いかにも人馴れしていない深窓の令嬢といった風情だ。……それがどこまで演技なのかは知らないが。
「可憐な調べであった。今を盛りにと花が咲くこの庭園で聞くと、いっそう風情があるな」
微笑んで告げると、宝春の顔が
「龍翔殿下にお褒めの言葉をいただけるなんて……。嬉しゅうございます」
うっとりと返す宝春に軽く頷き、龍翔はさて、と思案する。
範は何を企んで、着飾らせた娘をわざわざ龍翔に引き合わせたのだろう。
龍翔は身分こそ第二皇子だが、いまだ妻も婚約者も愛妾もいない。
第一皇子派、第三皇子派に
おかげで、余計なことに
一昨日からの範の言動を見る限り、範は総督の人気を大過なく勤めあげるのを第一と考えるような、かなりの保守派だ。
その範が、大切な娘をよりよにって龍翔に
が、先ほどから範はやけに熱心に娘を
昨日、
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