39 美味しく食べられるのはなんですか!? その2


「何のために、昨日今日と、わたしが不在にしていたと……。まったく、食べるなら別のものをいただいてくださればよいものを……っ!」


 いらいらと呟く季白に、明珠はあわててつけ加える。


「ええとあの、お菓子を食べていたのは私だけで、龍翔様はほとんど口をつけられなくてですね……」


「そんなことはどうでもよいのですよ!」

 季白の眉間に、深い縦皺たてじわが刻まれる。


「あなたは、むしろさっさと食べられればいいんですよっ。まったく、無防備なくせに妙なところで手強い……っ!」


「……?」


 季白の言葉の意味がわからず、きょとんと首をかしげると、はなはだ苦々しげににらみつけられた。

 氷のような切れ長の眼差しに、背筋が凍る。


「あ、あの……?」


 じっ、とまるで商品を観察するような冷たい視線に、背中に冷や汗が吹き出す。

 いったい、季白はどうしたのだろう。視線の圧力が、ただごとではない。


「季白さん、どうしたんですか!? 何か粗相そそうをしたのなら、黙ってないではっきり叱ってください! 無言の沈黙の方が、よほど怖いです!」


 明珠の泣き言は、季白の深い溜息に封じられた。


「……そもそも、小娘に食われるほどの媚態びたいを期待するのが間違っていますね。まったく龍翔様も、こんな色気の欠片もない小娘を気に入られるなど、何という酔狂か……」


「き、季白さん……?」


 季白が言いたいことはよくわからないが、口ぶりからして、自分にも龍翔にも、はなはだ失礼なことを言われている気がする。


 明珠が季白に叱られるのは慣れっこだ。

 だが、忠誠心の塊のような季白が、龍翔への暴言を口にするなんて。


「ど、どうしたんですか、季白さん!? 熱でもあるんですか!? お仕事、頑張りすぎて、お疲れなんじゃ……っ!?」


 心配のあまり、熱を計ろうと季白の額へ手を伸ばすと、邪険に振り払われた。


「何をするんですか! わたしはいたって健康ですよ! ええっ、どこかの小娘のせいで、はなはだ頭が痛くはありますがね……っ!」


「ええっ!? それってやっぱり、熱があるんじゃ……っ!? ちゃんと計った方がいいですよ!」


「ですから、あなたに心配されるいわれはないと……!」

 熱を計ろうとする明珠と、抵抗する季白とでもみあいになる。


「ダメですよ! ちゃんと熱があるかどうかみないと……っ!」

「大丈夫だと言っているでしょう!」


 季白に睨まれたが、ここばかりは明珠も引かない。


「真面目な人は、そう言って無理をするんです! 母さんが倒れた時だって、そんな風に大丈夫だって言ってて、ある日急に……っ!」


 過去の痛みを思い出して、目が潤む。泣くまいと、唇をみしめた時。


「何を騒いでいる?」

 張宇が明けた扉から、龍翔が姿を現した。


 いぶかしげな視線が、もみ合う明珠と季白をとらえた瞬間。

 大股に歩み寄った龍翔が、季白の手を力づくで明珠から引きはがす。


 季白の手が離れたかと思うと、今度は龍翔に掴まれた。かと思うと、ぐいと引き寄せられる。


「季白。明珠に何をした?」


 目をすがめた龍翔から、ひやりと冷気が立ち昇る。

 季白から庇うように明珠を抱き寄せた龍翔の視線は、刃のように鋭い。


「何もしておりません」

 龍翔の威圧感に気圧された様子もなく、季白が淡々と答える。


「しかし、明順が――」


「龍翔様! 季白さん、調子悪いようなんです! でも大丈夫と言い張るし、熱も計らせてくれなくて……っ!」


 ここぞとばかりに龍翔に訴える。

 龍翔の言葉なら、季白だって聞き入れるだろう。


「何?」

 眉を寄せた龍翔が、空いている方の手を季白に伸ばす。


 龍翔が相手だからなのか、季白は抵抗する素振りもない。むしろ、自分から額を寄せるほどだ。


「……熱など、なさそうだぞ?」

 しばらく季白の額に手のひらを当てていた龍翔が告げる。


「わたくしは健康です。ですが、何やら誤解した明順が、わたしの言を聞き入れなかったのですよ」

 季白が迷惑そうに吐息する。


「だが……。明順が言うからには、何か徴候があったのだろう? 本当に、無理などしていないのか?」


 龍翔が心配そうに顔をしかめる。季白が感極まったように一礼した。


「龍翔様にご心配いただけるとは、ありがたいことでございます。ですが、ご安心くださいませ。わたくしは、龍翔様がご確認された通り、健康そのものでございます。溜息をついたのを、明順が大げさに勘違いしただけです」


「それならよいが……。明順も納得したか?」

「は、はい……」


 龍翔の優しく問われ、頷いた明珠は、もぞもぞと龍翔の腕の中で身じろぎした。


「あ、あの、お騒がせして申し訳ありませんでした。私の誤解だとわかりましたので、もうお放しください!」


 風呂上がりの龍翔の身体は、布越しでもわかるほど温かく、その熱が明珠にまで伝わってくるようだ。


 というか、このままでは、明珠の方が熱を出す。


 たくましい胸板を押し返すと、ようやく腕が緩み、明珠は逃げるように離れる。

 振り向くと、気を遣ってくれたのか、張宇があらぬ方向に身体を向けていて、さらに恥ずかしさが募る。


 季白が大きく吐息した。


「さあ、誤解もとけましたし、もうよいでしょう? 明順、あなたも先に湯を使ってきなさい」


「え、でも、私が季白さんや張宇さんを差し置いて先にだなんて……」

 遠慮すると、「いいんですよ」とあっさり季白が首を横に振った。


「あなたが湯を使っている間、張宇は見張りをしなければならないのですから、後の方がいいでしょう。それに、わたしはこれから龍翔様に報告したいことがありますから」


「そうだぞ。俺達に気を遣う必要はないからな?」

 張宇が優しく気遣ってくれる。


「明珠。季白達に気を遣う必要はない。まもなく夕食も運ばれてくるだろうし、さっぱりしてからの方が、食事も美味いだろう?」


 龍翔にもうながされ、明珠は厚意に素直に甘えることにした。

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