39 美味しく食べられるのはなんですか!? その1
夕刻、龍翔が張宇を見張りに風呂へ行っている間、明珠が部屋の片付けや荷物の整理をしていると。
「明珠、少しよいですか?」
季白が部屋の扉を叩いた。
「はいっ、何でしょうか?」
明珠が開けた扉から入ってきた季白が、何本もの巻物を卓に置く。
「あなたに新しい仕事です」
「はいっ!」
冷徹な季白の声に、ぴんっ、と背筋が伸びる。
「次は何をすればよろしいのでしょうか?」
また巻物をまとめるのだろうか?
あまり得意とは言えない仕事に、怖々と巻物を見ていると。
「あなたには、この巻物の内容をしっかり頭に入れてもらいます」
「ええっ!?」
予想外の指示に驚きの声が出る。
「内容を頭に入れるって……」
ひいふうみい、と卓の上の巻物を数える。明珠の腕くらいの太さはゆうにある巻物が、六本。
「も、もしかして、一字一句覚えなきゃいけなかったりしますか……?」
無理、官吏試験の受験者でもないのに絶対無理! と思いながら、びくびくと季白の顔をうかがうと、季白の視線が鋭くなる。
「なんて情けない顔をしてるんですか!? それでも龍翔様の従者ですか!?」
「す、すみませんっ」
背筋に竹竿でも通されたように、ぴしりと背を伸ばす。
「仮にも龍翔様の従者なら、そんな情けない顔を見せるのではありません! 外ではどんな者がどんな理由で龍翔様の足を引っ張ろうとしているかわからないのですよ!? 自ら弱点であると
「も、申し訳ありませんっ!」
腰が直角になるほど頭を下げる。が、そこからどうすればよいのかわからない。
今、顔を上げても絶対に情けない顔のままだ。それでは、また季白に叱られるだろう。
頭を下げたまま固まっていると、諦め混じりの吐息が降ってきた。
「まあ、一朝一夕には直らないでしょうから、おいおい指導してあげましょう」
どんな鬼指導なのか、今から怖い。怖すぎる。
「いっそのこと、龍翔様にお願いしてもいいかもしれませんね……」
(それ、見本の御方に気品がありすぎて、どう頑張っても真似のしようがないと思います……)
人を魅了せずにはいられない所作も立ち居振舞いも、あれは龍翔だからこそできる天性のものであって、指導してもらったからといって、会得できるとは思えない。
(龍翔様に、お手間とご迷惑をかけるだけになってしまうのでは……?)
が、季白が怖いので、今は黙っておく。
「で、この巻物ですが」
一つ咳払いした季白が話題を戻す。
「別に、一字一句、違わず暗記しろとまでは言いません。内容は、しっかり頭に入れてもらいますが」
「あの、そもそも、この巻物には、どんなことが書かれているんでしょうか……?」
「王都の王城で勤めるにあたって、従者として覚えておくべきことや、注意点についてですよ」
「王都ですか!?」
明珠は、王城どころか、王都にすら足を踏み入れたことがない。
王城での注意点と言われても、全くと言っていいほど、想像がつかない。
が、巻物の量や季白の表情から推測するに、きっと単なる貴人の屋敷などとは比べ物にならぬほどの細々とした規定や約束事があるのだろう。
「も、もし王城で失敗をしてしまったりしたら……。縛り首にでもなるんでしょうか……?」
もちろん、失敗などしたくはないが、あまりに遠い世界過ぎて、不安しか湧いてこない。
ぷるぷる震えながら季白を見上げると、明珠がこれまで見たことがないくらい、季白が優しげな笑みを浮かべる。
「失敗せぬために、事前にしっかり学んでおくのですよ。あなたのために、忙しい間を縫って、わざわざ覚えるべきことをまとめたのですからね」
にこにこと、この上なく優しい声音で、季白が告げる。
「……可愛い弟くんに、
「ひいぃぃぃっ! しっかり! しっかり覚えますっ! 必死で勉強させていただきますっ!」
恐怖のあまり、手に持っていた巻物の一本を、ぎゅううっ、と強く抱き締める。
季白が満足そうに頷いた。
「ええ、期待していますよ。あ、ちなみにここにある巻物は、基礎の基礎ですからね。他にも学ぶべきことは、たくさんありますから」
「は、はいぃっ、頑張ります……っ!」
涙目になりながら、明珠はこくこく頷く。
覚えるのは大変だろうが、龍翔に仕え続けたいというのは、明珠自身の願いだ。
元々が、庶民の明珠が仕えられるような御方ではないのだ。道理を曲げるのならば、多少の無理だってなんだって、努力と根性で何とかするしかない。
明珠が季白や張宇、安理の足元にも及ばないのは、十二分に承知している。
だが、少しなりとも尊敬する主人の役に立てるのならば。
そのためなら、数本の巻物の内容を覚えるくらい、できないわけがない。
明珠自身は学問所に通った経験はないが、幼い頃、母に『蟲語』を習った経験はある。あとは頑張るしかない。
「あ、あのう。一つうかがいたいことがあるんですが……」
おずおずと季白に尋ねる。
「その、これを渡されたということは、王都に戻る日も近いということですか……?」
龍翔達が一刻も早く王都に戻りたいと考えているのは知っている。
だが、まだ賊の目星はほとんどついていないと言っていい。
明珠の問いに、季白は眉を寄せて吐息した。
「いいえ。まだ賊を捕まえていませんからね。残念ながら、今日明日で捕らえられるものでもないでしょう。ですが、事前に準備しておくにこしたことはありません。あなたも、まだ日があるからなどと油断せずに、今日からしっかり勉強するのですよ!?」
「は、はい! 承知してます!」
びっ、と背筋を伸ばして即答する。
「……本当は、王都に戻るまでに、何とかしたかったのですがね……」
季白が苦々しく顔をしかめ、吐息混じりにこぼす。
「そういえば明珠。今日は、龍翔様と二人でどのように過ごしていたのです?」
「えっ!?」
季白としては何気ない問いかけだったのだろう。
が、明珠にとっては凍りつくに十分な衝撃だった。
ごとっ、と明珠の手からすべり落ちた巻物が、ごろごろと床を転がる。
「ひゃああっ! す、すみませんっ!」
あわてて屈み、巻物を拾おうとする。が、動揺のあまり、指先が震えてうまく掴めない。
きっと今、首まで真っ赤になっているだろう。
龍翔と何をしていたのかと問われれば……。
先ほどの『鍛錬』を思い出した途端、頭が沸騰しそうになる。
正直、羞恥と混乱のあまり、記憶が判然としていない部分があるのだが……。たとえはっきり覚えていたとしても、そんなこと、季白に言えるはずがない。
明珠はようやく掴めた巻物をぎゅっと握りしめ、屈んだまま、季白を見上げる。
卓の陰になって、顔の紅さが季白に見破られなければいいと願いながら。
「お……」
「お?」
声が震える。季白がいぶかしげに眉を寄せた。
「お、お菓子を食べてました……!」
「お菓子!?」
ぎん、と季白の視線が鋭くなる。
ひいぃっ、と明珠は泣きたくなった。怒りに満ちた季白の視線が怖すぎる。
「あのっ、そのっ、さぼろうと思っていたわけじゃなくてですね……っ。その、龍翔様が、張宇さんに許可はとってあるから、日持ちしない菓子は食べてよいとおっしゃって……。だって張宇さん、ほんとにすごい量のお菓子を買ってるんですよ!?」
あわあわと、明珠は必死で説明する。
「あっ、さすが張宇さんが厳選したお店だけあって、どのお菓子もすごくおいしかったですっ!」
「菓子の味など聞いていません!」
季白のこめかみに青筋が浮かぶ。
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