54 祈る者、手に入れる者


「張宇殿! その黒い蟲だけは逃がしてはなりませんっ!」


 周康の声に、張宇は跳んだ。

 空中に何匹も浮いている板蟲ばんちゅうの背を蹴り、舞うように空中に駆け上がる。


 だんっ、と一番高い位置にいる板蟲の背を踏みしめ。


 『蟲封むしふうじの剣』が、枇杷びわの実ほどの大きさの闇色の蟲を、一刀のもとに両断する。


 途端、背筋が凍るような悪寒を覚える。


「《風乗蟲ふうじょうちゅう!》」


 周康がんだ風乗蟲が暴風を巻き起こし、よどんだ空気を打ち払う。


 張宇は強風によろめく板蟲の背を渡り、ふらつく刀翅蟲とうしちゅうを次々に斬り裂いた。

 空中を飛び回る刀翅蟲は、こうでもしないと刀が届かない。


 張宇が地面に下り立つと同時に、両断された刀翅蟲の死体がぼとぼとと地面に落ち、泥のように形を崩してけ消えてゆく。


「ひゅ~っ! さっすが張宇サン、やっるぅ~♪」


 ひゅう、とお気楽な口笛を吹いたのは安理だ。その手には弓が握られ、口を開いている間も、文字通り、矢継ぎ早に刀翅蟲を射殺している。


「……禁呪をかけられた時を、思い出しますね……」


 安理と同じく、弓を持った季白の低い呟きに、張宇の背筋を冷たい汗が流れ落ちる。


 季白の言う通りだ。

 二カ月前、龍翔が禁呪をかけられた時も、新兵がほとんどの派遣軍を、蟲で大混乱に陥れられ――龍翔が、混乱を収めようとしている隙を突かれた。


 今回も、敵は同じことを狙っていたのだろうか。


 張宇が斬り捨てた見たことのない黒い《蟲》には、おそらく禁呪がこめられていたに違いない。


「龍翔様を追うぞ! 周康、《風乗蟲》は使えるな!?」


 先ほどは仕方がなかったとはいえ、龍翔を護衛も無しで長く放っておくわけにはいかない。


 明珠がいれば、そうそうおくれを取ることはないだろうが……。卵を抱えて蒼白な顔をしていた明珠も心配だ。


 宿営地を襲った刀翅蟲は、今ので全て片づけたが、敵の術師がこの程度で諦めるとも思えない。


(どうか、どうか御無事で……っ!)


 敬愛する主人と、大切な妹分の少女の無事を、張宇は一心に祈った。



 ◇ ◇ ◇



「《聖域》などに来て……。狙いはやはり女王蟲か……?」


 蟲の足に捕まって木々の上を飛びながら、陽達はきょろきょろと眼下を見回した。


 馬で必死に追ったものの、風乗蟲の速度にはさすがについていけず、途中でへばってしまった馬の代わりに、《蟲》を使って《聖域》のある林まで来たのだが……。


 風乗蟲の姿は、どこにも見えない。もしかして、もう《聖域》の中にまで、入ってしまったのだろうか。


 焦燥と怒りに、ぎり、と奥歯を噛みしめた時。


「っ!?」


 陽達の目が、人影を捉えた。

 少し木々が空いた隙間。そこに、木の幹にもたれるようにして倒れているのは。


「明珠っ!?」


 蟲に指示するのももどかしく、地面に飛び降りる。


 これは、何かの罠なのだろうか。

 青年や晴晶が待ち伏せしているのではないかと、警戒しながら明珠に近寄るが……。木立の中はしん、と静まり返っていて、怪しい気配は欠片たりとも感じられない。


 ただ、明珠のひそやかな寝息だけが、陽達の耳に届く。


「明、珠……?」

 目を閉じたままの明珠にそっと呼びかけるが、返事はない。


 わずかに眉を寄せて眠る明珠の顔色は、風乗蟲に乗っていた時ほど、悪くはないが……。それでも、つらそうに見える。


 なぜ、明珠がこんなところに一人で放置されているのか、陽達にはさっぱりわけがわからない。


 だが、罠だろうと何だろうと、一向にかまわない。

 もう一度、明珠をこの腕に抱くことができるのならば。


「明珠……」


 眠る少女の隣に膝をついて屈み、そっと頬にふれる。

 我知らず、じわりと涙がにじみそうになって、陽達は奥歯を噛みしめた。


 ずっと昔にうしなったと絶望していた、誰よりも大切な少女。


 もう二度と、誰にも奪わせは、しない。


 いつ、青年と晴晶が帰ってくるかわからない。今は、一刻も早くこの場を離れなくては。


 陽達は、眠り続ける明珠の華奢きゃしゃな身体を、両腕でそっと抱き上げた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る