55 問う声が、ひびわれる


「ここが、《聖域》です」


 晴晶が龍翔を案内したところは、天然の鍾乳洞だった。晴晶が召喚した光蟲が道行きを照らす。


 潤晶じゅんしょう川の水源でもあるからだろう。洞窟の中は湿気が多く、足元はつるつると滑りやすい。晴晶が心配していた通り、ここを明珠を抱えて進むのは、困難だっただろう。


 先導する晴晶の後について、洞窟内を進んで行く。

 晴晶が《聖域》と告げた通り、進んで行くにつれ、自然の《気》が奥から漂ってくる。


 龍翔の《気》を吸い続けていた卵の勢いがわずかに弱まり、龍翔は、心中でひそかに安堵の息をついた。

 まるで、飢えていた赤子が母親の乳を吸いつくそうとするかのように、際限なく《気》を吸い取る卵は、脅威以外の何物でもない。


 もう少し、《聖域》に着くのが遅ければ、龍翔は《気》が尽きて、青年の姿を保てなくなっていただろう。


(龍玉があったとはいえ、明珠はこんなものを、一人でずっと抱えていたのか……)


 胸の中に、明珠の献身に対するいたわりと、無力な己への怒りが湧き上がる。

 蒼白な明珠の顔を思い出すだけで、胸が締めつけられ、今すぐ引き返したくなる。


(あの娘は、いつも、己以外の者のためにばかり、無茶をする……っ)


 明珠には、それほど龍翔が頼りなく見えるのだろうか。


 優しい明珠が、晴晶や晶夏を、ひいては堅盾族を見捨てられぬのだとわかっていても、苦い想いが湧き上がるのを止められない。


(明珠は、いつも甘すぎる……)

 龍翔は前を行く晴晶の成長途上の背中を見やる。


 いくら明珠が庇おうと、もし、晴晶が明珠に怪我をさせていたら、龍翔は決して晴晶を許さなかっただろう。

 己の大切な従者を傷つけられてまで、のんきに笑っていられるほど、龍翔は寛容ではない。


 晴晶は己がどれほどの幸運を得たのか、おそらく気づいていないだろう。龍翔にしても、教えてやる気など毛ほどもないが。


 一刻も早く明珠の元に戻るためにも、無駄口など叩いている暇はない。

 二人とも、気を抜けば滑って転びそうな洞内を無言で足早に進み。


「ここが……」


 晴晶が足を止めた時、龍翔は感嘆に思わず声を洩らしていた。


 鍾乳洞の奥。

 こここそが潤晶川の源だろう。満々と澄んだ水をたたえた地底湖。


 その向こうでまるで月の光をよりあわせたように淡く光輝くのは。


 ふつうの《晶盾蟲》の二倍以上の大きさはありそうな、女王蟲だ。


 女王蟲は龍翔と晴晶に気づいた途端、歓喜するように透明な羽根を震わせる。

 りぃんと鈴を震わせたような澄んだ音が響き、呼応して、晴晶が腰に着けた筒から、音が鳴った。


「晴晶」

 龍翔は手の中の卵をそっと晴晶に差し出した。


 自然の《気》が満ちているため、少し前から龍翔の《気》は吸われなくなっている。


「ありがとうございます」

 丁寧に受け取った晴晶が、女王蟲を振り返る。


「女王よ。あなたの大切なみどりごを確かにお返しいたします」


 りぃん、と再び澄んだ音が響く。

 蜂に似た姿をした《晶盾蟲》に表情はないはずなのに、龍翔には、女王蟲が微笑んだように見えた。


 女王蟲が複眼を持つ頭部を下げる。

 まるで礼をするような姿に、龍翔はふと、巷間に流布する《晶盾蟲》のおとぎ話を思い出した。


 堅盾族の始祖の青年と盟約を結び、この世界に生きることを選んだ《晶盾蟲》の女王蟲。


 きっと青年と女王蟲の間には、確かな絆が結ばれていたのだろう。

 晴晶が、卵を探すために、我が身もかえりみず必死になったように。


 晴晶が地底湖をぐるりと囲むように設えられた低い木の棚に歩み寄る。


 そこに置かれた柔らかそうな布の上に載っているのは、《晶盾蟲》の卵だ。だが、龍翔達が持ってきた次期女王蟲だという卵より、一回り小さい。

 木の棚の一部が真新しい木でできているのは、地震の後で作り直したからだろう。


 晴晶が、台の上の柔らかな布の上に、そっと卵を置く。

 愛おしむように卵の表面を撫で、棚から離れる。


「第二皇子殿下。このたびは、誠にありがとうございました」


 龍翔を振り返った晴晶が、地面に膝をつき、身体を折り畳むようにして深々と頭を下げる。


「女王蟲さえ落ち着けば、もう堅盾族は安心です。総督のお許しさえいただければ、すぐに《護り手》として乾晶に戻れます」


 頭を上げた晴晶は、真っ直ぐに龍翔を見つめた。


「これでもう、思い残すことはございません。どんな罪でもお受けいたします。ただ……。官邸に忍び込み、さらには殿下の従者殿を傷つけようとしたことは、すべて、わたくし一人の独断です。長の義盾ぎじゅんはわたしを止めようとしましたが、わたしが勝手に村を飛び出したのです。孝站こうたんも、わたくしに無理矢理、従わされただけ。《堅盾族》には、何の罪もございません。叶うならば、どうか、罪を償うのはわたくし一人でお許しくださいませ」


 覚悟を決めた者特有の、透き通った表情で告げた晴晶は、地面が濡れているにもかかわらず両膝をつき、深くこうべを下げる。


 龍翔は緊張と不安に震える少年の薄い肩をしばし見つめ。


「……わたしが派遣軍を率いて乾晶けんしょうへとやってきたのは、官邸を襲撃し、倉を破壊した賊を捕らえるためだ」


 低く静かな龍翔の声に、晴晶の身体がびくりと震える。


「お前は、最初の襲撃には関わりがないのだろう?」

「も、もちろんでございます!」


 晴晶が即答する。龍翔は、声音を変えぬまま、きっぱりと告げた。


「では、わたしが捕らえるべきは、お前ではないな」


「え……?」

 晴晶から、呆然とした声が洩れる。


 きょとん、と呆けた顔を上げた晴晶に、龍翔は小さく笑った。


「二度目の賊は、何も盗まなかったのだろう? とらえたとしても、裁く罪科がない」


 厳密に言えば、官邸を混乱させたということで、騒乱罪などが適用できるかもしれないが、官邸の警備は、龍翔が関与するところではない。


「むしろ、盗人というのなら、卵を盗ってきたわたしの従者が裁かれるべきであろう?」


 悪戯っぽく微笑むと、晴晶が顔を青くして、ぶんぶんと首を横に振った。


「いえっ、殿下の従者殿に、窃盗の罪を犯させようとは、まったく……っ!」


戯言ざれごとだ。気にするな」

 晴晶のあわてぶりが気の毒になって、龍翔は笑ってかぶりを振る。


「ともかく。わたしはお前を罪に問う気はない。わたしの望みは、堅盾族が元通り《護り手》に復帰し、乾晶の安寧を護り続けることだ。それに、わたしがお前を罰さずとも――」


 龍翔は黒曜石の瞳に力を込めて、晴晶を見据える。


「お前は、己がしでかしたことを、忘れぬだろう?」


「っ!」

 さあっ、と晴晶の顔から血の気が引く。


 晴晶の脳裏をよぎったものが何なのか、龍翔は知りえない。が、問い詰める必要はなかった。

 晴晶は蒼白な顔を生真面目に引き締め、こっくりと頷く。


「もちろんでございます。公に罪に問われなかったとしても、己の心に刻まれた罪の意識が消えるとは思っておりません。第二皇子殿下の御寛容に感謝し、今後はよりいっそう、己を慎みます」


 再度、深々と頭を下げた晴晶に、龍翔はやや声音を柔らかくして告げる。


「龍翔でよい。堅苦しいのは好かぬ。……お前が罪に問われぬのであれば、明珠も安心することだろう。さあ、一刻も早く明珠の元へ戻るぞ。お前も、義盾殿に早く報告したいだろう」


「はい!」

 晴晶が立ち上がり、龍翔と晴晶は来た道を急いで戻り始める。


 堅盾族以外の者が入れるはずの無い《聖域》の近くで、明珠に危害が及ぶはずもないだろうが……。身体中の《気》を失って、蒼白になっていた顔が、脳裏から離れない。

 それに、そろそろ龍翔の《気》も尽きそうだ。


 息と同じく、龍翔と晴晶は無言で足早に歩を進める。

 乾燥した西北地方とは思えぬほど、よく茂った木々の間を進み……。



「明珠……?」


 明珠と別れたはずの場所まで来て、龍翔は呆然と声を洩らした。

 少し開けた周りの様子は、明珠と別れた時のままだというのに。


 明珠の姿だけが、ない。


「明珠! どこにいる!? 返事をしろ!」


 叫ぶ己の声がひび割れているのを自覚する。

 どこか、木陰で気を失っているのだろうか。方向感覚には自信があるが、龍翔達が道を誤った可能性もある。


「晴晶! 明珠と別れたのは、この場所で間違いないな!?」


 みつくように問うと、不安そうに辺りを見回していた晴晶が、弾かれたようにこくこく頷いた。


「は、はい! ここで間違いありません!」


「ならば、なぜ明珠がおらん!? 晴晶、ここを通りかかった堅盾族の者が、保護したという可能性は……っ!?」


 万が一の可能性を考えて問うと、晴晶は申し訳なさそうにかぶりを振った。


「いえ。村の者が通るのは、ここより少し離れた獣道だけです。ここを通りかかることは……」


「明珠っ! どこだっ!? 頼むから返事をしろ!」


 明珠のことだ。少し回復して龍翔達を追いかけようとした挙句、迷子になっている可能性もある。


 だが……。

 なぜだろう。恐ろしい予感に、身体が震える。


「《感――!》」


 《感気蟲》をぼうとした瞬間。

 龍翔は、自分の《気》が尽きるのを感じる。

 

 全身を不可視の鎖でがんじがらめにされるような、脱力感。

 喚びかけていた《感気蟲》の気配が、断たれたようにぷっつりと消える。


 ずるり、と、ぶかぶかになった着物が肩からすべり落ち――。


 龍翔は、少年の姿に変じていた。



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