42 こんな愛らしくて気立ての良い娘を? その1


「明順。無理をして起きている必要などないのだぞ?」


 ふう、と一息ついた途端、急に襲ってきた眠気に明珠があくびを噛み殺すと、卓の向かいで巻物を読んでいた龍翔が、形良い眉をひそめた。


 明珠はふるふるとかぶりを振る。


「大丈夫です! 龍翔様が起きてらっしゃるのに、私だけ先に休ませていただくなんて、そんなことできませんっ」


 今は、いつもならとうに布団に入っている時刻だ。

 だが、安理が倉を確認しに忍び込んでいるため、何かあった場合に備え、龍翔が青年姿で待機している。


 そのため、明珠も龍翔も、まだ夜着には着替えず、ふだん着のままだ。隣室では、季白と張宇も待機しているだろう。


「すみません。私が起きていても、お役に立てることはないんでしょうけれど……」


 明珠にちゃんと術師として働けるだけの実力があれば、わざわざ龍翔に待機してもらうこともないだろうにと思うと、申し訳ない気持ちになる。


 しゅん、と肩を落とすと、読んでいた巻物から顔を上げた龍翔が、柔らかに笑う。


「そんなことはないぞ。お前がいてくれるだけで、待っている時間も、心楽しい」


「えっ、でも、巻物を読ませていただいているだけで……。あの、お茶を入れたり、おしゃべりしたりした方がいいですか⁉」


 待機することになった時、「どうせ待っているだけだ。好きなことをしているといい」と、龍翔が率先して巻物を読み始めたので、明珠もならって龍翔の向かいで巻物を読ませてもらっていたのだが。


「いや、茶はよい。それより、お前と談笑する方が、よほど楽しそうだ」


 黒曜石の瞳をきらめかせた龍翔が、さっそく実行する気なのか、読んでいた巻物を脇にやる。


「そういえば、お前は何を読んでいるのだ? 時々、ぶつぶつと呟いていたが……」

「えっ? 声に出してました⁉」


 確かに、ものすごく集中して読んでいたが、ぶつぶつ呟くあやしい人になっていたのだとしたら、ちょっと恥ずかしい。


 龍翔が笑って首を横に振る。


「いや、真剣に読んでいる姿が、愛らしかったぞ」

「へ?」


 久々に勉強しすぎて、頭が混乱しているらしい。

 幻聴が聞こえるなんて、根を詰めすぎたのだろうか。


「で、なんなのだ、それは。見たところ、物語のたぐいではないだろうが……」

「あ、これは季白さんお手製の指南書で……」


「季白の? もしかして、また無理難題を命じられたのか? ちょっと見せてみろ」


 龍翔が立ち上がり、大きな卓を回りこんで明珠の隣の椅子へ移動してくる。

 ふわり、と衣に焚き染められた香の匂いが近くなる。


 毎日見ていても見惚れそうに秀麗な面輪が間近に迫って、反射的に身体に力が入る。

 が、龍翔は気づいた様子もなく、明珠が読んでいた巻物に視線を落とした。


「王城の位置関係や、各省部の名前……?」


「その、王都に戻った時のために、しっかり覚えておくようにって……。即席官吏見習いの指南書です!」


 季白らしい几帳面な字でびっしりとまとめられたそれは、官吏の名称や役割などはもちろん、王都や王城の位置関係など、何も知らぬ明珠にもわかりやすく書かれていて、正直、指南書として売り出したら、馬鹿売れするのではないかと思う。


 いつも忙しそうなのに、その間を縫って明珠のためにしたためてくれたのだと思うと、恩を返すためにも、しっかり覚えなくてはと、背筋が伸びる思いだ。それに。


「龍翔様の従者として恥ずかしくないよう、頑張って覚えますね!」


 笑顔で告げると、龍翔が柔らかく微笑んだ。


「官吏見習いというのは、仮の身分なのだから……。無理に覚える必要など、ないのだぞ?」


 楽な道へと誘う甘い蜜のような声に、明珠はきっぱりとかぶりを振る。


「いけません! いただいているお給金分はしっかり働きます! それに、もし私の無知のせいで、龍翔様に恥をかかせるようなことがあったら、季白さんにどれほど叱責されるか……っ!」


 「減給」の二文字が頭の中を駆け巡り、ひいぃっ、と明珠は身体を震わせる。

 龍翔が苦く吐息した。


「確かに、王城へ戻れば、わたしのあらを見つけようとするやからは、嫌になるほど増えるだろうがな……」


 と、龍翔が明珠を見つめ、安心させるように微笑む。


「だが、お前がそのように気負う必要はない。何があろうと、お前にはわたしがついている。もちろん、張宇や季白もな」


 「ああ、だが」と、不意に長い指先が、明珠の頬にふれる。


「あの伏魔殿で、お前が嫌な思いをするやも知れぬと心配するくらいなら――」


 指先が壊れ物にふれるように明珠の輪郭りんかくをたどり、添えられた手のひらが頬を包む。

 そっと上を向かされた眼差まなざしがぶつかったのは、どこか危うさをはらんだ黒曜石の瞳。


「誰の目にもふれさせぬよう、ずっとわたしの部屋に大切に閉じ込めておきたくなるな」


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