42 こんな愛らしくて気立ての良い娘を? その2


「ひ……」

 ひくり、と緊張に喉が震える。


「ひ、必死で勉強します……っ! 龍翔様のお顔に泥を塗ったりしないよう、一生懸命、努めます……っ! すみませんっ、龍翔様にまでご心配をかけてしまう不出来ふできな従者で……っ!」


 自分が従者としていろいろと足りないのは自覚しているが、尊敬する龍翔に見限られたらと思うと、それだけで泣き出しそうな不安に駆られる。

 震えながらびると、目を丸くした龍翔が吹き出した。


「落ち着け。わたしはお前を、不出来な従者だなどと、思ってはいないぞ?」


 口元をほころばせた龍翔が、明珠の頬にふれていた手を頭にやり、ぽんぽんとあやすように優しく撫でる。


「特に、わたしの心をほぐすことにかけては、お前は一流だ」


「は、はあ……?」

 褒めてもらっているようだが、どこを褒められているのか、明珠には、よくわからない。


「それに」

 黒曜石の瞳に、悪戯っぽい光が宿る。


「何度も言っているだろう? お前には、単なる官吏見習いではできぬ、大切な役目があると」


 秀麗な面輪おもわが間近から明珠をのぞきこむ。

 同時に、明珠が雇われている理由を――余計なことに、午後の『鍛錬』まで思い出してしまい、一瞬で頬が熱くなる。


「あのっ、その……っ」

「ん?」


 首を傾げた龍翔は悠然と落ち着き払っていて……。『鍛錬』の時に垣間見た龍翔は、幻だったのではないかと思う。


「り、龍翔様は何を読んでらっしゃったんですか!?」


 気まずさにえきれず、明珠は別の話題を放り投げる。

 龍翔が面輪を上げ、卓の上に視線を戻した。


「季白が言っていた、十数年前に、砂波国が《堅盾族》を取り込もうとしていた事件とは、どんなものかと思ってな。当時の記録を読んでいた。時間が経ちすぎているため、今回の件とは無関係だろうが、もしかしたら、何か共通点が見つかる可能性もあるからな」


 龍翔が脇に押しやっていた巻物を引き寄せる。


「《堅盾族》を取り込もうとする画策は、十五年前に行われたようだ。しかし……」

 龍翔が渋面になる。


「どうかなさったんですか?」


「当時の詳細な事情が書かれた資料が全くなくてな。十五年前ゆえ、すでに破棄されてしまったのか、それとも、《堅盾族》のしきたりに関わることゆえ、あえてくわしく記さなかったのか……。ともあれ、義盾ぎじゅんが族長になったのは、この事件の時だな。そして、晶夏しょうかを養子として引き取ったらしい」


「晶夏さんを……」


 明珠は晶夏の純朴で愛らしい笑顔を思い返した。胸元に下げた《堅盾族》のお守りを、そっと握りしめる。


「……晶夏さんと、そこも同じだったんですね……」


「義盾と晶夏が、血がつながっていないということは、やはり晴晶せいしょうが次期族長となるか……」


 と思案顔で呟いていた龍翔は、明珠の小さな声に、「どうした?」と首を傾げる。


「あ、いえ……」

 聞き返されるとは思っていなかった明珠は、あわてて言い足す。


「その、晶夏さんとは、可愛い弟がいたり、母親を亡くしていたり、共通点が多いこともあって、すぐに仲良くなったんですけれど……。お父さんが義理というところまで、同じだったんだな、って……」


 だが、明珠が見る限り、義盾と晶夏は、義理の親子とは思えないほど、仲がよさそうだった。


 義盾は決して人前で娘を甘やかすような人物ではなかったが、晶夏が明珠に話してくれた思い出話や、義盾のちょっとした気遣いなどに、仲の良さは十分にうかがえた。


「……なぜ、そのように憂い顔をしている?」

「えっ? そ、そんなことは……」


 ふる、とかぶりを振ったが、龍翔は視線を逸らさない。

 心の底まで見通すような黒曜石の瞳に、明珠は一つ吐息して打ち明けた。


「その……。うちも義理の父娘ですけれど、母が亡くなってからは、義父とうさんとはあまり上手くいってなくて……。って、別に仲が悪いとか、そういうわけじゃないんですけどねっ」


 龍翔の目がすがめられた気がして、明珠はあわててぱたぱたと手を振る。


 母の麗珠が生きていた頃は、義父の寒節も明珠を可愛がってくれた。

 だが、はたから見てもわかるほど麗珠を溺愛していた寒節は、麗珠の死後、ろくに働かずに酒びたりになってしまった。


 血を分けた順雪じゅんせつには変わらず優しいし、何より、家計を切り盛りするのに精一杯で、明珠としても、今まで深く考えたことはなかったのだが。


「私には、大事で可愛い順雪がいますから! もう、父親にべったり甘えるような年でもありませんしね!」


 しいて明るい声を出し、なんでもないと言おうとした言葉が、途中で詰まる。


 明珠を見つめる龍翔の眼差しがあまりに優しくて。

 誘われるように、言うつもりのなかった本音が、ぽろりとこぼれ出してしまう。


「ただちょっと……。義盾さんと晶夏さんは、本当の親子みたいに仲が良くて、うらやましいなあって……」


「お前の義父を悪く言いたくはないが」


 するり、と、隣に座る龍翔の腕が明珠の背中側に回ったかと思うと、頭を龍翔の胸に引き寄せられる。


「こんなに愛らしくて気立ての良い娘を可愛がらぬとは、なまりででもできているのか?」


 胸元にもたれかけさせた明珠の頭を、龍翔があやすように撫でる。


 寄りかかった硬くて広い胸板も、大きな手も、母の麗珠とは似ても似つかぬのに。

 心のこもった優しい手つきが、昔、確かに愛情をそそいでもらっていた記憶を、自然と呼び起こす。


「忘れてました。こんな嬉しさ」

 ふふっ、と無意識に笑みがこぼれる。


 青年姿の龍翔がこんなに近いと、いつもは緊張してしまうのだが……。今は、心がほぐれていくような安心感と、喜びだけがある。


「母さんを亡くしてから、龍翔様や張宇さんにお会いするまで、頭を撫でてくれる方なんて、いませんでしたから」


 呟くと、龍翔の手がぴくりと揺れる。


「張宇か……。張宇なら、許すが……。しかし、妹と同列に扱うなと、もう一度釘を差しておくべきか……?」


 何やら難しい顔で呟く龍翔だが、明珠の髪を撫でる手は止まらない。

 ゆるゆると心がほどけてゆくような心地よさに、明珠は口元をほころばせた。


「なんだか、母さんに撫でてもらった時を思い出して、嬉しくなります……」


「……母親か……。まあよい。お前が喜ぶのなら、いつでも、好きなだけ撫でてやるぞ?」


 耳に心地よく響く龍翔の声は優しく、得も言われぬ安心感がある。


 長い指先が髪をすべる心地よさに、いつしか明珠はまぶたを閉じていた。


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