17(幕間)死を免れたその先に


 蚕家の家令・蚕秀洞さんしゅうどうに渡された薬によって意識を失っている間に運び出された薄揺はくようが目覚めた時、目の前に座っていたのは、冥骸めいがいと名乗る年齢不詳の男だった。


 黒衣に包まれた痩せた身体。険のある顔立ちは、若いようにも、また老いているようにも見える。

 ただ、黒い炎を宿したような目に、薄揺は言いようのない不安をかきたてられる。


 もし、悪鬼が人の皮をかぶったとしたら、こんな姿だろうか。


「お前がどら息子をたきつけ損ねた役立たずか」

 侮蔑を隠さぬ言葉に、薄揺はこの男が《互伝蟲ごでんちゅう》で自分をそそのかした術師だと知る。


「清陣のくびきからすら逃げられぬ青二才が。……これからは、わたしが使ってやる」


 唇を歪めて告げられた言葉に、背筋が凍る。

 自分は、死を逃れるために、死より恐ろしい生き地獄に飛び込んでしまったのではなかろうか。


 がたがたと身体が震え出し――薄揺はようやく、それが自分の身体からわきあがったものだけではないと知る。

 あわてて周囲を見回し、どうやら馬車に乗っているらしいと気づく。


「い、いったい、どこへ……?」

 薄揺の問いかけを無視して、冥骸が口を開く。


「お前を処刑から助けてやったのは、情報を得るためだ」

 冥骸の闇をこごらせたような黒い目が、薄揺を見据える。


「――あの晩、お前は何を見た?」


「あの、晩……」

 言われずとも、あの晩がいつのことを指すのか、知っている。

 おうむ返しに呟いた声がかすれ、震える。


 冥骸に対する不安と嫌悪が混じった恐怖ではない。

 身体の奥底から湧き上がるのは、畏敬いけいの感情。


 視覚を、いや五感全てを奪いつくした白銀の《龍》と、それを従える青年への。


 あの《龍》に睥睨へいげいされて、よく心臓が止まらなかったものだと、今さらながらに思う。

 術師であるからこそ、なおいっそう、本能的に理解する。



 《龍》

 あれは《蟲》とは隔絶した存在。

 全てを圧する至高の力が、形を成したモノなのだと。


 

「……見たのだろう、《龍》を?」


 冥骸の問いに、びくりと肩が大きく震える。


 見た。確かに間近で見た。

 その輝きに目がくらむほどの近さで。


 しかし、《龍》が発する威厳に圧されて――まるで、きらめく白銀に記憶を塗りつぶされたかのように、あの時、何が起こったのか、すぐには順序立てて説明できない。


 記憶の断片を必死でかき集める薄揺に、冥骸の低い呟きが届く。


「……だが、あれは出現するはずのないモノだ……。確実に封じて、残るは抜け殻同然の童子だったはず……」


 薄揺が疑問を口にするより早く、くらい妄執を宿した目が、薄揺を射すくめる。


「お前は何を見た? あの時、いったい何が起こった?」


「それ、は……」

 からからに乾いた喉から、薄揺は苦労して声を絞り出す。


清陣せいじん様が、『蟲殺しの妖剣』を振り上げられて……。そこへ、童子姿の皇子が飛び出してきたのです。侍女が、皇子を庇って斬られ……。気がつくと《龍》が……」


 我ながら、なんと荒唐無稽こうとうむけいな話だと呆れる。案の定、冥骸は目を怒らせた。


「侍女が斬られて、元の姿に戻っただと!? なんだそれは!?」


「し、しかし、わたしが見た限りではそのように……」

 冥骸の剣幕にあわてて言い添える。


「侍女の血を浴びて、童子から青年へと戻ったように見えたのです……」


 薄揺は皇子達の顔を拝謁はいえつしたことはないが、年恰好からいって、あの青年は第一皇子か第二皇子……おそらく、うとまれ、命を狙われているという第二皇子だろう。


 そのような御方がなぜ蚕家の離邸にかくまわれていたのかは知らないが。


「……血、か……」

 冥骸が低く呟く。


 その声音の低さに、薄揺の背を冷たいものが流れ落ちた。

 術師である薄揺は、もちろん、禁呪について聞きかじったことがある。


「その侍女は、死んだのか?」

 冷ややかに問う冥骸に、首を横に振る。


「いえ、おそらく生きているものと……」


 というか、侍女が死んでいたら、おそらく薄揺は今、生きてはいまい。

 発する威圧感だけで、薄揺と清陣の息の根を止めそうなほど激昂げっこうしていた皇子を押し留めたのは、当の侍女なのだから。


「その侍女は、元々、離邸にいた者だろう?」

 何やら確信をもって問われた言葉に、おずおずと頷く。


 薄揺はあの晩に初めて見たが、離邸に侍女がいたのは、清陣に命じられて調べたので、知っている。確か、名は明珠といったか。

 身をていして清陣から皇子を庇おうとしていたところを見ると、元々、離邸に勤めていた侍女なのだろう。


「……せぬところの多い娘だ……。少し、調べる必要があるな」

 冥骸が低く呟く。


 まるで、生贄いけにえに捧げる羊を品定めでもするかのような、感情のうかがい知れぬ眼差しに、ぞわぞわと悪寒が全身に広がっていく。


「いったい……。あなた様は、何を……?」

 問うた声は、不安と恐怖にかすれていた。


 薄揺の様子など、一顧だにせず、冥骸が初めてわらう。

 くらく、歪んだ笑みを唇に刻み――、



「――《龍》を、殺す」



「っ!?」

 氷の手で心臓をわしづかみにされたように、全身がこわばる。


「そんな……。そんなことが、できるわけ……」

 おののきにかすれた声は、明瞭な言葉をなさない。

 手のつけようのない愚者でも見たように、冥骸が呆れ果てた視線を寄越す。


「お前も見ただろう? 《龍》どころか、術さえ使えぬ、弱々しい童子の姿を」


 夜の闇の中だが、確かに見た。庇った侍女よりも、なお低い背丈の、痩せた少年の姿が、脳裏によみがえる。


「奴に禁呪をかけて、《龍》を封じたのは、わたしだ。……ならば、なぜ《龍》を殺せんと言い切れる?」


 仄暗い自負をにじませ、冥骸が告げる。

 が、薄揺の耳にはろくに入っていなかった。


 やはり、自分は処刑される代わりに、死よりもなお恐ろしい地獄の道へ、足を突っ込んでしまったのだ。

 龍華国の皇子の命を狙うなど……。もし捕らえられれば、その先に待つのは、死よりも恐ろしい拷問を経た上での、処刑に他ならない。


 恐怖のあまり、気が遠くなる。がらがらとうるさい馬車の車輪の音まで、遠のいたようだ。

 がたがたと震える薄揺を見た冥骸が、口元を歪める。


「今さら、悔いても遅いぞ? お前はもう、逃げられぬ。お前が蚕家で飲んだ薬。あれには《蟲》の卵が入っていてな。今頃は、お前の腹の中で孵化ふかしている頃だろう」


 告げられた瞬間、ぐぅっ、と吐き気に喉が鳴った。

 脅しではない。

 《龍》を手にかけようとするこの狂った男が、薄揺に禁呪をかけるのをためらう理由が見いだせない。


 顔を蒼白にした薄揺を見て、冥骸はくつくつと喉を鳴らす。


「お前はもう、死んだようなものだろう? ならば……せいぜい、わたしの役に立って死ね」

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