24 夜明けに馨るは蜜の香り


(甘い蜜の香りがする……)


 人の気配に、敏感になったのはいつからだろうか。

 害意を持つ者に隙を見せぬよう、他人の気配にさとくなって。


 自分以外の不明瞭な声を捕らえた瞬間、龍翔はぱちりと目を覚ました。


 起き上がろうとして、青年のままの己の姿に気づき、同時に、夕べ、不測の事態に備えて、青年姿を保って就寝したことを思い出す。


 いつも通り、季白達が交代で見張りに立っただろうか、周りが《晶盾蟲》を使役できる堅盾族ばかりとなると、術師ではない季白達だけでは、さすがに心もとない。

 それゆえ、龍翔も青年姿のままでいたのだが。


 窓から差し込む光の具合からすると、早朝だろう。

 龍翔は寝返りを打つと、先ほど聞こえた声の出どころを振り向いた。


 視線の先、床に敷いた布団ですよすよと眠る明珠の姿を見た途端、己の口元が柔らかく緩むのを自覚する。


 夕べ、寝入る前に見た明珠は餅にくるんだあんのように、頭まですっぽりと布団をかぶっていたが、今朝は、両腕で布団を抱きしめて、健やかな寝息を立てている。


 というか。

 布団を抱え込んでしまっているせいで、細い腰のまろやかな曲線だの、乱れた夜着の裾から出た足首などが、丸見えだ。


(……なんとしても、衝立ついたてを調達させるべきだったか……)


 義盾ぎじゅんの家が質素なのは見て知っているが、家じゅうを探せば、衝立の一つくらい、見つかったのではなかろうか。


(安理の奴、絶対、真面目に探そうとしなかったな……)

 再会してからというもの、余計なことしかしない隠密を、苦々しく思う。


 もともと、「自分が楽しいこと」を優先する性格だったが、ここ数日というもの、度が過ぎている。


 それだけ、安理が知っている龍翔と、今の龍翔が違うのかもしれないが。


 龍翔自身、どこがとははっきりわからないが、自分自身が以前とは異なっていることには、気づいている。


 少なくとも、以前の自分なら、あどけなく眠る娘の寝顔を眺めているだけで、こんなに満たされた気持ちになるなど、想像もつかなかっただろう。


(明珠が目覚めたら、破廉恥はれんちだと、また叱られてしまうな)


 明珠が真っ赤な顔で叫んでいるところを想像して、苦笑する。

 頬を染めて照れる明珠は愛らしいことこの上ないが、破廉恥だとそしられて、警戒されるのは大いに困る。


 まだ、解呪についてろくにわかっていないというのに、明珠に暇など取られるわけにいはいかない。


 ――離す気など、欠片もないが。


「……い……」

 明珠の口から洩れた声に、己が思考の海に沈んでいたのだと気づく。


 固く引き締められていた表情は、明珠の寝顔を見た途端、春の日差しにけだす雪のように、ふわりと緩んだ。


「……んう、ら……」


 いったい、明珠は何の夢を見ているのだろうか。

 いつの間にか、眉を寄せ、苦しげな表情をしている。


 心配と好奇心に誘われて、そろそろと寝台を下りる。途中、寝台がぎしりと鳴り、肝を冷やしたが、靴を履いてそばに行っても、明珠は眠り続けたままだ。


 片膝をついて屈み、なめらかな頬に右手を伸ばしかけ――自制する。


 仮にも年頃の娘が、男と同じ部屋で寝ているのだから、本当に、もう少し警戒心を持ってほしい。


 でないと……ついうっかり、甘い寝息をこぼす唇にふれてしまいたくなって、困る。


 明珠の無防備さが、龍翔への信頼からきているものとわかっているだけに、裏切る気は欠片もないが。それでも。


 思わず吐息すると、明珠がもぞりと身動きした。

 眉が悩ましげに寄り、ああ、と誘うように甘い吐息が洩れる。


「……おねがい、です……」


 切なく、訴える声。

 引きこまれるように明珠の口元へ顔を寄せた龍翔の耳に。


「げ……減給だけは許してください、季白さん……っ」


 ◇ ◇ ◇


「ふえっ!?」


 急に頬を引っ張られた気がして、明珠は奇声とともにまぶたを開けた。途端、


「ひゃああっ!?」

 目の前に、龍翔の秀麗な面輪があって、びっくり仰天する。


「なっ、なななななんですかっ!?」


 布団を抱きしめたまま、じりじりと下がろうとしたが……。もともと、壁際に敷いていたため、すぐに背中が壁にぶつかる。


 いったい何だろうか、この状況は。


(目が覚めて、龍翔様がそばにいて、しかも青年のお姿で……)

 そこでようやく、夕べ、寝る寸前のやりとりを思い出す。というか。


「……なんか龍翔様、怒ってらっしゃいます……? あっ、私、寝過ごしちゃいましたか!?」


 布団をはねのけ、がばりと身を起こすと、眉を寄せて明珠を見つめていた龍翔が、我に返ったように瞬きする。


「いいや。まだ大丈夫だ。その……ひどくうなされていたのでな。思わず起こしてしまった。その、すまん」


「いえ。うなされていたのなら、起こしてくださって助かりましたけど……」


 見ていた夢の内容は驚きで吹っ飛んでしまったが、すごく恐ろしい夢を見ていた感覚は、うっすらとある。心臓が、うるさいくらいにばくばくと鳴っている。


「ひゃっ」

 不意に、龍翔の指先が左頬に伸びてきて、明珠は首をすくめた。


 長い指先が、優しく頬をなでる。


「……痛みはないか?」

「へ? 痛みって……? 何ともありませんけど……?」


「そうか。よかった……」

 柔らかに微笑んだ龍翔が、ふと何かに気づいたように身を離す。


「こんなところを安理に見られたら、何と言ってからかわれるか、わからんな」

 言われてようやく、お互い、夜着のままだと気づく。 


「確か、晶夏しょうか嬢の手伝いをするのだろう? なら、そろそろ支度した方がいいだろう。わたしも、隣室で着替えてこよう」


「あの、すみません。昨日、勝手に手伝いを申し出たりしまして……」


 昨日、季白にはものすごく睨まれた。何も考えずに申し出たが、もしかしたら、余計なことだったかもしれない。

 今さらながら、不安になって謝ると、あやすように頭を撫でられた。


「何を謝ることがある? 困っている者を放っておけないのは、お前の美点だ。とがめる気など、まったくない。何より」

 龍翔が、見る者を魅了せずにはいられない、柔らかな笑顔を見せる。


「久々にお前の手料理を食べられるのは、わたしも楽しみだ」


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