62 消したくても、消せぬ罪


「申し訳ございません。ここまでは追うことができたのですが……」


 周康しゅうこうが申し訳なさそうに頭を下げる。

 砂郭さかくに戻った明珠と龍翔が向かった先は、禁呪をかけた術師を追っていた周康の元だった。


 砂郭の外れにある人気のない倉庫。今、ここにいるのは明珠と龍翔と周康の三人だけだ。季白達は手分けして、それぞれ後始末に奔走している。


 入った途端、目に飛び込んできた床の血だまりに、明珠は思わず身を強張らせた。


 と、ぐいっ、と龍翔に腕を取られ、振り向かされる。


「わ、ぷっ!」

 ぽすん、と明珠の鼻が龍翔の胸板に当たる。


「周康。わたしは良いが、明順もいるのだ。もう少し気を遣え」


「も、申し訳ございません!」

 周康があわてて謝罪する。


「り、龍翔様! 私でしたら大丈夫ですから! お放しくださいっ!」


 明珠を抱き寄せて視界をふさいだ龍翔の胸板を、ぐいぐいと押す。というか、人前で抱き寄せるなんて、やめてほしい。


 なんとか龍翔の腕から逃れた明珠は、周康を振り返ってさらに驚いた。


「ご挨拶が遅れて申し訳ございません、明珠お嬢様。わたくしは遼淵りょうえん様が弟子の一人、菅周康かんしゅうこうと申します。どうぞ、お見知りおきくださいませ」


 周康が床に片膝をつき、うやうやしく明珠に頭を下げていた。


 何を言われたか咄嗟とっさに理解できず、ほうける。頭が内容を理解した瞬間。


「えええっ!? ちょっ、そんなっ、立ってくださいっ! それに、お、お嬢様って!? 私はそんなのじゃ……っ!」


「遼淵様より、事情はうかがっております。遼淵様と麗珠れいしゅ様のお子様でありながら、不幸な行き違いで生き別れになっていたと……。遼淵様は、お嬢様のことを、とても気にかけてらっしゃいましたよ」


「えっ、ご当主様が……?」


 周康を立たせようと伸ばした明珠の右手を、周康が両手で掴む。端正な顔立ちを哀しげにひそめた周康が首を横に振った。


「ご当主様など、他人行儀な……。お嬢様が「お父様」と呼ばれたら、あの遼淵様とて、喜ばぬはずがございません」


「あのっ、だから私なんて、お嬢様じゃ……っ」

 あたふたと動揺する明珠を見上げ、周康が感極まったように微笑む。


「お姿だけではなく、お心まで謙虚でお美しいのですね。麗珠様にそっくりでいらっしゃる……」


「えっ!? 母さ……母のことを、ご存知なんですか!?」

 思わず聞き返すと、周康がにっこりと微笑んだ頷いた。


「もちろんでございます。わたくしは幼少の頃から蚕家さんけに引き取られて暮らしておりますから。麗珠様には……」


「周康」

 不意に、龍翔の低い声が周康の言葉を断ち切る。


「主家の娘への挨拶は大事だろうが、今はそれどころではあるまい。それと」


 一歩踏み出した龍翔が、周康が両手で握っていた明珠の手を引きはがす。


「わたしに仕えている間は、「明珠」ではない。「明順」だ。娘扱いも、過度に敬うのもよせ。むろん、遼淵との関係も、他言無用だ」


「か、かしこまりました」

 ひやり、と冷気でも立ち昇りそうな龍翔の厳しい声に、周康が青い顔で頷く。


「それより、敵の術師の足取りは、ここで途切れたのか?」

 龍翔の問いに、周康が身を縮めるように頷く。


「申し訳ございません。この倉庫までは、《感気蟲》で追えたのですが、この大量の血で、《感気蟲》が惑わされてしまい……。ここへ参ってから、もう一度、《感気蟲》を放ちましたが、どのように気配を断っているのやら、追うことがかなわず……。まことに申し訳ございません」


 唇をみしめる周康に、龍翔がゆるりとかぶりを振る。


「よい。そこまで己を責めるな。遼淵でさえ取り逃した術師だ。おそらく、我々が知らん禁呪を使っているのだろうが……」


 龍翔が床の血だまりに視線を向ける。


「この血は、術師のもので間違いないのか?」


「はい。ふれてみましたが、これほどのおぞましい《気》……。宿営地を襲った術師のものに相違ありません」


 ふむ、と頷いた龍翔が床に片膝をつく。

 長い指先を血だまりに伸ばしかけたところへ。


「殿下、おやめください! これが何かの罠ということも考えられます! 殿下自らが不用意にふれられるのは……」


「そうだな。すまぬ」

 周康の厳しい声に、龍翔が素直に謝って、血だまりに伸ばしかけていた指を止める。


「この血は、《渡風蟲とふうちゅう》で遼淵様にお送りいたします。遼淵様でしたら、この血から、何かわかるやもしれません」


「ああ、頼む」


 血だまりから離れた龍翔に代わり、周康が懐から手巾と細い竹筒を取り出し、床にひざまずいた。手巾を血に浸し、竹筒に入れる。

 この竹筒を《渡風蟲》で遼淵に送るのだろう。


「これがすべて、術師自身の血だとしたら、かなりの深手を負っているはずだな」

 龍翔が血だまりを見つめながら、低い声で呟く。


「《癒蟲ゆちゅう》で治したとしても、まだ回復しきっていないだろう。季白に命じて、砂郭から出ようとする者の検問も行わせている。引っかかればよいが……」


 龍翔の苦い声は、あまり期待をかけていないのだろう。何せ、相手は何十匹もの《刀翅蟲》を扱える術師なのだ。常人ではどうにもできまい。


「わたくしは今からでも検問の方へまいりましょう。もしかしたら、近くならば《感気蟲》で術師を見つけられるやもしれません」


「ああ、頼む」

 龍翔の返事に、一礼した周康が、倉庫を駆け出していく。


 倉庫の外には、夕闇が迫りつつあった。

 明かりがないため、開け放ったままの扉から差し込んだ赤光しゃっこうが、床の血だまりを赤黒く照らす。


 もし、砂波国軍を引き返させることができなければ、砂郭中が血で濡れていたかもしれないのだ。


 その光景を少し想像しただけで、砂波国軍を前にした時のことを思い出し、身体が恐怖に震え出す。


「どうした!?」

 明珠の様子に気づいた龍翔が、明珠の腕を引く。


「どこか調子が悪いのか? ああ、すまん。あれほど卵に《気》を奪われたというのに、お前を連れ回して無理を……」


「ち、違います! 大丈夫です!」

 明珠を抱き上げようとする龍翔を、必死に押し留める。


「ちょっと砂波国軍のことを思い出しただけで……。というか……」

 明珠は尊敬する主人の秀麗な面輪を、感嘆の想いで見上げた。


「砂郭の平和を守られるなんて、龍翔様は、本当にすごい御方なんですね……」


 何だか、龍翔に仕えられていること自体が、信じられない心地がする。


 しみじみと呟くと、なぜか龍翔が顔をしかめた。

 不思議に思う間もなく、抱き締められる。


「わたしなどが、すごいわけがあるか。お前を危険な目に遭わせて……。わたしなど、まだまだだ」


 恥ずかしさに逃げようとする明珠の耳に届いたのは、苦く、低い声。

 明珠は逃げるのも忘れて、ぶんぶんとかぶりを振った。


「そ、そんなことないですよっ! あれは、私が無茶をしたからで、龍翔様のせいじゃ……っ」


「それでもだ! お前を危険な目になど、遭わせたくないというのに……っ! お前の姿が見えぬだけで、心配で、気が狂いそうになる」


 龍翔の腕に、力がこもり、逃さぬと言わんばかりに抱き寄せられる。


「す、すみません……」


 絞り出すように告げられた声に、明珠はうつむく。

 すがるような腕の力に、体格も何もかも、まったく違うというのに、母親を亡くした頃の順雪を思い出す。


 自分の大切なものを喪う痛みを、明珠も嫌というほど知っている。


「よい。謝るな。お前が自らの意思で行ったわけではないのだ。悪いのは、お前をさらった陽達だ」


「で、でも、陽達さんは私を助けようとしてくれてですね……っ」

 陽達の弁護をしようとすると、急に龍翔の腕に力がこもった。


「り、龍翔様、くるし……っ」


「――お前は」


 いきどおりを含んだ低い声に、明珠は思わず息を飲む。

 見上げた黒曜石の瞳には、刃のような光が宿っていた。


「お前は、どこまで人がいのだ? 晴晶だけではなく、陽達まで……。だが」


 冷ややかな声に、明珠は身体を震わせる。


「何も盗まなかった晴晶とは異なり、陽達には犯した罪がある。それを無しにすることはできぬ」


「は、はい……」

 明珠は震え声で、こくりと頷く。


 龍翔の言うことは、正しい。


 陽達が何らかの罪を犯したならば、ちゃんと償うべきだ。それがわかるからこそ、明珠は頷くしかできない。


 と、不意に龍翔の手が、明珠の頬にふれる。


「そのような顔をするな」

 包み込むように頬にふれた手に、上を向かされる。


 見上げた先にあるのは、苦いものを飲み込んだように眉を寄せた龍翔の面輪。


「お前の哀しげな顔を見るだけで、心が千々に乱れる。無理を通してでも、お前の憂いを払うために罪を減じたい誘惑と、お前の心を占める者への――」


「あ――っ!」


 突然の明珠の叫びに、龍翔の手がびくりと震える。


「どうしたっ?」

 龍翔の問う声は、ろくに耳に入らない。


 罪。明珠が犯した罪といえば……。


「や、やっぱり、減給されちゃうんでしょうか……?」


「は?」

 龍翔が珍しく、呆気に取られた顔をする。


 先ほどとは違う恐怖にぷるぷると震えながら、明珠は言葉を紡いだ。


「だ、だって私、務めを放棄したようなもので……っ。いえっ、好きで放棄したわけじゃありませんけれどっ、でも龍翔様や皆さんにいっぱい迷惑をかけてしまって……っ!」


 やはり、減給だろうか。クビだけはないだろうが、借金倍増という可能性もある。


 背後に雷雲をとどろかせて怒る季白の姿が容易く想像できて、明珠は「ひいぃぃっ!」と泣きたくなった。


 思い描くだけで怖い。怖すぎる。


 と、龍翔がぷっと吹き出した。

「急に何を叫ぶかと思えば……。まあ、確かに季白は怒り狂うだろうが……」


「ですよねっ! やっぱりそうですよねっ!?」


 間違っても、説教の途中で気絶して、季白をさらに怒らせたりしないよう、気を強くもっておこう……。と、明珠は悲壮な決意を固める。


「それほど、おびえる必要はない」

 龍翔が安心させるように柔らかに微笑む。


「お前に非があるわけでもないのに、減給など、わたしが許すわけがないだろう?」


「龍翔様……」

 明珠は感動に打ち震える。龍翔の言葉は、涙がにじみそうになるほど、頼もしい。


「……が、わたしだけではなく、張宇達もこの上なく心配したからな……」

「す、すみません……」


 龍翔が形良い眉をしかめて静かに呟く。真摯しんしな声音に、明珠は謝るしかできない。


 と、龍翔が悪戯いたずらっぽく微笑んだ。


「大丈夫だ。わたしに一つ、案がある。お前が季白に叱責されて減給などにならぬよう、わたしが口添くちぞえをしてやろう」



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