63 ちゃんといい子で待ってます?
龍翔と二人、砂郭の役所に着いた途端、明珠は張宇に引き渡された。
「張宇、とりあえず明順を着替えさせて、休ませてやってくれ。さすがに季白一人に後始末をすべてさせるわけにはいかんからな。わたしも出る。ただ……いいか! 何があろうと、明順から決して目を放すな!」
厳しい声で命じた龍翔が、明珠を張宇に託して、あわただしく
「かしこまりました。……明順、大変だったろう。とりあえず、こちらへおいで」
「は、はい……」
砂郭の役所は、乾晶の総督官邸にはとても及ばぬものの、立派な建物だった。
《
明珠に注意を払う者など、一人もいない。
張宇に連れられて奥の部屋へと通された明珠は、地味な薄青色の真新しい男物の着物を渡された。
「俺は廊下にいるから、着替えたら声をかけてくれ。その後、何か腹に入れよう。それとも、休んだ方がいいかな?」
穏やかに張宇に尋ねられ、明珠は「えっと、できればご飯の方が嬉しいです」と希望を伝えた。
朝早くに、宿営地で食べてから、何も口に入れていない。意識を向けると、途端にお腹がくう、と鳴りそうになる。
「わかった。温かくて美味しいものを用意してもらおうな」
張宇がぽふぽふと明珠の頭を
「あ、そういえば張宇さん。その……」
「うん?」
小首を傾げた張宇に、明珠は羽織ったままの古着に視線を落とす。
「この古着、代金も払わずにそのまま持ってきちゃったんですけれど……」
「ははっ、代金を気にするなんて、明順らしいな。わかった。古着屋の屋台の修繕費に、この古着代も加えておくよう、俺が手を回しておこう」
張宇が優しく笑って請け負ってくれる。明珠は、ほっと安堵の息をついた。
◇ ◇ ◇
「明順! ちゃんといるか!?」
張宇と温かい
顔を出したのは龍翔だ。
「は、はい! 龍翔様、どうかなさったんですか」
あわてて立ち上がって駆け寄ると、険しかった龍翔の表情がわずかに緩む。
「いや、ちゃんと無事にいるのならそれでよい……」
「?」
小首を傾げると、龍翔が小さく笑みをこぼした。
「まさか、己がこれほど心配性だったとはな」
龍翔の手が明珠の右手を取り、持ち上げる。
ごく自然に、ちゅ、と指先に口づけられ、明珠は目を丸くした。
「なっ、何なさるんですか――っ!?」
龍翔の手を振りほどこうとしたが、放れない。
「うん。冷たかった手も元の温かさに戻っているようだな」
「それはさっき、あったかい卵粥をいただいたので……っていうか、なんて計り方なさるんけですか――っ!」
「うん? 額の方がよかったか?」
止めるより早く、龍翔の手が明珠の後頭部に回り、引き寄せる。
「ちょっ、ちょっと待ってください! って、きゃ――っ!」
ぎゅっ、と目を閉じた明珠の額に、こつんと龍翔の額がふれる。
あたたかな吐息が肌を撫で、明珠は唇を噛みしめた。
「……熱い気がする……」
「それはどなたのせいだと――!」
「張宇! 龍翔様を見ませんでしたかっ⁉」
慌ただしい足音が聞こえたかと思うと、またもや乱暴に扉が開けられる。
明珠の顔に
季白がわなわなと震え声を絞り出す。
「ひ、人前でくちづけとは……っ」
「ち、違いますっ! 誤解ですっ! く、くくくく……だなんて……っ!」
龍翔の背中側から見れば、そう見えたかもしれないが、まったく、全然、決して、断じて違うっ!
明珠の必死の抗弁をさらりと無視して、季白が龍翔に小言をぶつける。
「龍翔様! 役所に戻って来た途端、お姿を消さないでくださいませ! ただでさえ張宇が世話に取られて忙しいというのに、わざわざ明順のところになど……っ!」
「少し、明順の様子を見に来ただけではないか。で、何用だ?」
うんざりしたように眉をひそめて、龍翔が季白を振り返る。
「は。陽達が、龍翔様にお目通りをしたいと申しておるのですが。いかがいたしましょうか?」
「陽達さんっ!?」
おうむ返しに呟いて、明珠は龍翔を見上げた。
「そ、その、陽達さんのことなんですけれど……」
「……同席したいのか?」
「は、はいっ!」
顔をしかめて問うた龍翔に、明珠はこくこく頷いた。
「それと、その……。
無理を言っているのはわかっている。
けれど、陽達はあれほど必死に妹を探していたのだ。叶うならば、ちゃんと本物に会わせてあげたい。
じ、と懇願をこめて、主の秀麗な面輪を見上げると、深い溜息が降ってきた。
「まったく……。お前は……」
「も、申し訳ありません。私のわがままだって、わかっているんですけれど……」
うつむきかけると、優しく名を呼ばれた。
「明順」
「は、はいっ」
見上げた先にあったのは、龍翔の困ったような、呆れたような、だが、どこか優しい笑顔だ。
「悪いが、確約はできん。晶夏嬢……ひいては、義父である義盾殿の意思を無視することはできんからな。だが……。お前の願いは、心に留めておこう」
「ありがとうございます!」
感謝の気持ちをこめて、深々と頭を下げる。
「では、陽達を連れてまいります。この部屋でよろしいですね?」
「ああ、かまわん。明順。お前はわたしの後ろで、黙って立っているのだぞ」
「は、はい!」
きびきびと出て行こうとする季白に、奥の卓についていた張宇が、立ち上がる。
「待て、季白。念のため、俺も一緒に行こう」
どこかあわてた様子で、うっすらと顔の赤い張宇が季白に並ぶ。
では、と龍翔に一礼した季白が、扉に手をかける。
出て行く間際、
「人前でくちづけできるほどの度胸がついたかと、
「……俺はお前が来てくれて、本気で良かったと感謝してるよ……」
二人が吐息とともに呟いた声が、かすかに聞こえた。
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