61 黒い砂嵐を前に その4


 本当に、砂波国との戦いが回避できたというのだろうか。


 龍翔の秀麗な面輪を見上げると、柔らかな笑顔と頷きが返ってきた。その表情に、今見ている光景は、幻ではないのだと実感する。


 思わず歓声を上げそうになった途端、長い指先に、そっと唇を押さえられた。


「気持ちはわかるが、もう少しだけ、我慢してくれ」


 苦笑とともに囁かれて、そういえば今は《幻視蟲》で姿を消しているのだと思い出す。

 安堵のあまり、うっかり頭から抜け落ちていた。


 龍翔がゆっくりと《龍》を地面に下ろす。


 明珠は龍翔が動くより早く、地面に下りようとした。が、うまくいかず、へたん、と地面にへたり込む。


 じゃり、と砂の鳴る音に、一瞬、自分の存在がばれてしまったかと肝が冷えたが、《堅盾族》は皆、地面に片膝をつき、こうべを垂れていて、明珠に気づいた者はいないようだ。

 《龍》の身体の陰になる方に降りたおかげかもしれない。


 鱗の一枚一枚さえ、きらめく宝石のような《龍》を見ていると、今さらながら、緊急事態とはいえ、明珠などが乗っていいものだったのだろうかと、不安に思う。


 明珠に続いて地面に降りた龍翔が、《龍》を還す。《幻視蟲》で姿が見えていないと知りつつも、明珠は龍翔の陰で、身を縮めた。


 龍翔が地面を踏んだ音に、堅盾族の頭がさらに低くなる。

 黒曜石の瞳でゆっくりと堅盾族を見回した龍翔が口を開いた。


此度こたびは大義であった。乾晶の護り手の名に恥じぬ迅速な行軍。見事である」


「とんでもないことでございます」

 龍翔の言葉に、先頭で膝をつく義盾が答える。


「我等は何もしておりませぬ。すべて、龍翔殿下の御力ゆえでございます」


「そうではない」

 ゆったりと、龍翔が首を横に振る。


「いかに《龍》の力が強大といえど、所詮しょせんは一人。何百もの兵士で力押しされれば、防ぎきることはできぬ。そなたらが後ろに控えてくれていたからこそ、砂波国軍の戦意をくじくことができたのだ」


 おもてを上げよ、と告げた龍翔に、堅盾族がめいめい顔を上げる。


 若い青年も、年かさの男も入り交じった護り手達をゆっくりと見回し、龍翔は見る者を魅了せずにはいられない笑顔を見せた。


「それもこれも、数百年の長きにわたって、《堅盾族》が護り手を真摯しんしに務めてきた実績ゆえである。今後も、そなたらの忠勤に期待しておるぞ」


「っ、一時は護り手の任を放棄したに等しい我等には、もったいないお言葉でございます……っ!」


 義盾が感極まったように、ふたたび頭を下げる。

「龍翔殿下には何と感謝を申し上げればよろしいのか……」


 顔を上げた義盾が、真っ直ぐに龍翔を見つめる。


我等われら《堅盾族》は、何百年もの昔に龍華国と結んだ盟約に従い、護り手を任じております。ですが――」


 義盾が、力強く宣言する。


「今ここに、新たな誓いを立てましょう。我等、《堅盾族》。もし龍翔殿下がわたくしどもの力を欲される時にいは、いずこなりとも、御身のお力になるべく、駆けつけます!」


 義盾が頭を下げるのに合わせて、他の《堅盾族》達も頭を下げる。

 龍翔が破顔した。


「その方等の忠義、確かに受け取った。何かことある時は、頼りにさせてもらおう」


「ははっ! 是非に!」

 頷いた義盾に、顔を引き締めた龍翔が指示を出す。


「義盾。もう引き返してはこぬだろうが、別動隊がいる可能性も否定できん。もう少し、この辺りに留まって、安全が確認できるまで警戒を解くな。その後、村に戻るのはお前の判断に任せる。わたしは一足先に砂郭に戻るが……。明日でかまわぬ、落ち着いたら乾晶の官邸へ来い。息子達も連れてな」


「かしこまりました。村に戻れましたら、すぐに官邸へ参ります。……晴晶もともに」


 義盾の最後の言葉は苦い。


 《堅盾族》を助けるためとはいえ、官邸に忍び込むという無茶を犯した晴晶を、父親の義盾はどう思っているのだろうか。


 龍翔はさほど怒っていないので晴晶を厳しくしからないでやってほしいと、明珠は願わずにはいられないが、明珠はこの場にいないことになっている。

 それに、他人である明珠が口出しして良いものでもないだろう。


 明珠が一人で気をんでいると、


「ああ。待っておる。こちらも後始末があるゆえ、急がずともよいぞ」


 義盾の言葉に首肯した龍翔が、《風乗蟲》を喚び出す。さあっ、と強風に砂塵が舞い、《風乗蟲》の巨体が明珠の視界を遮った。


 明珠は音を立てないように、そっと《風乗蟲》に乗ろうとした。


 が……。立てない。


 砂波国軍が引き返したのを見て、今さらながら、緊張の糸が切れてしまったらしい。腰が抜けてしまって、どうにも身体に力が入らない。


(ど、どうしよう……っ!?)


 ぐっ、と足に力を入れるが、立ち上がれる気がしない。焦れば焦るほど、身体が震え出してきて、頭が真っ白になってくる。


 ここまで来て、明珠の存在をばらすわけにはいかない。


 明珠の様子がおかしいのに気づいたのだろう。龍翔が《風乗蟲》の顔の前を回り、明珠の側へやってくる。


 どうすればいいのかわからず、明珠は半泣きになって龍翔を見上げた。

 涙に潤んだ明珠を見た龍翔が、驚いたように黒曜石の瞳を見開く。


 と、龍翔が小さな動作で唇の前に人さし指を立てた。声を出すなということだろうと、唇を噛みしめた明珠に、龍翔が屈み。


 力強い腕が、壊れ物を扱うように、優しく明珠を抱き上げる。


 明珠を横抱きにしたまま、《風乗蟲》にまたがった龍翔が、「《飛べ》」と命じた。


 《風乗蟲》が大きな羽をはためかせて飛び立つ。強い風が髪や衣をはためかせ、眼下の堅盾族がみるみるうちに小さくなってゆく。


 強風に、明珠が頭にかぶっていた衣がずれ落ち、髪があらわになる。風に乱れる髪を押さえようとして。


「……すまなかった」


 不意に、龍翔がさらに明珠を引き寄せる。

 今にも額にふれそうなほど近づいた唇が、苦い声を絞り出す。


「火急の事態だったとはいえ、なんと詫びればよいのか……。穏やかな市井しせいで暮らしていたお前を何の前触れもなく戦場に連れ出すなど……。お前が感じる恐怖にまで思い至らなかったのは、わたしの落ち度だ」


 そっ、と龍翔の指先が繊細な硝子がらす細工にふれるように、明珠の頬を包む。


「ひどく怖い思いをさせてしまったな。本当に、すまぬ」


 悔やんでも悔やみきれぬような苦い声に、明珠は思わず龍翔を振り仰いだ。


 びっくりするほど近くに秀麗な面輪があって、心臓が跳ねる。

 痛みを帯びた黒曜石の瞳を見た途端、明珠は思わずぶんぶんと首を横に振っていた。


「あ、謝らないでください! そ、そりゃあ、怖くなかったと言えば嘘になりますけれど……っ」 


 龍翔の目がすがめられ、明珠はきゅうっ、と胸が痛くなる。


 龍翔に、こんな哀しげな顔をさせたいわけではないのに。


 明珠は尊敬と信頼を込めて、龍翔を見上げる。右手を伸ばし、おずおずとなめらかな頬にふれると、驚いたように広い肩が揺れた。


「こ、怖かったですけど、私は大丈夫です! 龍翔様がいらっしゃるなら、何があっても大丈夫だって、信じておりますからっ! だから、お願いですからそん――ひゃあぁっ!」


 不意に、明珠の頬にふれていた龍翔の手が、おとがいに移動したかと思うと、柔らかなものが右頬にふれる。


「なっ!? なな……っ!?」


 驚愕に見開いた視界に飛び込んできたのは、熱を帯びた黒曜石の瞳だ。


 逃げるように目を閉じた瞬間、くいと顎を持ち上げられ、熱く柔らかなものが明珠の唇をふさぐ。


 突然のことに、思考がついていかない。

 ただ、身体中が一気に熱を持ち、心臓がばくばくと暴れているのがわかる。


 龍翔を押し返したいのだが、強風の渦巻く《風乗蟲》の上だと思うと、危なくてそれもできない。


「んんんっ!」


 かぶりを振って、顎を掴んだ大きな手から逃れようと試みると、ようやく龍翔の唇と手が離れた。


 代わりに、ぐい、と胸元に抱き寄せられる。


「まったくお前は……。そんなに、わたしを甘やかしてくれるな」


 深く響く心地よい声が、明珠の耳元で甘く、熱っぽく囁く。


「甘……? っていうか、《風乗蟲》の上でなんてことなさるんですっ!? 危ないじゃないですかっ!」


 全身が熱い。龍翔の持った吐息が耳朶じだにかかるだけで、なんだか居たたまれない気持ちになる。


 龍翔の腕の中から逃げたいのに、龍翔の腕はゆるむどころか、ますます明珠を抱き寄せる。


「危ないのはお前の方ではないか。落ちたらどうする?」

「落ちませんからっ! それより、私の心臓が壊れる方が先ですからっ! だから……」


「……駄目、か?」


 憂いをにじませた声に、明珠はとっさに答えられない。


 おずおずと龍翔を見上げると、驚くほど間近で、黒曜石の瞳が不安そうに揺れていた。


「だ、だめじゃないですけど……」

 反射的に、明珠はゆるゆるとかぶりを振る。


「で、でも、もうちょっと緩めてください! これじゃあ、苦しくなってしまいます!」


 龍翔の腕が緩んだ途端、明珠は距離を取ろうとした。が、離れきらぬうちに、龍翔に引きとめられる。


「あまり、わたしから離れるな」


「……もしかして、《気》が足りていないのですか? あんなに大きな《龍》も喚ばれてらっしゃいましたし……」


 守り袋を握りしめたまま、心配になって、秀麗な面輪を見上げると、悪戯いたずらっぽい微笑みが返ってきた。


「……そういうことにしておいてくれ」


 するり、と龍翔の腕がふたたび明珠の身体に回る。先ほどのように抱き寄せられているわけではないが……。ばくばくと騒ぐ鼓動は、おさまりそうにない。


 居心地の悪さを感じつつも、どこかすがるような龍翔の腕を邪険に振り払うことなど、とてもできず……。


 明珠は緊張に身を固くして、一刻も早く砂郭に着くように祈った。



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