61 黒い砂嵐を前に その3


 空気を白く染めるような雷光と、鼓膜を破りそうな轟音に、明珠はびくりと身をすくめる。喉元まで出かけた悲鳴は、口で手をふさいで、なんとか噛み殺した。


 驚愕に襲われたのは、砂波国軍も同じだったらしい。


 文字通りの青天の霹靂へきれきに、何十頭もの馬が、前足を上げて棹立さおだちになる。


 しかし、さすが精強と名高い砂波国の騎馬軍団だけあって、落馬した者はいないようだ。

 興奮する馬達をなだめる声が、あちこちから聞こえてくる。


 この状況で走り続けるのは無理だと判断したらしい。

 先頭を走っていた、ひときわ立派なよろいと帽子の、ひげを生やした壮年の男が、右手を上げる。と、そばの若い男が、角笛を吹き鳴らし、全軍を止めた。


 もうもうと立っていた砂煙が薄まるが、馬達は落ち着かぬ様子で盛んにいななき、足を踏み鳴らしている。


 驚愕を敵愾心てきがいしんの中に押し隠し、睨みつけるように龍翔を見上げる指揮官へと、龍翔は《龍》の高度を下げる。


 《幻視蟲》とかぶった衣で、姿は見えていないとはいえ、敵意のこもった眼差しに、明珠は身を固くした。


 宙を飛ぶ《龍》に乗っている分、こちら側が高いとはいえ、今や、お互いの表情がはっきりわかる近さだ。

 そんな暴挙を龍翔が許すとは思わないが、もし今、全軍に矢を射かけられたら、針山のようになるだろう。


 指揮官を筆頭に放たれる敵意を込めた視線を涼やかに受け流し、龍翔が口を開く。


「初めてお目にかかる。そちらは漆黒の砂嵐とも呼ばれる砂波国の騎馬軍団とお見受けする。が……」


 龍翔が黒曜石の瞳に冷ややかな光を宿し、騎兵達をねめつける。


「遠乗りというには、いささか物々ものものしすぎるのではないかな?」


 冷気をまとった龍翔の声に呼応するように、《雷電蟲》が、ぱちりぱちりと、小さな紫電を空へ放つ。馬達のおびえるいななきが大きくなる。


「まるで、飢えた野犬のようではないか。いったい、何を喰い破るつもりだ?」


 双方とも、砂波国軍の狙いは砂郭さかくだと承知している。

 にも関わらず、あえて発された龍翔の問いに、空気がさらに緊張する。


 破ったのは、砂波国軍の指揮官の声だった。


「わたしは礼儀を知るのでな。答える前に名乗っておこう。わたしは砂波国の将軍が一人、ぐん馬閣ばかくと申す。で、貴君は――」


 馬閣のひげに半分隠れた唇が、嘲弄ちょうろうに歪む。


惰弱だじゃくと噂の第一皇子と、厄介者とさげすまれる第二皇子の、どちらかな?」


 こちらが《龍》と《堅盾族》だけだと侮っているのだろうか。

 舌戦を辞さない様子の馬閣に、龍翔は鷹揚おうように微笑んでみせた。


「名乗り遅れて失礼した。わたしは、第二皇子の龍翔だ。……ああ、厄介者というのは、言い得て妙だな。その方等ほうらにとっても、わたしの存在は厄介極まりなかろう?」


 悠然と、見る者を魅了せずにはいられない微笑みを浮かべ、龍翔が答える。

 と、不意に笑みを消し、馬閣を見据える。


「遠乗りはここまでだ、馬閣殿。そろそろ砂波国へお帰り願おうか」


「我等が、この程度の寡兵かへいに恐れをなして、馬首を巡らせると、本気でお思いか?」


 龍翔のまなざしを真っ向から受け止めた馬閣が、不敵に唇を吊り上げる。


彼我ひがの数の差は明らか。いかに《龍》と《堅盾族》とはいえ、これだけの数に対抗できると考えているとは、おめでたいことだ」


 自信をにじませ、馬閣が告げる。が、龍翔はあっさりと肩をすくめた。


「我が国の備えがこれだけだと、何故わかる? 歩兵ゆえ連れてこなかったが、派遣軍はすでに砂郭の守りについている。もしここを抜けられたとしても、満身創痍まんしんそういで進んだ先に待っているのは、砂郭を守る、無傷の軍だぞ?」


 乾晶の宿営地にいる派遣軍が、まだ出発さえしていないのは、明珠だって知っている。


 馬閣も龍翔の言葉をはったりだと思ったのだろう。大きな笑い声を立てる。


「龍華国の皇子殿は、夢でも見ているらしい。派遣軍が、穴熊あなぐまのように宿営地に引っ込んだままなのを、我等が知らぬとでも? 加えて、《堅盾蟲》だけで我等に痛手を与えられると考えているとは、ずいぶん、見くびられたものだ」


 自信に満ちた様子の馬閣を見ても、龍翔の悠然とした態度は崩れない。


「見くびっているわけでなない。的確に判断しているだけだ」


 龍翔が馬閣と話している間に、追いついた《堅盾族》が、龍翔の後ろの地面に次々と降り立つ。

 降り立った《堅盾族》は、《晶盾蟲》を腕に止まらせ、油断なく身構え、砂波国軍と相対する。


「現実が見えていないのは、そちらでは?」

 龍翔がからかうような笑みをひらめかせる。


「わたしがここにいること自体、想定外であろう?」


「……」

 馬閣の思わずしかめられた顔が、答えを雄弁に物語っていた。


 龍翔が、くつりと喉を鳴らす。


「ならば、なぜ派遣軍が密かに宿営地を離れていたのではないと言える? ああ」


 龍翔が思わず見惚れてしまうほど、あでやかに、笑む。


「砂郭に潜入していた史傑しけつは、こちらへ寝返ったぞ?」


「っ!?」

 馬閣が息を飲み、顔を強張らせる。


「あの蝙蝠こうもりめが……っ」

 苦々しい低い呟きが、明珠の耳にかすかに届く。


 龍翔がゆったりと馬閣を見下ろした。


「さて、どうする? 偽の情報に踊らされて、むざむざ死地に飛び込むか? それとも、大人しく軍を引き上げるか?」


 黒曜石の瞳に強い光を宿し、龍翔が馬閣を真っ直ぐに見据える。


 泰然としたその様は、たとえ馬閣が軍を引かぬと決断しても、ここより先には通さぬという強固な意志と、自信に満ちていた。


 好戦的に龍翔を見返し、馬閣が不敵に唇を吊り上げる。


「せっかく、龍華国の皇子を目の前にしたのだ。今ここで、その首を取るという選択肢もあるぞ?」


 馬閣が右手を上げると、ざっ、と兵達が弓に矢をつがえた。

 狙いを定めた先は、もちろん龍翔だ。


 突き刺さるような視線に、明珠は身を強張らせる。

 いかに龍翔とはいえ、何百人もの射手に一斉に矢を射かけられて、無事でいられるとは思えない。


 血濡ちぬれた光景が脳裏をよぎり、恐怖のあまり、明珠はぎゅっ、と目を閉じる。

 噛み合わぬ歯が、かたかたとうるさいほどだ。守り袋を握りしめた手が、氷のように冷たい。


 と、背中に回された手が、力強く明珠を抱き寄せる。


 言葉はなくとも、龍翔が明珠を安心させようとしてくれているのがわかって、明珠はぐ、と奥歯を噛みしめた。


 砂郭を守るべく、綱渡りの交渉をしている龍翔の負担になんて、なりたくない。

 明珠は龍翔の腕に逆らわず、広い胸に頬を寄せると、こくん、と一つ頷いた。声に出して答えることはできないが、きっと伝わるだろうと信じて。


 龍翔の視線は、真っ直ぐ馬閣にそそがれたまま、動かない。だが、強く明珠を引き寄せた手に、ちゃんと伝わったのだと感じ取る。


「それほどわたしの首を欲するのならば、試してみるか?」


 龍翔が不敵な笑みを刻んだ瞬間。



 ――《龍》がえた。



 魂ごと消し飛ぶような咆哮ほうこうが、砂波国軍を打ち据える。

 全軍の馬が暴れ出し、ある馬は後ろ足で立ち上がって騎手を振り落とし、ある馬は泡を吹いて、どうっ、と倒れる。


 馬にまたがっていた騎兵達も同様だ、

 凍りつく者、落馬する者、弓矢を取り落とす者……。


 つがえられていた矢の何割かが、無軌道に空へ放たれる。

 それらを《雷電蟲》の紫電が、瞬時に黒焦げにする。かろうじて龍翔まで届いた何本かは、すべて、龍翔が召喚した《盾蟲》に当たって、力無く地面に落ちた。


 ぼとぼとと、無為むいに放たれた矢が地面に落ちるが……それに気を払う余裕がある者は、砂波国軍には皆無だ。


 砂波国軍は、混乱の極みに陥っていた。


 背後に控える《堅盾族》でさえ、直接、《龍》の咆哮を受けなかったにもかかわらず、何匹もの《晶盾蟲》が空中へ飛び上がり、落ち着きなく羽を震わせている。


「これでもまだ、砂郭を手に入れるために攻め入るか?」


 かろうじて自身の騎馬を御し、先頭に踏みとどまっている馬閣に、龍翔が問う。


 静かな声音は、《龍》の強さを誇示するわけでも、砂波国軍をあなどるわけでもなく、淡々としていた。


 だが、苛烈に輝く黒曜石の瞳は、馬閣の返事いかんでは、戦端を開くのも辞さぬと、明瞭に告げている。


 落馬した者を助け起こす声や、おびえる馬をなだめる声が、ようやく落ち着いた頃。


「我等が故国へ持って帰りたいものは、怪我をした同胞はらからや死体ではなく、金銀財宝だからな」


 馬閣が、低い声で呟く。

 一つ嘆息し、龍翔を見上げた顔は、驚くほどさばさばしていた。


「今回は、《龍》の力の一端を見られただけで、良しとしよう。噂の《堅盾族》の力がいかほどか、知りたくはあったが」


「知りたいのならば、試してみるか?」


 龍翔が挑戦的に顎を上げ、《堅盾族》を振り返る。《堅盾族》がそれに応じて、ざっ、と身構えた。《晶盾蟲》の羽が、りぃんと澄んだ音を奏でる。


 馬閣は苦笑して首を横に振った。


「残念だが、その手柄は次の者に譲ろう。《龍》と《堅盾族》、双方をこの数の騎兵で相手にして、無事に帰れるとは思えんからな。命あっての物種だ」


 現実的な判断を下した馬閣が肩をすくめる。乾燥した厳しい気候に暮らす男は、切り替えも早いらしい。


「わたしが帰ったとしても、容易たやすく砂郭に攻め入ることができるとは思わぬことだ」

 龍翔がまなざしに圧を込める。


「……肝に銘じておこう」


 顔が思わず強張ったのを誤魔化すように、馬閣は答える。

 龍翔が柔らかに微笑んだ。


「次に会う時は、もう少し穏当おんとうな状況で会いたいものだな」

 

 龍翔の言葉に、馬閣が驚いたように目を見開き。


「……わたしも、そう願おう」

 ゆっくりと、頷く。


 後ろを振り返った馬閣は、兵や馬達が落ち着いてきたのを見とめて、片手を上げる。角笛を持った兵士が、先ほどとは違う音色を吹き鳴らした。


「では」

 短く告げた馬閣が、手綱を引き絞り、走り出す。後ろも兵士達も、逆らうことなく馬閣に続いた。


 砂塵を巻き上げ、大きな半円を描いて、砂波国軍が故国へと引き上げていく。


 腹の奥底に響くような馬蹄の音を聞きながら、明珠は信じられない思いで、砂煙とともに遠くなってゆく砂波国軍の背中を見つめた。

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