16 わたしが望んでいるものは、そんなものではない その1


「いいか!? 間違っても通すな! もううんざりだ!」


 龍翔が厳しい声で命じたのは、扉の前で立ち止まり、一礼した張宇だ。

 入ってきた龍翔は、明珠と安理の姿を見て、驚いたように目を見開いた。


「明順……!? まだ起きていたのか? 先に休んでよいと言っていただろう?」


「すみません。書類をまとめていたら、こんな時間に……」

 立ち上がり、龍翔のそばへ寄る。


 そばへ行くと、龍翔からは白粉おしろいと酒の匂いが漂ってきた。秀麗な面輪おもわは、酒気で目の下がうっすらと紅い。


「あ、お戻りになられたんでしたら、オレはこれで……」

 そそくさと安理が龍翔のそばを通り過ぎ、逃げるように廊下へ出て行く。


「ああ」

 頷いた龍翔が言葉を継ぐより早く、安理がばたんと扉を閉めた。


「明順もすまんな。こんな夜更けまで。もっと早くに戻りたかったんだが……。しつこく呑まされてな」

 苛立いらだたしげについた溜息には、酒の気配が濃い。


「お茶かお水はいかがですか?」

 龍翔が帰って来た時のために、侍女に頼んで、さっぱりするお茶と水を持ってきてもらっている。


「では、水をもらおう」

「かしこまりました。どうぞ」

 水を満たした杯を渡すと、龍翔は喉を鳴らして一気に飲み干した。


「ふう。少しは酒が薄まる気がする」

 歓迎を受ける立場として、宴ではかなり呑まざるを得なかったのだろう。


 呟きながら杯を差し出した龍翔におかわりを注ぐ。

 二杯目はゆっくりと杯を傾けた龍翔が、途中で何かに気づいたように眉を寄せる。


「……白粉おしろい臭い」


 卓の上に水差しを戻した明珠は、杯を置いた龍翔がやにわに帯に手をかけたのを見て、目をむいた。


「り、龍翔様っ!?」


 驚愕する明珠をよそに、龍翔は乱暴な手つきで帯をほどくと、床に落とす。

 これまで、龍翔は明珠の前では決して着替えなどしなかったというのに、急にどうしたのだろう。


 驚きと羞恥しゅうちに顔を両手で覆いたくなったが、龍翔が衣を脱ぎ捨てた音が、明珠を我に返らせた。


「ああっ! 絹のお着物が……っ!」

 最高級品の絹の衣を床に脱ぎ散らかしておくわけにはいかない。


 ちゃんと畳んでしまわねば、とあわてて駆け寄ろうとすると、不意に腕をつかまれた。

 かと思うと、ぐい、と龍翔に抱き寄せられる。


「っ!? 龍翔様っ!?」


「うん。やはりお前はいい匂いだ」

 絹の肌着一枚になった龍翔が、明珠を抱きしめ、満足そうに吐息する。


 いったい、何が起こったのか、理解が追いつかない。


 龍翔の香の匂いと、はべった女達のものだろう白粉の移り香と、唇かられる酒の匂いに、頭がくらりとなる。


「り、龍翔様! お放しくださいっ! お着物が……っ!」


「嫌だ」

 一瞬で恐慌に陥った明珠の懇願を、龍翔がすげなく却下する。


「女達の白粉の匂いはもうたくさんだ。お前の甘くていい匂いで、馬鹿になった鼻を戻してくれ」


 顔を寄せた龍翔に、すんすんと鼻を鳴らされて、恥ずかしさのあまり、卒倒しそうになる。

「ちょっ、や……っ! おやめください!」


 固い胸板を押し返し、逃れようと暴れたが、龍翔の腕はびくともしない。それどころか、ますます強い力で抱きしめられる。


「なぜだ? 出たくもない宴がようやく終わったんだ。少しくらい、癒されてもいいだろう?」


 龍翔のねたような声が心地よく耳朶じだを震わせる。


「お疲れでしたら、お休みなさってください! 私はお着物をですね……っ」

 乱雑に床に脱ぎ散らかして、しわでもついたら大変だ。


「着物など、どうでもいい」

 不機嫌に呟いた龍翔が、不意に明珠を横抱きにする。


「きゃあっ!? 龍翔様、もしかして、酔ってらっしゃいます!?」


 安理からは、龍翔は季白や張宇をのぞけば、酒を呑んでも、人前では酔ったところを出したりしないと聞いていたのだが。

 子どもみたいに駄々をこねる龍翔は、酔っているとしか思えない。


 龍翔が、秀麗な面輪おもわにとろけるような笑みを浮かべる。


「ああ、酔っているぞ。嫌というほど、呑まされたからな」

 衝立ついたての向こうの龍翔用の寝台へと歩を進めながら、龍翔が酒臭い息を吐く。


「酒も白粉臭い酌女しゃくめも、見え透いた阿諛追従あゆついしょうも、もうたくさんだ。わたしが望んでいるのは、そんなものではない」


 肉食獣を連想させる瞳で見下ろされ、思わず身がすくむ。

 

 とたん。

 身をかがめた龍翔が、明珠を大きな寝台に下ろす。


「あの……っ」


 身体が沈み込むような布団の上から逃げようと身を起こした瞬間、龍翔も寝台に乗ってきた。


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