53 あなたの憂い顔を、なんとかしたくて その1


「晴晶! ついてこい!」

 明珠を横抱きにしたまま、龍翔が天幕を飛び出す。


「お待ちください!」

 すぐさま後ろに続いたのは張宇だ。


 天幕を出た途端、明珠は息を飲んだ。


 うるさいほどの羽音を立てて、《刀翅蟲とうしちゅう》が宿営地内を飛び回っている。不可視の鋭い刃に斬られた兵士達の悲鳴が、あちこちから聞こえる。


「くそっ、こんな時に……っ!」

 明珠にだけ聞こえる小さな声で、龍翔が悔しげに呟く。


 宿営地は大混乱に陥っていた。


 龍翔が天幕の外へ出た途端、獲物に襲いかかる狼のように、《刀翅蟲》が龍翔めがけて飛んでくる。


「《風乗蟲ふうじょうちゅう》!」

 あわてる様子もなく、龍翔が《風乗蟲》を召喚する。


 ごっ、と天幕をぎ倒しそうなほどの突風が渦巻き、《刀翅蟲》が互いにぶつかり合う。


 腰にいていた『蟲封じの剣』を抜き放った張宇が跳ぶ。

 強風の中、なおも龍翔に迫ろうとしていた《刀翅蟲》が三匹、真っ二つに斬られて地面に転がる。


 《視蟲しちゅう》もないのに、この暴風の中で《刀翅蟲》が立てる羽音を、正確に聞き分けたというのだろうか。


 龍翔がんだ《視蟲》が、張宇や続いて出てきた季白や安理の額に止まる。が、龍翔は視蟲の行方など見もせず、明珠を抱えたまま、《風乗蟲》にまたがった。


「晴晶、来い!」

 龍翔の強い声に、弾かれたように晴晶が動く。


「龍翔様! わたくしと張宇も――」

 懐から巻物を取り出しながら季白が叫ぶ。


 龍翔が口を開きかけたところで。


 がらがらとけたたましい車輪の音とともに、一台の馬車が宿営地に走り込んでくきた。

 大きく開け放った馬車の窓から放たれた《刀翅蟲》が、宿営地を襲う《刀翅蟲》に向かっていく。


「遅くなりまして申し訳ございません! さん遼淵りょうえんが弟子、かん周康しゅうこう、微力ながら龍翔殿下にお力添えするべく、ただいませ参じました!」


 開け放った馬車の扉から、半身をのぞかせた若い男が名乗る。

 周康の姿を見とめた龍翔が頷いた。


「よく参った。早速で悪いが、この場の《刀翅蟲》の始末を頼む!」


 次いで、龍翔が季白と張宇を見る。


「季白! この場はお前に任せる! 張宇や安理、周康とともにこの場を治め、後から来い! わたしは一足先に《聖域》へ行く!」


 季白が返事するより早く、龍翔が言を継ぐ。


「お前達を乗せては、《風乗蟲》の速度が落ちる。今は、卵を《聖域》に返すのが、何よりの急務。明順がこの様子では、思うように術も使えんからな」


 明珠を抱く龍翔の腕に、力がこもった気がする。


「三人で飛べば、《刀翅蟲》も追いつけまい」

「ですが――」


 抗弁しかけた季白を、龍翔の力強い笑みが封じる。


「お前と張宇だからこそ、この場を任せられるのだ」

 信頼に満ちた眼差しが、季白を見据える。


「わたしの両翼であるお前達が背中を護ってくれるからこそ、飛び立てる」


「龍翔様……っ!」

 感極まったようにあるじの名を呼ばう季白に、龍翔は昂然こうぜんと命じる。


「季白、後をお前に任せる! 周康と協力し、なんとしても、これ以上の被害を食い止めよ!」


「はっ! この身に代えましても、一匹たりとも、龍翔様の後を追わせはしません!」

 季白の返答に、満足げに一つ頷き、


「《飛べ!》」

 龍翔が力強い声で風乗蟲に命じる。


 明珠と龍翔、晴晶を乗せた風乗蟲が、巨大な羽をはためかせ、空中へ舞い上がる。

「晴晶、間違っても落ちるなよ。不安なら、わたしの衣でも掴んでおけ」


 風乗蟲の長い巨体の上で、体勢を取りあぐねている晴晶に、龍翔が声をかける。


「も、申し訳ございません」

 晴晶の手が、ぎゅうっと龍翔の衣を掴む。


「《聖域》は、堅盾族の村を越えた先でございます!」


 晴晶の言葉に応じるように、風乗蟲が巨大な羽をはためかせる。巻き起こった強風に、龍翔に向かってきた刀翅蟲が吹き飛ばされていく。 


 周康の刀翅蟲が、よろめいた敵の刀翅蟲に襲いかかる。術師が間近でいる分、周康の蟲の方が、動きが的確だ。


 ごうっ、と明珠の耳元で風が鳴る。衣の裾や袖がばたばたとひるがえる。


 ともすれば、大人でも飛ばされそうな暴風だが、明珠の身体に回された龍翔の腕は力強く、何の不安も感じない。


「明珠。無理をさせてすまぬ」

 飛び立ってすぐ、龍翔に謝られる。


 視線を上げると、痛みをたたえた黒曜石の瞳にぶつかった。


 まるで、自分自身が傷ついているかのように苦しげな面輪おもわ。優しい龍翔のことだ。明珠に無理をさせているのではないかと、心配しているのだろう。


 少しでも龍翔の心の不安を減らしたくて、明珠は努力して笑みを浮かべる。


「大丈夫、です。守り袋のおかげで、少し楽になっていますから……」


 告げた途端、龍翔が形良い眉をしかめる。


「青い顔で強がりを言うな。つらいのなら、わたしが代わる。少しの間くらいなら、つはずだ」


 しかめ面と、怒ったような低い声。

 だが、それは明珠を心配しているゆえだと、ちゃんとわかっている。


 明珠は小さくかぶりを振った。


「ほんとに大丈夫です。一番最初に、《気》を吸われた時の衝撃が、まだちょっと残っているだけで……」


 守り袋を握ってましになったとはいえ、本当はまだ、身体中から力を吸い取られる脱力感に、ずっと襲われ続けている。


 が、龍翔の憂い顔をなんとかしたくて、明珠は無理矢理、笑みを刻んだ。


「それに、龍翔様に渡して、万が一、風乗蟲がかえっちゃったりしたら、《聖域》に辿りつけなくなっちゃいます。私なら、大丈夫ですから」


 黒曜石の瞳に視線を合わせて微笑むと、龍翔が唇を噛みしめた。


「本当に、すまぬ。一刻も早く《聖域》へと急ごう」


「《聖域》は村を越え、砂郭さかくに向けて進んだ先の……」

 風乗蟲で巻き起こる強風に負けまいと、龍翔の後ろの晴晶が声を張り上げる。


 正直なところ、明珠一人で風乗蟲にまたがっていたら、強風に耐えられず、飛び立つなり、落っこちていただろう。


 身体が重く、冷たい。


 ふだんは恥ずかしくて仕方がないのに、今は、しっかりと抱きしめてくれる龍翔の腕に、自分でも驚くほどの安心を覚える。


 龍翔がいてくれるのなら、何も不安などないのだと、純粋に、信じられる。


「つらいのなら、せめてわたしに身体を預けておけ。大丈夫だ。しっかり支えている」


「ありがとう、ございます……」


 こくん、と頷き、卵と守り袋を握りしめたまま、明珠は龍翔の胸にもたれかかった。



 ◇ ◇ ◇



「何が……。何が起こっている!?」


 馬を駆り、宿営地のすぐそばまできた陽達は、呆然と呟いた。


 鋭い羽音を立てて、陽達の頭上を宿営地めがけて飛んでいくのは、《刀翅蟲》の群れだ。


 これほどの数の《刀翅蟲》など、見たことがない。


 けたたましい車輪の音に振り向くと、陽達から少し離れた道の先を、一台の馬車が、ものすごい勢いで宿営地に突っこんでいく。


 馬車には術師が乗っているらしい。馬車から放たれた刀翅蟲が、宿営地を襲おうとしている刀翅蟲に向かっていく。


 宿営地は高い木の柵で囲われているため、中の様子は見えない。だが、空を飛ぶ刀翅蟲の動きなら見える。


 不意に、刀翅蟲が一点を目指して集まってくる。

 かと思うと、刀翅蟲の中央で、ごっ、と風が渦巻いた。風にあおられた刀翅蟲がよろめく。


 中で何が起こっているのかと目をらしていると、不意に、《風乗蟲》の巨体が舞い上がるのが見えた。


 遠目にも美麗な顔立ちの青年と、その背にしがみつく子どもが、風乗蟲にまたがっている。


 青年の顔は、孝站こうたんでも、先日、陽達の邪魔をした二人でもない。

 が、少年の方は晴晶ではないかと推測がついた。でなければ、派遣軍の宿営地に子どもがいるわけがない。


(子どもは二人いると言っていたが……)


 陽達の思考は、青年の腕に抱かれた人物が見えた途端、断ち切られる。


 血の気の失せた面輪。苦しげにしかめられた表情。

 華やかな女物ではなく、地味な男物を着ているが、見間違えるわけがない。


「明珠っ!」


 陽達の叫びを引きちぎるかのように、風乗蟲が暴風を巻き起こし、陽達の頭上を飛んでいく。


 どれほど探し求めても、ようとして行方の知れなかった明珠を、こんなところで見つけるなんて。

 しかも、敵である晴晶と一緒に。


 明珠の血の気の引いた顔に、陽達の胸に不安と恐怖が押し寄せる。


「明珠、待っていろ……っ! 俺が、なんとしても……っ」


 陽達は奥歯を噛みしめて馬首を返すと、風乗蟲を追って、駆けだした。


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