56 かそけき糸を追いかけて その2


 右手を包む、大きくあたたかな手。


 明らかに明珠より大きな手に思い浮かぶ人物は、一人だけだ。

 いつだって、明珠を気遣ってくれる龍翔の――、


「す、すみませんっ! 待っている間につい――っ!?」


 まぶたを開け、がばりと身を起こした明珠は、頭が真っ白になった。


 自分は確か、《聖域》近くの木立の中で、気を失ったはずだ。

 だが、この布団はいったい……?


「明珠っ!」


 大声で呼ばれて、明珠は、はっとして声の主を振り向いた。

 寝台の横で椅子に腰かけ、明珠の手をしっかと握っているのは。


「よ、陽達ようたつさんっ!?」


 名を呼ぶと同時に、掴んだ手をぐいっと引かれ、強く抱き締められる。


「明珠……っ! よかった、もう大丈夫だぞ!」

「あっ、あの……っ!?」


 龍翔とは異なる乱暴な抱擁ほうよう。かぎ慣れぬにおいに、思わず明珠は陽達の腕の中で暴れた。


「は、放してくださいっ! ここはどこですか!? 龍翔様はどちらにいらっしゃるんですか!?」


 ちらりと見えた周りの様子からすると、どうやら宿の一室のようだ。

 だが、なぜ自分がここにいて、陽達が目の前にいるのか、さっぱりわからない。


「龍翔? お前を抱きかかえていた若い男のことか?」

 明珠の暴れっぷりに、ようやく腕をほどいた陽達が、明珠の顔をのぞきこむ。


「だ、抱き……っ。どうして知っているんですかっ!?」


 あの時は無我夢中で恥ずかしいと思う余裕さえなかったが、龍翔に抱きかかえられていたところを見られていたなんて、恥ずかしいことこの上ない。

 一瞬で頬が熱くなる。


「あの男は何者だ!? ……もしかして、お前の想い人か?」


「……へ?」


 言外に、「断固認めんぞ!」という意志を込めて告げられた言葉に、思考が止まる。内容が、理解できない。


「俺は決して認めんぞ! お前をつらい目に遭わせるような男――」

「ち、ちちちち違いますよっ! 龍翔様は私の主人です!」


 混乱しつつ言い返すと、陽達が目をむいた。


「主人!? 明珠、お前まさか結婚して――!?」

「何考えてるんですか!? そっちの主人じゃありませんっ! お仕えしているご主人様ですっ!」


 興奮のあまり、明珠の両肩を掴んだ陽達の胸板を、叫びながら押し返す。


 何をどう間違ったら、そんな誤解ができるのだろう。

 陽達の力が強すぎて、肩が痛い。


「放してくださいっ! 早く龍翔様の元へ戻らないと――っ!」


 ここがどこかは知らないが、龍翔は絶対に心配しているだろう。

 というか、龍翔達と別れて、どのくらい経っているのか。


(職場放棄って、もし季白さんに見なされたら……!)

 がたがたと音を立てて血の気が引いていく。


(ど、どんな叱責が待っているか! きっと減給どころじゃすまない……っ!)


「あ、あのっ、助けていただいたのは、本当にありがとうございます! 後でちゃんとお礼はしますから! だから今は失礼し――」


「駄目だっ!」

 えるような声とともに、ぐいっと両肩を押された。

 成年男性の力にはかなわず、ぼすっと明珠は布団に仰向けに倒れる。


 一瞬、息が詰まり、目を開いた時には、目の前に、陽達の真剣な面輪があった。

 よく日に焼けた顔の中で、黒い瞳が激情を宿して明珠を見つめている。


「駄目だ! 死んだと思っていたのに……ようやく会えたんだっ! もう二度と、お前を失うものかっ!」


 魂から叫んでいるような、心の底から明珠を求める声。


 だが、明珠には陽達がこれほど執着する理由がわからない。陽達とは、数日前に一度、会っただけのはずだ。


「あ、あの、陽達さん。その……。私はついこの間まで、陽達さんのことを知らなくて……」


 告げた瞬間、陽達の精悍せいかんな顔がくしゃりと歪んだ。


 今にも泣きだしそうな表情に、明珠の胸がつきんと痛む。

 明珠の肩から右手を放した陽達が、そっと愛おしむように明珠の頬を撫でた。龍翔とは違う荒れた指先に、思わずびくりと身体が震える。


「別れた時、お前はまだ二歳だったから、俺のことなんて、覚えてなくて当然かもしれない。だが……。俺はお前を、忘れた日などなかった……」


 優しく優しく……。明珠の輪郭を確かめようとするかのように、陽達が明珠の頬を撫でる。


「明珠。お前は覚えていないかもしれないが、お前の名前は明珠ではない。お前の本当の名前は――」

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