13 恐れ多くて近寄れません? その1


 龍翔が戻ってきたのは夕刻だった。

 扉を開けた途端、春の柔らかな夕陽に照らされた長い影が、よく磨かれた床に伸びる。


 廊下と中庭をはさんだ高い壁の向こうには、あざやかな夕焼けが広がっている。茜色に染まった雲が美しい。


「龍翔様、どうかなさったんですか?」

 逆光なのでまぶしいはずはないだろうに、龍翔がしかめ面をしているのに気づいて、明珠は声をかける。


「ああ、いや……」

 明珠の視線に気づいた龍翔が、不機嫌な表情を消す。


「総督に今夜、歓迎の宴を催すと言われてな。張宇。これから風呂に入って支度を整える。見張りを頼む」


「かしこまりました」

 張宇がきびきびと着替えの用意などをし始める。

 書類を広げた卓の上を見た龍翔が、表情を緩めた。


「張宇と二人で、ずいぶん頑張ってくれたようだな」

「あっ、すみません。いろいろと広げっ放しで……。すぐに片づけます」


 夕食の頃まで戻ってこないだろうと思っていたので、張宇と二人であれこれと書類を広げたままだ。大きな卓の半分ほどが書類で埋まってしまっている。


「いや、わたしは身支度を整えたらすぐに出る。この後もまだ使うのだろう? なら、そのままでよい」


「……歓迎の宴、お嫌なんですか? 豪華なお料理がいっぱい出るんじゃ……?」

 どことなく、屈託のある龍翔の様子に、首を傾げて尋ねる。


 総督主催の宴なら、きっと豪華な料理がこれでもかと並ぶのだろう。官邸の高価な調度品を見るに、料理も凝っていて豪華に違いない。

 明珠だったら飛び上がって喜ぶところだが、龍翔はそうではないらしい。


「会ったばかりの、こちらに取り入ることしか考えていない者達に囲まれて、何刻も阿諛追従あゆついしょうを受けるなど、苦痛以外の何物でもない」

 鼻を鳴らして、龍翔が皮肉げに吐き捨てる。


「豪華な料理など、どうでもよい。それより、お前の手料理の方が、何倍も美味い」

 不意に明珠の手を取った龍翔が、悪戯っぽく笑う。


「り、龍翔様! そんなことをおっしゃったら罰が当たりますよ!」


 そういえば、龍翔は前にも似たようなことを言っていた。

 せっかく豪華な料理を食べられる身分なのに、味オンチなんて。


(なんて、おいたわしい……)

 気の毒になって長身を見上げると、龍翔の笑みが深くなる。


「お前が一緒なら、つまらぬ宴も楽しめるだろうにな。いっそ、お前も一緒に来るか? 豪華な料理を食べたいだろう?」


「えっ!? そりゃあ、食べてみたいですけど……。でも、私なんかが出てよい場ではございませんでしょう?」

 明珠の言葉に、内扉の開く音が重なる。


「明順の言う通りです。正体がばれたら、困るのは明順ですよ?」

 入ってきた季白が、渋面で告げる。


「人脈作りも立派な仕事の一つです。お嫌だというお気持ちはわかりますが、我慢してください」


「言われずともわかっている」

 季白の小言に、しかめ面で答えた龍翔が明珠を振り向いて、優しく微笑む。


「ではせめて、今夜の夕食は宴に出す料理と同じものをこちらにも出すよう、言っておこう」


「いいんですか!? ありがとうございます!」

 嬉しくなって、ぴょこんと頭を下げる。


「……やはり連れて行けんものかな……」

「龍翔様! 諦めが悪いですよ。さあ、お早く身を清めて、お着替えなさってください! あまり時間もないのですから」


 季白に口うるさい母親のように急き立てられ、龍翔が小さく吐息して明珠の手を放す。


「では、湯殿へ行ってこよう。明順。お前も後で入るといい」

「はい、ありがとうございます」

 季白と連れ立って出て行く龍翔を、明珠は頭を下げて見送った。


  ◇ ◇ ◇


「うわぁ……!」

 風呂に入り、部屋へ戻ってきた明珠は、着飾った龍翔を見て、思わず感嘆の声を上げた。


 総督主催の歓迎の宴となれば、乾晶で最も豪華で格式高い宴と同義だ。


 龍翔は、金糸や銀糸で刺繍ししゅうが施された藍色の絹の衣で身を包んでいた。背中には龍華国の象徴である《龍》が大きく刺繍されており、その見事さは、今にも絹から飛び出して、天へと昇っていきそうに見える。


 豪華な衣装をまとった龍翔は、まるで絵画から抜け出たような秀麗さだ。仙界から降り立ったと言われても納得できそうな気がする。見つめていると、魂を抜かれそうだ。


「どうした? ぼうっと立って、湯あたりでもしたのか?」


 見惚れていると、明珠が帰ってきたのに気づいた龍翔が、振り返って首を傾げる。


「いえ、龍翔様のお姿がご立派で……」

 もごもごと呟きながら、開けっ放しだった扉をあわてて閉める。

 我が事のように胸を張ったのは季白だ。


「あなたにも、ようやく龍翔様の偉大さがわかりましたか。素晴らしい御方に仕えられる僥倖ぎょうこうみしめ、これからも忠勤に励むのですよ」


「はいっ!」

 季白の声に、ぴしりと背筋を伸ばす。


「……季白。なぜお前がそんなに自慢げなんだ?」


「素晴らしい主に仕えられる喜びを表現しているだけです! いくら龍翔様を賛美しても、わたくしの喜びを言い表すには足りませんので!」


「お前に褒められても嬉しくない」

「ぶはっ」

「ぶっひゃっひゃっ」

 すげなく言い切った龍翔に、張宇と安理が吹き出す。


 明珠が衝立ついたての向こうの自分の長持に荷物を置いて戻ってくると、季白達は別室に移動して、龍翔一人が残っていた。


「どうした?」

 龍翔の姿を見た途端、立ちすくんでしまった明珠に、龍翔が不思議そうに問う。


「先ほどから様子が変だぞ? 体調でも悪いのなら……」

 伸ばされた手に、思わず身体に緊張が走る。


「明順?」

 手を止めた龍翔の眉が、いぶかしげに寄る。


「ああっ。いえ、その……」

 明珠はあわあわとかぶりを振った。


「龍翔様のお姿がご立派で……。いえっ、いつもの龍翔様も見目麗しいのは承知してるんですけれどっ。その……。そうやって着飾られると、見慣れていないせいか、いっそう恐れ多いなあって……」


 本当に、自分などが、この方にお仕えしていていいのかと不安になる。

 なんだか、一緒の部屋に入ることすら、恐れ多い。


「何を言い出すかと思えば」

 苦笑した龍翔が、不意に大きく一歩踏み出す。


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