29 おでかけのその前に? その1


「……ずいぶん、嬉しそうな顔をしているな」


 朝方、人目を避けて出発した馬車の中。

 いつものように、張宇が御者台に座る馬車に、明珠は龍翔、季白、安理と一緒に乗っていた。


 微妙に低い龍翔の声に気づかぬまま、明珠は笑顔で頷く。


「もちろんです! 出かけるとはうかがっていましたけど、まさか、『英翔えいしょう様』とご一緒できるなんて!」


 明珠の隣に座るのは、少年姿の龍翔だ。

 季白からは、今日は「英翔」と呼ぶようにと、重々言い含められている。


 ここ数日、龍翔の姿を保っていることが多かったため、少年姿を見るのは久しぶりな気がする。


 少年姿の龍翔を見ているだけで、自然と笑みがこぼれるのだから、不思議だ。


「……龍翔ではなく、『英翔』と出かけられる方が嬉しいのか、お前は……?」


 呆れたような声音に小首を傾げ、

「だってですね……」

 と説明する。


「龍翔様と出かけるのは、なんとなく恐れ多いと言いますか……。その点、英翔様なら、順雪と同じ年頃ですから緊張もしませんし、何より、英翔様のお可愛らしい姿を存分に拝見できるのが嬉しいです!」


 言った瞬間、少年龍翔の小さな手に、指を絡めとられる。

 ずい、と、いたずらっぽくきらめく黒曜石の瞳が、間近に迫る。


「わたしは、叶うならば本当の姿で、お前と出かけたかったぞ?」


 明珠が口を開くより早く、割って入ったのは季白だ。


「おやめください! 本来のお姿で街へ出られるなど! 隠しても隠し切れぬ御威光に、衆目を集めること必至でございます! 何のために張宇を護衛につけるとお思いですか⁉ そのお姿でも危険がないよう、お守りするためです!」


 目を三角にする季白に、龍翔は呆れたように鼻を鳴らす。


「何を大げさな。これほど大きな街なのだ。わたしが元の姿で歩いたところで、注目を集めるわけがなかろう?」


「何をおっしゃいます! 龍翔様はご自身の輝きをあまりに軽く見過ぎでございます! わたくしも、お忍びでさえなければ、乾晶の民とともに、龍翔様の素晴らしいお姿にひれ伏したいところでございますが……っ! まことに無念でございます!」


 くうぅっ、と歯噛みしそうな季白に、安理が、


「ぶっひゃっひゃ! 季白サンは龍翔サマのことになると、頭のネジが外れるっスね!」

 と馬鹿笑いする。


(季白さんの心配は、あながち間違いじゃないかも……)


 女の子とみまごうほどに愛らしい少年龍翔の面輪おもわを見て、明珠はひそかに思う。


 今、龍翔が来ているのは、絹ではなく綿の着物で、ちょっといい商家のお坊っちゃんという風情だ。

 もっと粗末な着物の方が、庶民にまぎれこみやすいのかもしれないが、気品のある愛らしい顔立ちといい、所作からにじみ出る優雅さといい、下手に質素な服を着ると、ちぐはぐで逆に目立ってしまうだろう。


 少年姿でもこうなのだから、もし、龍翔が元の青年で街を歩けば、その美貌で、老若男女問わず、嫌でも人目を集めるに違いない。


「それに、明順の正体を隠しておくためにも目立たぬ方がよろしいでしょう?」

 なだめるような季白の声音に、龍翔が小さく吐息する。


「そうだな。今日はわたしの楽しみのためではなく、明順への褒美ほうびも兼ねているしな。……いや、わたしも楽しませてもらうが」


「?」


 明珠は小首を傾げたが、龍翔はいたずらっぽく笑うばかりで、答えてくれそうにない。と、馬車が停止した。


「では、わたくしは記帳を済ませたら、早速、出てまいりますので。英翔様達も、夕刻にはお戻りくださいね」


「ああ」

 龍翔が頷き、そろって馬車を降りる。


 季白が記帳と言っていた通り、馬車が停まったのは、立派な宿の車止まりだった。


「こちらへ来い」


 龍翔に手を引かれてついていった先は、内扉で二間続きになった客室だ。張宇と安理の二人も一緒にくる。季白とは、ここで一時、別れるらしい。


「ええと……。今夜は乾晶の街にお泊りなんですか?」


 官邸も宿営地もすぐそばなのに、と思いながら尋ねると、「いや」とかぶりを振られ、さらに戸惑う。

 何があるのだろうか。龍翔だけでなく、張宇と安理も、妙に楽しそうな顔をしている。


「あの……?」

「隣の部屋で、これに着替えてこい」


 尋ねるより早く、紺色の布でくるんだ大きめの包みを渡される。


「え?」

「その官吏見習いのお仕着せで、街をうろつくわけにもいくまい?」


 確かに、今日は張宇も安理も、市井に混じっても目立たない、地味な色合いの服を着ている。とはいえ、二人とも、いつも地味な色合いなのだが。


「あっ、お忍びですもんね! わかりました。すぐに着替えてきます!」


 どうせ着替えるのなら、宿営地で着替えてくればよかったのでは? と思いつつも、包みを抱え直す。

 三人を待たせては申し訳ないと、急いで隣室に移動し、包みを開けた途端。


 薄紅色や濃い桃色の華やかな色彩があふれ出て、びっくり仰天する。


 思わず、包みごと着物を抱え、閉めたばかりの内扉を、乱暴に開け放つ。


「り……え、英翔様!? これって……っ!?」


「ん? 薄紅色は気に入らなかったか?」

 不安そうに小首を傾げられ、あわててぶんぶんと首を横に振る。


「好きです! とっても綺麗な色で……って、そうじゃなくてっ! こ、これ……」


「今日は羽を伸ばす日なんだ。お前も、たまには本来の姿に戻りたいだろう?」

「お気遣いありがとうございます」


 龍翔の優しさに感じ入って思わず頭を下げ――、しかし問題はそこではないと、がばりと頭を上げる。


「でもですね! これ、綿のいい着物じゃないですか!? お教えくださったら、自分の着物を持ってきましたのに……。こんな仕立てのいい着物、どうなさったんですか!?」


「ああ、安理に買ってこさせた。お前にやる」


「ええっ!? いただけませんよ、こんな高そうな着物! ……も、もしかして、お給料から天引きですか?」


 びくびくしながら尋ねると、龍翔が笑ってかぶりを振る。


「そんなわけがないだろう。お仕着せのようなものと思っておけ。……本当は、絹の着物でもよかったのだが、お前が嫌がるだろうと思ってな」


「当り前です! 絹なんて、そんなっ! 恐れ多くて着れませんっ!」


 ぷるぷると首を横に振ると、「だろう?」と龍翔がしたり顔で頷き、嘆息する。


「しかし、綿でも似たようなことを言われるとはな……」


「だ、だって……。これ、古着じゃなくて新品ですよねっ!? 私じゃ、こんな高い服、とてもじゃないけど手が出せませんっ!」


 いつも絹の服を着ている龍翔にわからないかもしれないが、明珠にとっては、高い服はすべからく恐ろしい。

 汚したらどうしようかと、気が気ではない。


 母を亡くしてからこのかた、家事に内職に臨時雇いにと忙しく、着る物にかまけている暇など、まったくなかったのだ。

 娘らしい、華やかな色合いの着物は、見ているだけで心が弾んでくる。だが、明珠にとっては、見ているだけでもう、十分だ。


 これを身にまとい、着飾っている自分など、逆立ちしても想像できない。


「お前も年頃の娘なのだ。たまには華やかに着飾ってみるのも、悪くないだろう?」


 大事に着物を抱える明珠を真っ直ぐに見つめ、まるで心を読んだかのように、龍翔が口を開く。


「それに」

 視線を合わせたまま、不意に少年龍翔が愛らしい面輪に、悪戯いたずらっぽい笑顔を浮かべる。


「わたしは、可愛らしく着飾ったお前と、街を歩いてみたいぞ?」


「っ!?」

 思わず、息を飲む。


 なぜかばくばくとなる心臓を、包みを抱えた腕でぎゅっと押さえ――、服に変なしわをつけてはいけないと、あわてて緩める。


「……英翔様、順雪と同じことをおっしゃるんですね」


 実家にいた頃、時折、順雪が気遣うような表情で言っていたことを思い出す。


「年頃なんだから、もうちょっと身なりに気を遣ってもいいんだよって……」


 順雪には、そう言われるたびに「大丈夫! 私はこの動きやすい服装が気に入っているんだから。それに、くたびれてきたとはいえ、母さんが遺してくれた服なんだし」と答えていた。


 実際、服にかけられるお金などなかったのだから、いくら順雪の気遣いが嬉しくても、どうしようもなかった。


 だが、今は己の腕の中に、華やかな着物がある。明珠だって、年頃の娘だ。こんな綺麗な服を着ていいと言われて、嬉しくないわけがない。


「英翔様……っ! 本当に、ありがとうございますっ!」


「あ、ああ……」

 満面の笑顔で告げると、なぜか龍翔がうっすらと顔を赤くした。


「じゃあ、すぐに着替えてきますね!」


 隣室に行き、扉を閉める寸前。


「ぶっひゃっひゃ。英翔様、よかったっスね~。あ~んな可愛い笑顔を見られて♪」


 安理のからかうような声が、かすかに聞こえた。

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