59 「聞かぬ」 その2
あれほど飛んでいた《刀翅蟲》の姿は、一匹もない。
立ち上がり、着物の乱れを簡単に直した龍翔が、ぼうっと《龍》を見上げている明珠に、手を差し伸べてくれる。
手を借りて立ち上がった途端、頭上から声が降ってきた。
「龍翔様! 明順! 御無事でいらっしゃいますか!?」
声とともに、張宇が屋根から飛び降りてくる。
次いで、
「明順チャン、おっかえり~♪ いや~、どこ行ってたの?」
と安理がにやにやと笑いながら降り立ち、
「どこに行っていたのではありませんっ! 職務を放棄して龍翔様を危険に遭わせるなど……っ! 万死に値しますっ!」
怒り狂った季白と、明珠の見知らぬ若い男が、《
「ひいぃっ! すみませんっ!」
がばりと季白に頭を下げようとした瞬間、不意に龍翔に腕を引かれる。と、頭からばさりと一枚の古着をかけられた。
「肩以外にも、着物が切れているではないか! 本当に、なんという無茶を……っ!」
古着の一枚を取り上げた龍翔が、厳しい顔で明珠をぐるぐるとくるんでしまう。
「だ、大丈夫です! 龍翔様が治してくださったので……」
《
「治せばよいという問題ではないっ!」
龍翔の眉が跳ね上がる。
「そうだぞ、明順。龍翔様だけではなく、俺達もどれほど心配したことか……」
張宇に穏やかに
「本当に、申し訳ありません……」
「事情はすぐに確認します。が、その前に。
割って入った季白が、見知らぬ男を振り返る。
「今こそ、敵の術師を捕らえる好機。できますか?」
「わたくしにどこまでできるかわかりませんが……。禁呪を取り締まるのは、そもそも
頷いた周康が《感気蟲》を召喚する。
屋根の上まで飛んだ《感気蟲》が、術師の気配を捉えたのか、すぐに見えなくなる。《感気蟲》を追って、《龍》も宙へ舞い上がった。
「わたし達も追うぞ」
飛んでいった《感気蟲》と《龍》の姿はすでに見えないが、一定以上の腕前の術師なら、己が召喚した蟲の後を追うのは、造作もない。
龍翔が告げ、明珠はあわてて、龍翔にくるまれた古着に袖を通した。
脱いだら龍翔に叱られそうな気がする。お金を払っていない古着に袖を通すのはためらわれたが、後でちゃんと支払おうと心に決める。
「
かしこまる季白に、歩きながら龍翔が指示を出す。
「被害についてはこちらで賠償する旨を伝えておけ。……今回の被害は、わたしが砂郭に来なければ、起こらなかっただろうからな」
龍翔の言葉に、明珠は思わず身体を強張らせる。龍翔が砂郭に来る羽目になったのは、明珠がさらわれたせいだ。
そもそも、明珠が意識を失わず、龍翔を待っていたら、この襲撃自体、起こっていなかったかもしれない。
《刀翅蟲》のせいで、町はどれほどの被害を受けたのだろうか。
と、不意に龍翔に引き寄せられ、明珠はたたらを踏んだ。
「何を考えている? もしかして、この事態は自分が招いたなどと、思っているのではなかろうな?」
明珠の心を読んだかのように、龍翔が顔をのぞきこむ。
「それは違うぞ」
きっぱりと否定され、明珠は驚いて秀麗な面輪を見上げる。
「これは、お前のせいではない。悪いのはお前をさらった者であり、《刀翅蟲》を放った術師だ。お前は、富裕な商人が賊に襲われたとして、賊ではなく、商人が富裕だったこと自体が悪いというのか?」
「いえ……」
龍翔が言う内容は、理屈ではわかる。明珠が気に病まないよう、慰めてくれているのも。だが、感情がうまく整理できない。
と、龍翔が唇をつりあげ、凄みのある笑みを浮かべる。
「――で、わたしから、大切なお前を
「っ!?」
冷ややかな怒気を孕んだ龍翔の声に、明珠は思わず身を強張らせる。
明珠自身は単なる従者だが、なんせ、主の身分が身分だ。ふつうの誘拐より、罪が重くなる可能性は十分にある。
無駄かもしれないと思いつつ、明珠は必死に言葉を紡ぐ。
「あのっ、その……っ。その人は、気を失っている私を助けようとして、その……っ」
「お前が
「なっ、何で知ってらっしゃるんですかっ!?」
反射的に返事してしまい、明珠はあわてて自分の口を両手でふさぐ。
龍翔の返事は、あっさりしたものだった。
「お前がいぬ間に、
「は、はい。その通りですけれど……っ。あのっ、陽達さんは私を逃がそうと手伝ってくれて……。だから、決して悪い人じゃ……」
「逃がす? 誰からだ?」
龍翔の形良い眉が、いぶかしげに寄る。
「ええと……」
明珠もつられたように眉を寄せた。
「
「砂波国だとっ!?」
龍翔が
「何者だっ、その史傑とやらは!?」
噛みつくような声に、明珠はふるふると首を横に振る。
「術師で、陽達さんに「砂波国の
陽達は自分の腕に自信ありげだったが、無事だろうか。今になって、心配になってくる。
「ここで砂波国の名が出てくるか……っ」
龍翔が珍しく、
「どーしましょ? オレは陽達とその史傑ってのを確保しにいきましょうか?」
安理が龍翔に尋ねる。
狭い路地から広い往来に出たところで、季白が龍翔の命を果たすため、一礼して離れていく。
広い通りには、明珠達の他には人影一つなかった。当たり前だ。《刀翅蟲》が飛び交う中に留まろうと思う者などいない。
「そうだな。安理。お前は陽達と史傑を捕らえよ。特に史傑をな。術師の方は、わたしと周康で対処――」
指示を出していた龍翔が、ふと顔を上げる。同時に、周康もつられたように空を見上げた。二人に続いて、明珠が見上げたそこには。
「
《晶盾蟲》の脚に捕まって飛んでくる晴晶と孝站の姿に、明珠は目を丸くした。
そばまできて《晶盾蟲》から飛び降りた二人が、龍翔に駆け寄り、さっと片膝をついて礼を取る。その顔色は、青ざめていて、
「申し上げます!」
龍翔が問うより早く、
「
晴晶が身体を折り畳むようにして、深く頭を下げる。
「この時機に、砂波国が攻め入ってきただと……っ!?」
龍翔が奥歯を噛みしめる。
晴晶の声が聞こえたのだろう。季白が駆け戻ってきた。
「季白! 今からでは間に合わんが、
龍翔が《
「安理。多少、手荒な手を使ってもかまわん! 史傑を何としても捕らえろ! 砂波国の狙いを明らかにせよ!」
「へいへーい♪」
龍翔が召喚した《
「周康。すまぬが術師の捕縛はお前に任せる。張宇、周康の補助を」
「かしこまりました。わたくしめでどれだけのことができるかわかりませんが、殿下の
周康が丁寧に頭を下げる。
「言うまでもないだろうが、相手は禁呪を使う。くれぐれも油断するなよ。張宇。周康を頼んだぞ」
「お任せください」
腰の剣の柄に手をかけ、力強く頷いた張宇が、龍翔を見つめる。
「龍翔様は、どうなさるのですか?」
「砂波国に攻め入られるわけにはいかぬ」
秀麗な面輪を引き締めた龍翔が、強い声できっぱりと宣言する。
「わたしは《龍》で国境へ赴く」
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