58 「聞かぬ」 その1


 ぼふりっ、と身体が布地に沈んだのは、ほんの一瞬。


 二人分の重さと勢いに耐えきれなかった天幕が裂け始める。


 何とかせねばと思うより早く、力強い腕に抱き締められ。

 悲鳴のような音を立てて裂けた天幕ごと、その下の露店へと、明珠は龍翔もろとも落下した。


 予想より軽い衝撃と、ばさばさと身体の上に落ちてくる何枚もの布。


 明珠と龍翔が落ちたのは、どうやら古着屋の露店だったらしい。

 陶器や金属器の露店でなくてよかったという安堵は、龍翔を下敷きにしていると気づいた瞬間、吹き飛んだ。


 守り袋を握りしめていたせいで、青年姿に戻った龍翔が、明珠の下にいる。

 先ほどまでとは違い、ちゃんと姿は見えるが……。古着の一枚が顔の上にかかっていて、表情がよく見えない。


 明珠に落下の衝撃が少なかったのは、龍翔が下敷きになってくれたからに違いない。


「すっ、すみま――っ」


 頭や肩に古着をまとわりつかせたまま、龍翔から身を離そうとして。


 逆に、強い力で抱き寄せられる。


 頭の後ろに大きな手が回る。

 龍翔が乱暴に、自分の顔にかかった布をはぎ取った。秀麗な面輪があらわになったかと思うと。


「明珠」


 龍翔が、明珠の頭をぐい、と引き寄せる。


 謝罪を紡ごうとしていた唇が、龍翔のそれにふさがれる。

 むさぼるような、荒々しいくちづけ。


 反射的に押し返そうとした手のひらが、なめらかな素肌にふれ、火傷やけどしたように指先を握りこむ。


 離れたくても、頭の後ろに回った大きな手が、逃してくれない。


 窒息する、と怖くなったところで、ようやく唇が離れた。

 あえぐように息を吸いこんだところで、ふたたびぐいっ、と引き寄せられる。


 燃えるように熱い唇が、明珠の呼気を奪っていく。


 息ができない。心臓が壊れそうだ。

 身体中が熱くて、火でも出るのではないかと心配になる。


「んんんっ!」


 くぐもった悲鳴を上げると、名残惜しげに唇が離れた。

 と、ごろりと龍翔が明珠と上下を入れ替える。


「つぅっ」

 肩の痛みに、明珠は思わず呻いた。


 明珠に覆いかぶさろうとしていた龍翔が、肩の傷に気づいた瞬間、顔を強張らせる。


「怪我を……っ⁉」

 肩の傷に手をかざした龍翔が《癒蟲ゆちゅう》を喚び出す。痛みがゆっくりと薄らいでいく。


「《刀翅蟲とうしちゅう》が飛び回る中を来るなど、なんという無茶を……っ‼」


 明珠を見下ろした黒曜石の瞳に、剣呑けんのんな光が宿る。

 はらりと、龍翔の乱れた黒髪が明珠にかかった。


「ほ、本当にすみ――」


 謝りきらぬうちに、思い切り、抱き締められた。


「戻ってお前の姿がなかった時、どれほど驚き、心配したことか……っ! 気が狂うかと思ったぞ!」


 龍翔の震える声が胸に迫る。

 務めを放棄した罪悪感だけではない。明珠が龍翔にかけてしまった心痛を想像するだけで、申し訳なさに涙がにじむ。


「も、申し訳――」

「聞かぬ」


 決然と告げられた声の強さに、身がすくむ。

 それほど、龍翔を怒らせてしまったのかと。


「龍――」

 謝罪は、乱暴なくちづけに断ち切られる。


 驚愕に見開いた目に飛び込んだのは、切羽詰まった光を宿した黒曜石の瞳。

 明珠の心を鷲掴わしづかみにするような眼差しに、思わず固く目を閉じる。


 かぶりを振って逃げようとしたが、頬を包む手が許してくれない。押し返そうとした右手は、長い指先に絡めとられた。


「んんっ」


 空気を求めて喘いだ声さえ奪う、激しいくちづけ。

 まるで、狼のあぎとさらされているかのような。


 うまく言葉にできない恐怖に、身がすくむ。


 叱責されて当然の大迷惑をかけた自覚はある。だが、龍翔の怒りは、謝罪すら聞いてくれる気がないほど深いのかと、申し訳なさに身体が震える。


 じわりと浮かんだ涙が、まなじりからこぼれ落ち、頬にふれる龍翔の手を濡らし。


「明珠っ⁉」


 驚きの声を上げた龍翔が、身を起こす。二人を覆い隠すようにかぶさったままの布の何枚かが揺れる。


 ようやく自由になった呼吸に、明珠は震える息を荒く吐いた。


 全身に広がる震えが、唇をわななかせる。

 羞恥で身体が熱いのか、恐怖で冷えているのか、自分でもよくわからない。


 ただただ、申し訳なさに全身が震える。喉が詰まって、声がうまく出てこない。


「しゃ、謝罪も聞きたくないほどのお怒りは、当然で……っ。ほ、ほんとに申し――」


「違う! そうではない!」


 龍翔の面輪が、泣き出しそうにくしゃりと歪む。


「お前に非はないのに、謝罪を聞く必要がどこにある⁉ 謝らねばならぬのは、お前を危険な目に遭わせたわたしのほうだろうっ⁉ それに――」


 龍翔の親指が、そっと明珠の唇を辿る。

 背中が粟立あわだつような感覚に、明珠の身体がぴくりと震える。


 まるで燃えているように熱い、龍翔の指先。 

 唇で優しく明珠の涙をすいとった龍翔が、真っ直ぐに明珠を見つめ。


「お前をこの腕の中に取り戻した途端、何もかも忘れて、ただただお前を確かめたい衝動に囚われてしまった」


 するり、と龍翔の腕が明珠を抱き寄せる。


「無事で、よかった……」


 絞り出された潤んだ声に、明珠まで泣き出しそうになる。というか。


「と、刀翅蟲はっ⁉ 皆さんは無事なんですかっ⁉」


 龍翔に逢うため無我夢中だったのと、戻れた喜びで吹っ飛んでいたが、ここは路地だ。

 張宇達の安否も気にかかる。それに。


「り、龍翔様、なんでそんなにお着物がはだけてらしゃるんですかーっ⁉」


 それどころではないのはわかっているが、明珠にとっては大いに困る。胸元の守り袋を握りしめている左手が、龍翔の素肌に押しつぶされて、変な汗をかいている。


「仕方がなかろう。子どもの姿から、一気に変じたのだから。それに、《刀翅蟲》なら、もう心配ない」


 苦笑した龍翔が身を起こす。

 かぶさっていた何枚もの古着が取り払われ、視界が広がる。


 明珠が落っこちた高い屋根の向こうの青い空に。


 白銀に煌めく《龍》が、舞っていた。



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