60 (幕間)白銀の暴威


「ひぃぃっ」

 薄揺はくようはかすれた悲鳴を上げた。


 目の前には、人の身丈ほどの、白銀に輝く《龍》。


 鎌首をもたげ、薄揺はくよう冥骸めいがい睥睨へいげいする《龍》は、今にも襲いかかってきそうだ。


 可能ならば、このまま気を失ってしまいたい。そうすれば、押し潰されそうなこの恐怖から逃げ出せるというのに。

 だが、限界を超えた恐怖は精神を縛りつけるかのように、意識を失うことすら、許してくれない。


 喉がひりつく。息を吐き出すだけでも、《龍》の気を引いてしまいそうで、薄揺は極限まで息をひそめる。


 と、薄揺は異音を聞きつけて、びくり、と身体を震わせた。


 びついた人形のように、音の出どころを探して、目だけを動かす。


 冥骸の背中が、揺れていた。


 はじめ、恐怖のあまり、気でも狂ったのかと思ったが。


 ……違う。


 冥骸は、わらっていた。

 喉を鳴らし、くつくつと楽しげに。


「ついに、《龍》が我が前に……っ! 我が渾身こんしんの禁呪ですら、まだ届かぬというか……。だが……っ」


 陶然とうぜんと呟く冥骸を、薄揺は信じられぬ思いで見つめる。


 ひれ伏さずにはいられない《龍》の威圧感を前に、あろうことか、楽しげにわらうとは。


 《龍》をここまで導いてきた《感気蟲》は、冥骸が放った《刀翅蟲》によって、すでに滅せられている。

 《刀翅蟲》は、《龍》にも襲いかかろうとしたが、白銀の尾の一振りだけで、返り討ちにあってしまった。


 昼日中ひるひなかだというのに薄暗い、町外れの倉庫に中にいるのは、《龍》と冥骸と薄揺だけだ。


 砂塵のせいで埃っぽい空気が、緊張に張り詰めている。


「我が禁呪はただ、《龍》をほふるためだけに……」


 恍惚感さえ感じられる声音で、冥骸が呟く。


 くらい闇がこご黒瞳こくどうがひたり、と《龍》を見据え。


 ――何の前触れもなく、双方が動いた。

 

 《龍》が白銀の槍となって、冥骸に襲いかかる。

 同時に、冥骸が、闇色の小さな蟲を放った。


 身をくねらせた《龍》が、力強い尾を《蟲》に叩きつける。

 叩きつぶされた蟲が、黒い塵のように散り消える。


 空中で軽やかに輪を描いた《龍》のあぎとが冥骸に迫る。

 とっさに身体を庇った冥骸の左腕に、鋭い牙が突き立った。


 びじゃり、と響く、湿った音。


「ひいぃぃぃっ!」


 薄揺は身も世もなく、恐怖に悲鳴をほとばしらせていた。


 薄汚れた床の上に、肘から先の冥骸の左腕が、喰いちぎられて転がっている。

 ぐらり、と黒衣に包まれた冥骸の身体がよろめいた。


 空中で一回転した白銀の暴威が、冥骸に迫る。


 が。

 不意に、《龍》が動きを止めた。


 まるで、風の音を聞くかのように、鎌首をもたげたかと思うと――不意に、その姿がかき消える。


 何が起こったのか理解できず、薄揺は呆然と《龍》がいた空中を見つめる。


 隙間から差し込んだ陽光の筋が、うっすらと埃を浮き上がらせている光景は、ついさっきまでそこに《龍》がいたとは、とても信じられない。


 ぱたぱたと雫のしたたる音に、薄揺は我に返った。

 同時に、冥骸の身体がかしぎ、床にくずおれる。


 薄揺は弾かれたように冥骸に駆け寄り、黒衣に包まれた身体を抱き起した。


 冥骸から逃げるのならば、今こそが好機なのかもしれない。しかし、薄揺の道義心と、逃げ出した時に腹の中でかえるだろう卵への恐怖が、逃走を阻む。


 くずおれたものの、冥骸は気を失ってはいなかった。

 己で《癒蟲》を召喚し、傷口をふさぐ。だが、いかに《癒蟲》でも切り離されてしまった腕を元通りにすることはできない。


 一気に血を失った冥骸の顔色は、青いを通り越して土気色だ。


 だが。

 血の気を失った唇が、今もなお笑みの形を刻んでいるのに気づいて。


 薄揺は、己の背中を、冷や汗が音を立てて流れ落ちるのを感じた。



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