9 いざ、総督官邸へ! その3
「
範がふうっ、と大きな身体から大きな吐息を吐き出す。
「ですが、第二皇子殿下が、千人もの軍勢を率いてきてくださったとなれば、堅盾族も愚かなことをしでかすことはありますまい」
範は小さな目を期待に輝かせて龍翔を見やる。
明珠からは龍翔の後ろ姿しか見えないが、広い肩がわずかに揺れた。かすかな吐息が耳に届く。
「一つ聞くが、範総督自らは、堅盾族の居住地へは赴いたのか?」
「わたくしでございますか?」
範は小さな目をしばたたかせる。
「いえ、なにぶん、これでも忙しい身でございまして。わざわざ堅盾族の元まで行く暇は、とてもとても……。もちろん、使者は何度も遣わしております」
「範総督は、それはもう、乾晶の安寧のためにご尽力されておりまして」
あわてて口をはさんだのは貞だ。
「堅盾族が何を画策しているのかは、現在のところ、まったくわかっておりません。そのような状況の中、総督が万が一、堅盾族に赴き、囚われるようなことが起これば、乾晶は無体な要求にも屈さねばならなくなります。もし、そんな事態が起これば、混乱に収拾がつかなくなりましょう。総督が、襲撃があった後も、官邸でどっしりと構え、堅実に政務を
「……なるほど」
龍翔が何を考えているのか、静かな声音からは、明珠は読み取れない。
「その
「いえいえ。龍翔殿下のお手をわずらわせようなどとは思っておりません。龍翔様は、乾晶でごゆるりとお過ごしいただくだけでよいのです。《龍》のお力を持つ龍翔殿下が、軍勢とともに乾晶に滞在なさっている。その事実だけで、よからぬ企みを持つ者は震え上がり、
範があわてた様子でぶ厚い手のひらをばたばたと振る。
総督の言葉は龍翔を持ち上げて、その実、余計なことはしてくれるなと、釘を差しているようにも見えた。
「だが、せっかく遠路はるばる乾晶まで来たのだ。武功の一つでも立てねば、わたしを遣わせた皇帝陛下に顔向けができぬ」
いつもの龍翔らしからぬ物言い。
だが、範と貞には、それで十分だったらしい。
「もちろん、龍翔殿下が武勲を上げられるのをお止めする気は、毛頭ございません。落ち着いてきたとはいえ、治安はまだ不安定でございますし、乾晶の富を狙う
範が媚びるような笑みを見せる。龍翔は、ゆっくりと一つ頷いた。
「うむ。民のために剣を振るうことはやぶさかではない。連れてきた兵士達の訓練にも、ちょうどよいだろう。だが……」
龍翔は盃の酒を一口飲むと、ゆったりと椅子の背にもたれた。
「範総督がその安寧に心を砕いているだけあって、乾晶の豊かさは目を見張るほど。すこぶる快適そうだ。差し迫った脅威がないのなら、長い行軍で疲れた身体をしばし休めるのも、悪くはあるまい」
「その通りでございます! そうぞ、官邸にでごゆるりとお過ごしください。何かご希望がございましたら、この範の力の及ぶ限り、叶えてみせましょう」
範が胸に手を当て、恭しく頭を下げる。隣の貞も総督にならって頭を下げた。
「よろしく頼む」
満足そうに頷いた龍翔が杯の中の酒を飲み干し、かたりと卓に置いた。
「では、今宵はこの辺りで休ませてもらおう」
「かしこまりました。お荷物はすでにお部屋に運んでおります。すぐにご案内いたしましょう」
範が合図をすると、
「お休みになられる前に、ゆっくりと湯に
「ああ、それはありがたい。兵の指揮を執るためには仕方がなかったとはいえ、宿営地は快適に過ごせる場所とは、お世辞にも言えぬゆえ」
龍翔の言葉に、範が我が意を得たりとばかりに頷く。
「そうでございましょう。宿営地とは比べものにならぬほど、官邸は快適でございます。龍翔殿下にも、必ずお気に召していただけるかと」
「そうか、それは楽しみだ」
秀麗な
「ご案内いたします」
と、すぐさま貞も席を立ち上がった。
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