31 本当の名前はなんですか!? その2


「大丈夫か!?」


 男の腕が外れた瞬間、突然のことにたたらを踏んだ明珠を、青年が抱きとめる。


 喉に急に空気が流れ込み、明珠は激しくき込んだ。胸元に下げたお守りがちゃらりと揺れる。


「おい、怪我は――っ!?」

 明珠に問いかけた青年が凍りつく。


「だ、だいじょ……」

 ようやく咳き込みがおさまってきた明珠は、長身の青年を見上げた。


 二十代半ばくらいだろうか。きたえられた体格の良い青年だ。右腕に巻いたあざやかな黄色の布が目を引く。


 よく日に焼けた精悍せいかんな顔は、信じられないものを見たかのように、大きく見開かれていた。


「お前……っ!?」

 手袋のように分厚く大きい手が、明珠の両肩を思い切り掴む。


「っ」

 遠慮のない力に肩の骨がきしみ、明珠は思わず呻いた。


「す、すまん!」

 青年の手が緩んだ瞬間、


「離れろっ!」


 明珠と青年の間に、小柄な影が割り込んだ。


「え、英翔様っ!?」


 明珠をかばうかのように、青年との間にせた身体をすべりこませた龍翔が、青年をにらみつけたまま、「怪我はないか?」と早口に問う。


「だ、大丈夫です。この方が、助けてくださいましたから……」

 明珠の返事に緊張に肩をいからせていた龍翔の身体が、わずかに緩む。


「坊主、どけっ! オレはこの嬢ちゃんに聞きたいことが――」


「この娘はわたしの侍女だ。話があるというのなら、主人であるわたしを通してもらおう」


 青年の言葉をさえぎり、龍翔が昂然こうぜんと告げる。


 年端としはもいかぬ少年とは思えぬ龍翔の威圧感に、青年が飲まれたように声を途切れさせる。


 かと思うと、ぎり、と奥歯を噛みしめ、負けじと頭二つは小さい龍翔を睨み返した。


「オレはただ、この娘が何者か知りたいだけだ!」


「何者か、だと?」

 ひやり、と龍翔から冷気が立ち昇った気がして、明珠はごくりと喉を鳴らす。


「この娘が何者であろうと、お前には関係ない」


 刃のように鋭い声で、龍翔が断言する。

 青年の精悍な顔に、ぱっ、と朱が散った。


「そんなことはない! この娘は……っ、術師だろう!?」


「っ!?」

 《蟲》をんでもいないのに、どうしてばれたのだろうと、明珠は息を飲む。

 龍翔の痩せた背が、再びぴりぴりと緊張を孕んだ気がした。


「何を根拠に言う?」

 尋ねる声は、地の底をうように低い。


「根拠も何も、その娘はオレが放った縛蟲の動きを、ちゃんと目で捉えていた! 術師じゃなかったら、何だというんだ!?」


「いえっ、私は術師と名乗れるほどの腕は……」


 反射的に答えると、振り向いた龍翔に睨まれた。余計な口をきくなということだろう。


「《蟲》が見えるんだな!? なあ嬢ちゃん、あんたの名前は!? 出身はどこだっ!?」


「名乗りもせぬ怪しい男に教える馬鹿がどこにいる!?」


 明珠の口をふさぐ代わりと言わんばかりに、龍翔が、明珠の手を強く握り締める。

 青年の必死な声音に、つい答えそうになっていた明珠は、龍翔の力の強さに、はっとして口をつぐんだ。


「オレは怪しい者ではないっ!」

 青年が大声で抗弁する。


「オレは――」


「その腕の黄色い布。乾晶の自警団の方かとお見受けしますが」

 穏やかに割って入ったのは、張宇の声だ。


「せっかく捕まえた賊を放り出して、女子ども相手に怒鳴っていては、何事かと思われるのでは?」


 張宇の口調は穏やかだが、青年を見据える眼光は、恐ろしいほど鋭い。


 話す張宇の足元では、縛蟲に捕らわれたままの男が、なんとかして逃れようと、芋虫のように身体をくねらせ、足掻いている。

 通行人達は、め事に巻き込まれてはごめんだとばかりに、ちらちらとこちらに視線を投げてはくるものの、無言で足早に通り過ぎていく。


 張宇の眼光を真っ向から受け止め、青年は重々しく頷いた。


「そうだ。オレは自警団の団長をしている陽達ようたつという。決して怪しい者ではない!」


 青年――陽達は、己の身の証を立てるかのように、右の上腕部に巻いた黄色い布を前に出す。


「疑うのなら、官邸に問い合わせてくれればいい。だから――」


 陽達の視線が明珠に戻る。


 何もかも、全てを見尽くそうとするかのような眼差しに身体が強張る。

 龍翔が後ろ手に回し、明珠の手を掴んだ指先に力を込めるが……明珠より頭半分低い少年姿では、陽達の視線をさえぎる壁にはならない。


「なあ、あんた――」

「ふれるなっ!」


 ばしっ!


 明珠へと伸ばされた手を、龍翔がはたき落とす。警戒もあらわな様子は、毛を逆立てた猫のようだ。

 だが、陽達は手を振り払われたのにも気づかぬ様子で、じっ、と明珠だけを見つめている。


「あんたの、名前は?」


「答える必要はない!」


 龍翔の厳しい声。

 だが、それが明珠へ届くより早く。陽達の眼差しに囚われたように、自然と唇が名を紡ぐ。


「明珠……。楊明珠、です……」


「明、珠……?」

 虚を突かれた顔で、陽達が呆然と、明珠の名をおうむ返しに呟く。


「本当か!? 明珠というのは本当の……っ!?」


「きゃっ!」


 間に立った龍翔を押しつぶしそうな勢いで、陽達が距離を詰めてくる。

 大柄な陽達に突き飛ばされ、寄りかかってきた痩せた身体を、明珠はあわてて支えた。


「明珠というのは本当の名ではないだろう!? オレの顔に少しでも覚えはないか!? この――」


 陽達の大きな手が明珠の胸ぐらへ伸びてくる。

 先ほど男に首を絞められた時の恐怖がよみがえり、明珠は龍翔を抱き寄せた腕に力を込め、思わず固く目を閉じた。と。


「わたしの大切な主人達に、無礼を働くのはやめてもらいましょうか」


 駆け寄った張宇が、明珠に届く直前で、陽達の手首を掴む。


「放せっ!」


 えるように叫んだ陽達が、張宇へ自由な方の拳を繰り出す。

 張宇は鋭い拳をあっさりよけると、逆に陽達の腕を取った。


 気合の声とともに、手妻のように陽達の大柄な身体が舞い、どうっ、と地面に投げ出される。

 ぐうっ、と陽達の口から呻き声が洩れた。


「お前がどんな勘違いをしているかは知らんが、この娘はお前と何の関わりもない。これ以上、妙な言いがかりをつけるようなら、こちらから官邸に申し立てるぞ」


 身体に回された明珠の手を振りほどいた龍翔が、地面に横たわる陽達を見下ろし、冷然と告げる。


「待て……っ」


「これ以上、つきあってられん。戻るぞ」

 痛みに顔をしかめて身を起こそうとする陽達を無視し、龍翔が明珠の手を引く。


「ま、待ってください!」


 このまま陽達を放っておいていいのだろうか。

 有無を言わさぬ様子で明珠の手を引いて歩き出す龍翔に声をかけるが、龍翔は振り返りさえしない。


「お願いですから! 落とし物が!」

「落とし物?」


 龍翔の歩みが止まった瞬間に、地面に屈む。

 龍翔にもらった牡丹ぼたんの花は、花弁を散らし、見るも無残に踏み潰されていた。


 素早く拾い上げた拍子に、ずっと明珠を見つめていた陽達と視線が合う。

 妄執の塊のように、なおも明珠に手を伸ばそうとする陽達に、早口で告げる。


「すみませんが、私はあなたとお会いしたことはありません! 私は生まれた時から、楊明珠という名前です!」


「明珠! そいつにかまうな!」

 龍翔が苛立ったように明珠の手を引く。


「は、はい!」


 陽達のことは気になるが、怪我をしているわけではなさそうだ。

 明珠は龍翔に手を引かれるまま、素直についていく。張宇も陽達を気にしながら後に続いた。

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