9 いざ、総督官邸へ! その1


「これはこれは龍翔殿下。お越しいただき、感謝の念にたえません。大規模な修繕を行っているせいで、騒がしいかと存じますが、どうぞ、この官邸を殿下の別荘とお思いになって、ごゆるりとお過ごしください」


 宿営地の馬車で乾晶の中心部にある総督官邸まで来た明珠達は、正門の前で待ち構えていた総督のはんと副総督のていに、恭しく出迎えられた。


 範は豪奢ごうしゃな絹の着物をまとった六十過ぎほどの年齢の男だった。

 よく太っていて、絹の着物と合わさって、いかにも豊かな街の総督といった貫禄かんろくがある。


 首が短いのか、大きな胴体の上に、丸い頭が乗っかっているという印象だ。身体や顔の大きさに比して、目が小さく、まるで龍翔の威光が眩しいかのように、せわしなくまたたきしている。


 頭の半分が白髪だが、拱手きょうしゅの礼をとった手も福々しくて、手だけを見ると、もっと若く見える。筆と箸より重い物を持ったことがなさそうな、金持ち特有の手だ。


 満面の笑顔を張りつけて恭しく龍翔を出迎える範の一歩後ろでは、貞が無言で礼をとっている。


 太陽はもうほとんど地平へ沈み、藍色がかった東の空には、白い月が昇っている。


「ようこそおいでくださいました。どうぞこちらへ」


「わぁっ……むぐ」

 官邸に入った瞬間、その絢爛けんらんさに思わず感嘆の声を上げかけた明珠は、季白にぎろりとにらみつけられて、あわてて両手で自分の口をふさいだ。


 官邸の中は、目が痛くなるほどのきらびやかさだった。


 明珠の背丈ほどもありそうな極彩色の大きな壺、動き出すんじゃないかと思うような精緻な鳥の彫刻。紫檀の台の上には、異国の神のものらしい青銅製の小さな神像。


 壁には花鳥風月を描いた掛け軸があるかと思えば、明珠が見たこともない色鮮やかで複雑な織物が飾られている。


 よくいえば豪華絢爛、悪く言えば無秩序ともとれる多様さだが、季白から乾晶についての講義を受けた明珠には、交易の街として繁栄を誇る乾晶の繁栄のあらわれのように思われた。

 どの置物ひとつとっても、明珠が一生かかって稼ぐ賃金より、高価な品に違いない。


 邸内はたくさんの燭台しょくだいに灯された蝋燭ろうそくで、まるで真昼のような明るさだ。間もなく日が沈み切る時間だと、忘れそうになる。


 明珠以外の四人は、高価な品々に感じ入った素振りすら見せず、範の案内に従って、黙々と廊下を進んで行く。


 龍翔を歓迎するためだろう。廊下の両側にはずらりと官邸の使用人達がならび、膝をついてこうべを垂れていた。

 うつむいているので視線を向けられてはいないが、不可視の圧力を感じ、ひるみそうになる。


 が、他の四人は平然としたものだ。

 まるで明珠のおびえを読んだかのように、一番後ろを歩く明珠の一つ前にいる張宇が振り返り、優しく笑って、ぽんと明珠の肩を片手で軽く叩く。


 安心させるようなその手に、心が軽くなる。

 そうだ。ただ、歩くだけだ。そばには龍翔も、張宇だっている。不安に思うことは何もない。


 明珠は総督の隣で先頭を歩く龍翔の背を見上げた。

 第二皇子らしく、裾や袖口に精緻な刺繍ししゅうがあしらわれた絹の着物をまとう龍翔は、後ろ姿だけでも見惚れそうなほど、凛としている。


 よく考えれば、龍翔の後姿をまじまじと見たことなど、なかった。

 鍛えられているのがわかる、背の高いしなやかな身体つき。洗練された所作は歩いているだけでも気品を感じさせる。


 うなじのところで一つに束ねた艶やかな黒髪が、歩くたびにかすかに揺れる。

 「龍翔」と「明順」となれば、今後、この背中を見る機会は、何度もあるのだろう。


 後ろ姿でも、龍翔の視線が真っ直ぐ前を見据えているのが、わかる。

 凛とした後ろ姿は、このまま、後についていけば間違いないと信じ込んでしまいそうな確かさだ。


 この背を追いかけていれば、無言の圧力など、どうだってよくなる。

 明珠は顔を上げて龍翔の後姿を見つめると、歩を進めた。


  ◇ ◇ ◇


 範が龍翔達を導いたのは、応接用として使っているのだろう、すこぶるきらびやかな部屋だった。

 玄関よりも、さらに眩しい。


 何とか歓声を押さえこんだ明珠は、部屋のきらびやかさに何度も目をしばたたいた。


 卓も椅子も棚も、家具はすべて、高価な紫檀したんで統一されている。落ち着いた色の家具が、その上に飾られた品々のきらびやかさを、さらに引き立てていた。


 金でできた虎の象。絶対に実用には耐えないだろう飾りをふんだんに施された開いた扇。螺鈿らでん細工の箱。明珠が見たこともない衣装をまとった女性の小さな全身像もあるが、きっとこれは遠い異国の品だろう。


夕餉ゆうげはお召しになられてからいらっしゃると伺っておりましたが、御酒ごしゅくらいでしたら、たしなまれましょう?」


 範が卓の上を示す。

 卓の上には、酒のつまみというには、明らかに多量の料理が並べられていた。

 明珠は美しい皿に盛られた高価な料理の数々に目が釘付けだが、龍翔は心を動かされた様子もなく、席に着く。


 その隣に座ったのは季白だ。張宇、安理、明珠の三人は、後ろの壁際に下がって立つ。


 龍翔と季白の対面に範と貞が座り、範が手を叩くと、美しい女性が二人、酒を満たした硝子がらすの瓶を持って現れた。女の明珠でも見惚れるような美女達だ。動くたび、絹の着物がさやさやと音を立てる。


 えんを含んだ笑顔で、美女達が酒をついで回る。


「はるばる王都より、よくいらっしゃってくださいました。龍翔殿下の御威光が、乾晶にもあまねく広まらんことを」


 杯を持った範が朗々と述べ、四人が杯を干す。すかさず美女たちが新たに酒をついで杯を満たす。


 二杯目を空けることなく杯を卓に置くと、龍翔は範を見つめて口を開いた。


「手厚い歓迎、痛み入る。範提督、早速で恐縮だが、現在。乾晶の様子はどうなっている? わたしは王都で、乾晶で大きな反乱が起こり、街の警備兵だけで反乱を治めきれなかった場合、西北地方全体に被害が拡大するやも知れぬ、との報告を受け、軍を率いてきた」


 龍翔が黒曜石の瞳で範を見据える。


「しかし、着いてみれば、街は活気があり、とても反乱が続いているようには見えぬ。いったい、どのような状況になっておる?」


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