66 わたしも暇ではないのでな?
安理を名乗る男に従い、乾晶まで大人しくついてきたのは、龍華国の第二皇子とやらに、興味があったからだ。
別に陽達に術師の腕で負けたわけでも、こちらの考えを読んだかのように、次々と退路を断つ安理に恐れをなしたわけでもない。
安理を一目見た瞬間、史傑は同類のにおいを嗅ぎとった。
安理のような隠密を使っているのなら、第二皇子とやらは、少なくとも暗愚ではないのだろう。
安理が、史傑が感じた通りの性格ならば、愚かな主人に仕え続けるなど、耐えられないはずだ。後ろ足で砂をかけて、とっとと見捨てるに違いない。
龍華国の第二皇子についての噂は、以前から聞いている。
王城に味方と呼べる者のいない第二皇子ならば、もしかしたら史傑が喰いこむ余地があるやもしれない。
史傑にすれば、豊かな龍華国の甘い汁が吸えれば、それでよい。加えて、龍華国で政争が起これば、それだけ砂波国が乾晶を手に入れる機会が多くなるというものだ。
何にしろ、龍華国の皇子に目通りがかなう機会をふいにしては、もったいない。
だが。
(これは失敗したかもな……)
「お前が、史傑か」
黒曜石の瞳で史傑を見据え、冷ややかに問う龍翔を目にした途端、史傑の甘い考えは吹き飛んだ。
夜道を駆け、乾晶へ連れてこられた翌朝の、官邸の端に位置する一室。
皇子が使うには、明らかに質素で小さな部屋で。
椅子に
男の史傑でも
ただ見つめられているだけなのに、史傑は自分の背中がじっとりと冷や汗で濡れていくのを感じた。
「このたびは、砂郭を手に入れるために、ずいぶんと引っかき回してくれたな?」
こんな時でなかったら、聞き惚れてしまいそうな美声が、史傑の鼓膜を打つ。
こちらの真意を探るような声音に、史傑は強張った顔を苦労して動かし、何とか唇に笑みの形を刻んだ。
「何のことをおっしゃられているので? わたしは砂波国の一商人にすぎませぬ。おっしゃられている意味が――」
「
刃のような声が、史傑の声を叩き斬る。
「お前の素性は、すでに調べがついている。砂波国の
陽達か、と史傑は心中で
陽達とはあまり親しくないとはいえ、つきあいだけは長い。妙に義理堅いあの性格を考えるに、いくら先ほどは利害が対立したとはいえ、あっさり史傑を売るとは思えなかったのだが……。
部屋の温度さえ下げそうな冷ややかな威圧感を発する第二皇子の前に、屈したか。
「砂波国に、策謀を得意とする者がいたとはな。おかげで、見事にしてやられたぞ」
「とんでもないことでございます」
龍翔の言葉に、史傑は開き直ってかぶりを振った。
「見事なのは第二皇子殿下でございましょう。兵もなく、我が国の騎馬軍団を引き返させるとは、いったいどのような手を使われたのか、想像もつきませぬ。どうぞ、
こうなったら、こちらの情報は隠しつつ、あちらの情報を引き出すだけだ。
史傑の世辞に、龍翔は特に感慨を抱いた様子もなかった。ただ、形良い眉がわずかに動く。
「なぜ、わたしが兵を用いなかったと言い切れる? お前はその場にいなかったであろう?」
「ご冗談はおやめください。派遣軍が宿営地を出てぞろぞろと進軍すれば、子どもでも気づきます。第二皇子殿下が、派遣軍を用いられなかったことは明らかでございます」
「なるほど。だが、派遣軍でなければ、残るは一つだけだろう?」
龍翔が薄く笑う。
「護り手である《堅盾族》だ。砂波国の騎馬軍団が立てる砂煙は、遠くからでもよく見える」
「……もしや、《堅盾族》が乾晶から引き揚げていたのは、我が国に備えるためだったのでございますか?」
どうしても聞かずにはおれず、史傑は問いを紡ぐ。
いったい、どこから計画が洩れてしまったのか。
砂波国は、常に龍華国の豊かな富を求めている。だが、砂波国とて、常に飢えているわけではない。
約一カ月半前の地震。あれは、砂波国にもかなりの被害をもたらした。その損害を穴埋めするべく、砂郭ひいては乾晶を手に入れることを企んだのだが……。
「策謀を得意とするのは、お前だけではないのだぞ?」
龍翔が、うっかりすると見惚れてしまいそう笑みを浮かべる。
「おぬしの策略に踊らされたことは認めよう。だが、いつまでもしてやられている龍華国ではない」
龍翔の言葉に、史傑は思わず奥歯を噛みしめる。
己の能力を過信して、油断していたわけではない。
だが、この第二皇子の動きを読み切ることができず、結果、失敗してしまったのは確かだ。
しかも、まさか陽達にまで売られる羽目になるとは。
砂郭の宿で、陽達とともにいた少年を思い出す。
あの少年が去ってすぐ安理が乗りこんできたことから推測するに、あの少年も第二皇子の隠密だったのだろうか。
……どう見ても、素人以外の何者にも見えなかったのだが。
そんな者にしてやられたのかと思うと、はらわたが煮えくり返る。
が、今は、それどころではない。
龍翔が史傑の智謀に興味を持っているのなら、売り込むべきは、今だ。
「第二皇子殿下にお願いしたき儀がございます。なにとぞ、殿下のもとでわたくしめをお使いいただけませぬか?」
両膝をついたまま胸元に右手を当て、史傑はうやうやしく龍翔を見上げる。
「武骨者ばかりの砂波国では、わたくしの策略も使いどころがございませぬ。今回のことで確信いたしました。わたくしが仕えるべき主は、第二皇子殿下で間違いございません。貴方様に仕えられたならば、わたくしの智謀も思う存分に振るえることでしょう」
史傑はこんなところで処刑される気など、さらさらない。
生き延びさえすれば、栄達の道を掴む機会はいくらでもある。生まれ故郷とはいえ、砂波国に特別な恩義があるわけではない。
むしろ、豊かな龍華国に入り込めるのなら、そちらの方が遥かによい。
「殿下、なにとぞ、わたくしめにお慈悲を……」
史傑は心からの忠誠を示すように、
「……わたしも、暇な身ではないのだ」
龍翔がかすかな吐息とともに、うんざりした声音を洩らした。
「第二皇子であるわたしに思うところがある者は多いようでな。わたしに策略を仕掛ける者が後を絶たん」
「では、どうぞわたくしをお使いくださいませ。殿下に降りかかる火の粉を、わたしくめが払ってみせましょう」
望みが叶えられる気配を察し、史傑は熱心に言い募る。
「失礼ながら、殿下は人手不足でいらっしゃるご様子。わたくしをお使いください。陽達を
斬られた、と。
真っ二つに斬り裂かれた、と史傑は一瞬、本気で信じた。
それほど、苛烈な怒気だった。
まだ心臓が動いているのを感じた瞬間、全身から震えと冷や汗が吹き出す。
全身が凍りつき、ぱたた、と
怒気を
何故だ、と史傑は恐怖にろくに動かぬ頭を巡らせる。
自分は今、何をして、不用意に《龍》の逆鱗にふれてしまったのだろう。
「わたしは暇ではないのだ。いつ裏切るやも知れぬ者を、配下に加えて見張る余裕などないほどにな」
まだろくに動かぬ史傑の頭に、龍翔の声がこだまする。
「そのことを、感謝しておけ」
静かな、けれども先ほどまでとは明らかに響きの違う声が、鞭のように史傑を打つ。
「もし、わたしに時間があれば――」
声に引きこまれるように顔を上げた史傑の視界に飛び込んだのは、今にも襲いかからんとする、《龍》のあぎと。
白銀のきらめきを纏い、《龍》の化身が告げる。
「お前の処刑を、わたし自ら
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