58 ただただ、あなたに逢いたくて その2
明珠が真っ直ぐに見つめて言い切ると、陽達が息を飲んだ。
ややあって。
「……わかった。そこまで言うのなら、史傑から逃してやる」
「おいおい。せっかく捕まえた手がかりを、みすみす逃すっていうのかい?」
史傑が呆れた声を出す。
「逃すんじゃない。後で合流するだけだ。……約束したからな」
「はい……っ! はいっ!」
あっさり史傑の言葉を否定した陽達に、大きく頷く。
陽達を本物の晶夏に会わせるという約束を、
「おやまあ。俺の知らないところで、ずいぶんと
史傑の細い目の奥に、冷ややかな光が浮かぶ。
「だが、俺が簡単にお前達を逃すとでも?」
「逃してみせるさ。術師の腕で、お前に劣るだなんて、一度も思ったことはない」
陽達が身構える。それに呼応するように、《晶盾蟲》がひらりと陽達の肩に止まった。
陽達と史傑が緊張を
「「《
二人が同時に《縛蟲》を召喚する。
喚び出された《縛蟲》が、部屋の中央で互いに絡み合う。同時に、《晶盾蟲》が史傑めがけて肩から飛び立っていた。
史傑が盾蟲を呼び出し、晶盾蟲を防ごうとする。
が、明珠に二人の応戦を眺めている暇などない。
扉は史傑の向こうだ。窓から出るしかないと、窓辺に走り寄る。
「《
守り袋を握りしめ、《板蟲》を喚び出す。
窓から板蟲に飛び移ろうとした瞬間、あらかじめ召喚して潜ませていたのだろう。壁際に張りついていた縛蟲が、しゅるりと板蟲に絡みつく。
「ひゃっ!?」
板蟲ががくりと
落ちそうになったのを、板蟲にしがみついて何とかこらえる。二階の高さから落ちれば、ただでは済まない。
「《お願い、
板蟲だけでなく、明珠にも絡みつこうとする縛蟲にふれ、念じながら叫ぶ。
召喚を解かれた縛蟲が、幻のように消え去った。板蟲が高度を取り戻す。
板蟲の上に立ち上がり、明珠は素早く辺りを見回す。
《刀翅蟲》の行き先に、龍翔がいるはずだ。
宿営地を襲った数に劣らぬほどの何十匹もの《刀翅蟲》。
常人には見えぬものの、不穏な気配を感じるのだろう。道行く人々が、悲鳴を上げながら逃げていく。
《刀翅蟲》に斬り裂かれた木の葉や、鋭い羽がぶつかって削れた瓦が、ばらばらと地面へ落ちる。
「龍翔様……っ!」
祈るように、敬愛する主人の名を紡ぐ。
龍翔は無事でいるだろうか。
張宇達がいるなら大丈夫だろうと信じる一方で、一刻も早く無事な姿を見て安心したいと、心が希求する。
《風乗蟲》を喚べぬ自分の力不足が情けない。今すぐ、龍翔の元へ飛んでいきたいのに。
ゆっくりとしか飛べぬ板蟲がもどかしい。と。
固い風切り音が響いたかと思うと、背後から飛んできた刀翅蟲が、板蟲を斬り裂く。
「きゃあっ!」
たたらを踏んでよろめいた明珠の袖をも斬り裂いて、刀翅蟲が飛び去っていく。
「《ご、ごめんね! 還って!》」
謝る暇もあらばこそ、明珠は実体を失いつつある板蟲から、一番近い屋根へ飛び移る。
屋根瓦から滑り落ちそうになり、明珠はあわてて瓦を掴んでこらえた。
もう一度、板蟲を喚ぼうかとも考えたが、たぶん、自分の足で進んだ方が早い。男物を着ていて助かったと本気で思う。
守り袋を握りしめ、明珠は盾蟲を二匹召喚した。
刀翅蟲の飛んでいった先に、龍翔がいる。
そう思えば、ふれただけでただではすまぬ刀翅蟲を追うことさえ、怖くはない。
町のあちらこちらから、蜜に群がる蜂のように、刀翅蟲が飛んでくる。
宿だの商店だの民家だのがひしめくように立つ砂郭の街並みは、屋根の高さも素材もまちまちだ。
明珠は時に四つん這いのようになりながら、刀翅蟲の集まるほうへと、屋根の上を駆ける。
勢いをつけて、屋根と屋根の間を跳ぶ。
足元で瓦が鳴り、足を滑らせそうになる。
けれども、決して足を止めない。
今すぐ、鳥になって龍翔の元へ飛んでゆけたらいいのに。
泣きたくなるほどの焦燥が、明珠を突き動かす。
刀翅蟲は嫌というほど見えるのに、龍翔達の姿はどこにも見えない。
高級宿なのだろう。大きく傾斜した高い屋根を、必死でよじ登る。
一番高い
「居た……っ!」
明珠の少し先、屋根の上に陣取り、刀翅蟲を相手取る張宇達の姿を捉え、視界が涙でにじみそうになる。
だが。
「龍翔、さま……?」
求める主の姿だけが、どこにもない。
「っ!」
震え出しそうになる唇を噛みしめ、屋根を駆けおりようとする。
その耳が、固い羽音を捉えたのは、神経が研ぎ澄まされていたおかげだろう。
反射的に身をよじった明珠の右横を、刀翅蟲が通り過ぎる。
羽根にふれた着物の肩口が切れ。
「つぅっ」
右肩に走った鋭い痛みに、
ずるり、と靴の裏が、踏んだはずの瓦の上を滑る。
こらえようとしたが、駄目だった。
固い瓦にぶつかった衝撃に、息が詰まる。
ごろごろと転がり落ちる明珠の身体の下で瓦がけたたましく鳴る。
めまぐるしく回る視界の片隅が、《感気蟲》の姿を捉えた気がした。同時に。
「明珠っ!」
耳に届いたのは、何よりも聞きたかった声。
少年特有の高い――ただひたすらに、明珠を求める響き。
明珠は必死に声の主を求めて、視線を巡らせる。
「明珠っ!」
姿は、見えない。
けれど、その声を明珠が聞き間違えるはずがない。
「龍翔様っ!」
屋根から空中へ、明珠の身体が投げ出される。
重力に囚われながら、明珠は傷ついた右腕を空へ伸ばした。
不可視の主へ、手を伸ばす。
小さな手が、明珠の右手を握りしめた気がした瞬間。
「わっ、ぷっ!」
明珠は、路地に張られていた露店の天幕へ、突っ込んだ。
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