第三話 『Bad meets Angeler』


 はじめ、樋田は天から一足早いお迎えが来てしまったのかと思った。

 雑居ビルに囲まれたこの裏路地を真上から照らすかのように、白とも青とも銀とも金ともつかない光――――もとい輝きが天より地上へと降臨する。


「なんだっ、ありゃ……?」


 そのあまりにも浮世離れした神々しさを前に、樋田は恐怖することも忘れて、弱々しくその場にへたり込んでしまう。


 凄まじい光の中になんとか目を凝らしてみると、そこに段々と小さな人の形が浮かび上がっていった。

 腰の辺りまである長い髪に、女性らしい華奢な体躯のシルエット。そしてそんな彼女の左肩には、人の背丈程もある巨大な翼が生えているように見える。


 樋田はそこまで確かめて、後光とも言うべき逆光の眩しさに思わず目を閉じる。流石に少女の姿の細部までは分からなかったが、少なくとも彼女が世間一般で認知されている生物でないことは一目で分かった。


 頭部無しで生きている人間がありえないのと同様に、四肢とは別に翼を持つ生命体なんて、生まれたこのかた見たことも聞いたこともない。


 一人の少年に十を超える首無し男。今やその全ての視線は、光の少女へと釘付けになっている。

 まるでそんな周囲の注目に応えるかの如く、天より降臨し光の少女はまさに今、ふわりと音も無く地上へと舞い降りていく。


 ――――……っ、なんつー威圧感だよッ。


 瞬間。

 本能が危機を叫んだとばかりに、樋田の全身を気味の悪い悪寒が駆け巡る。ただでさえ緊迫していたこの裏路地へ、更に桁外れの重圧が重くのしかかっていく。


 表情を読み取ることは物理的に不可能だが、『顔の無い男フェイスレス』達の方も明らかに少女を警戒しているようであった。あれだけ軽快に路地裏を走り回っていた彼等の動きが、途端に恐る恐ると言わんばかりに鈍くなったのが、その何よりの証拠である。


 光の少女と首無しの男達は、そのまま静かに互いを睨み合う。されどそんな穏やかな膠着状態もそう長く続きはしない。

 樋田の額に緊張の脂汗が滴るなか、先に動いたのは光の少女の方であった。


 少女が地を蹴り、荒々しく首無しの一人に飛びかかった――――そう樋田が気付いた時には、既に全てが終わっていた。

 まるで寄ってきた蝿を振り払うような動きで、少女の隻翼が躊躇なく一閃される。その鋭利な一撃は怪物の身体を真一文字に斬り飛ばし、近くにいた樋田の頬にべちゃりと返り血が飛び散った。


「はっ?」


 踏み込んでから切り捨てるまで、その間僅か一.五秒。

 そんな瞬殺とも言うべき鮮やかな一撃を前に、樋田はおろか『顔の無い男』達も思わず時間が止まったようにその場へ凍りつく。

 されど当の首無し達の方もこのまま黙ってやられるようなタマではない。

 


『―――――――、愚愚愚愚愚愚愚愚ッ、偽偽偽偽偽偽偽餓餓ッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』



 今まで黙りこくっていた『顔の無い男』達が、突如とても人のモノとは思えない奇声を上げる。

 その不気味な声は悲しんでるように、或いは怒っているように聞こえる一方、何故だか喜んでいるようにも、楽しんでいるようにも聞こえる。例えるならば、人間のありとあらゆる感情を無理矢理に凝縮したような――――そんな歪な嘆きであった。


 首無し達が何を思い、何を訴えているのかは全くもって分からない。それでも彼等はまるで我を忘れたかの様にただ只管に叫び狂う。

 光の少女の方もまた勇ましげに隻翼を構えるが、今度は首無し男達の方が一足早い。十を越す化け物はその赤黒い右腕を正面に構えると、そのまま全速力で裏路地の中を飛ぶように駆けだした。


 正面から吶喊する者。

 または左右から回り込む者。

 あるいはビル壁を伝って上方から飛びかかる者。


 確かにそのうちの何体かは、瞬く間に少女の隻翼の餌食となる。

 されど、それでもなんとか死線を潜り抜けた残りの九体が、一気呵成に少女のもとへと襲いかかった。


 ――――クソッ、やっぱり何が起きてんのか全く分かりゃしねぇ。


 先程樋田に起きた現象と同様、その赤黒い右腕は少女の体に直接触れたわけではない。首無し達はただ彼女の周囲二メートル付近で、その右手をグルリと振るっただけだ。


 されど、彼等の斬撃には態々『斬る』などという面倒な過程は存在しない。


 『顔のない男』達の右腕が一斉に紅く光り輝いた次の瞬間、どこからともなく放たれた不可視の斬撃が少女の体を見るも無残に斬り裂いていく。

 瞬時にその華奢な体へと刻まれた切り傷の数は、それこそ両手で数え切ることは出来ない程であった。


「なっ……!?」


 いくら個として優れていようとも、所詮は多勢に無勢。彼女四肢の全ては根元から呆気なく斬り飛ばされ、開かれた腹から冗談のようにぼとりとはらわたが零れ落ちる。

 そのあまりにも呆気ない少女の敗北に、樋田の口からはいつの間にか乾いた笑いが漏れていた。


「ハハッ、ダメだなこりゃ……」


 正直に言うと、少し期待していた。

 もしかしたらこの光の少女ならば、首無し男達の凶刃から自分の命を助け出してくれるんじゃないかと――――根拠も無くそんな甘い期待を抱いてしまっていたのだ。


 態々言われずともわかる。光の少女は死んだ。

 最早この場において、樋田の代わりに『顔の無い男』達の注意を引きつけてくれる存在はどこにもいない。

 少女の次に殺されるのは、間違いなく自分だろう。いくら死にたくないと嘆いたところで、その残酷な事実が変わることはない。


 先程の少女の様に、自分の内臓が愉快に宙を舞うイメージが、やけにハッキリと脳裏を過ぎる――――が、そんなネガティブ一直線の未来予想に意味はない。

 何故ならば、少年の運命はまだ終わってなどいなかったからだ。





 それはまるで先に全てを諦めてしまった少年の弱さを、情けないと嘲笑っているかのような声であった。聞こえるはずのないの不敵な笑い声が、突如燦然と裏路地の中に響き渡る。


 瞬間、樋田は思わず己の耳を疑った。

 その声は間違いなく少女の亡骸の方角から聞こえてきたからだ。ありえないと思いつつ視線を走らせてみるが、既にその場所に彼女の姿は無い。

 次の瞬間、万物万象を圧倒する尊大な高笑いが、天より地上へと降り注いだ。


「くはっ、クハハハハハハハハハッ!! 惨め、惨め、惨め、あまりに惨めがすぎるぞ蛆虫諸君。まさかこのアロイゼ=シークレンズが殺されたで死ぬとでも思ったのか? 我ら天使にキサマら凡俗の貧弱な常識が通用するはずがないであろうッ!?」


 そんな甲高い声につられて、樋田も咄嗟に空を見上げる。

 そこではいつの間にか急上昇していた光の少女が、鼠花火を連想させる出鱈目な軌道で雑居ビルの間を自在に飛び回っていた。その飛行速度は凄まじく、樋田の動体視力では彼女の軌跡を目で追うのがやっとである。


『偽悲ッ、愚愚疑疑疑牙阿阿阿阿阿――――――ッ!!!!!!!!!!!!!』


 突如復活した光の少女へ向けて、地上から『顔の無い男』達が狂ったように吠えかかる。彼等は再びその赤黒い右腕を正面に構えるが、最早全てが手遅れであった。


「喚くな、粛粛と死ね」


 そんな冷たい一言と共に、光の少女はまるで不可視の刃の間をかいくぐるようにこちらへ向けて吶喊する。そのあまりにも凄まじい速度の前に、首無し達は咄嗟に反応することが出来なかった。

 此度の一撃もまた、正に神速一瞬の芸当。

 突撃の勢いのまま放たれた隻翼は、不運な首無しの全身を力任せに突き穿ち、瞬く間にその命を刈り取っていく。


「へははっ、いい加減頭おかしくなりそうだぜ……」


 そのあまりにも衝撃的な光景を前に、樋田は開いた口を塞ぐことが出来なかった。確かに串刺しにされた首無しもそれなりに衝撃的だが、さらに驚くべきは光の少女の方である。


 何が、とは態々言うまでもない。

 全身にあれだけの斬撃を叩き込まれたにも関わらず、何故か彼女の身体には一切の傷が無いのだ。いや、どちらかといえば全ての傷が消えてしまったと言った方が正しいだろう。

 一瞬だけ見えたその優雅な姿には、傷どころか汚れの一つすらもついてはいない。


「くははっ、鎧袖一触。キサマら、その調子では暇潰しにもならんぞ」


 隻翼にへばりついた首無しの亡骸を愉快に引き剝がしながら、少女は口の端を歪めて不敵に微笑む。『顔の無い男』達はそれでも負けじと応戦するが、かの神聖な天使の前では、その全てが無駄な抵抗に過ぎない。


 彼等の不可視の刃が何度少女の体から形を奪っても、瞬きをした次の瞬間には全ての傷が完全に再生する。そしてその直後に始まったのは、最早闘いでも何でもない、ただの一方的な虐殺でしかなかった。


 少女の鋭い隻翼が次々に『顔の無い男』の腹を切り裂き、胸を貫き、上から力任せにその体を叩き潰していく。その様から手加減なんてモノは微塵も感じられず、いっそ非道と言ってもいい程に容赦が無い。

 血が迸り、肉が爆ぜ、脂肪が飛び散り、骨格が砕け、内臓が吹き飛ぶ殺戮の嵐。それは十を超える首無しの化け物が、一人残らず物言わぬ肉塊へと変わり果てるまで続いた。


「うっ……へはっ、えげつねぇ」


 胸焼く鈍重な吐き気を堪えつつ、樋田はようやくそんな一言を絞り出す。

 少女が最後の『顔の無い男』を背後のビル壁ごと串刺しにし、狂乱渦巻く戦闘はようやくその終焉を迎えた。あれだけ樋田を絶望の淵へと追いやった首無しの怪物の群れ、その全てが平等に肉塊と化したのである。


 ――――……は、人の話を聞くようなタマなのか?


 そして、今この場で生きて立っているのは、樋田と目の前の殺戮機械マシンの二人だけだ。


 きっと少女がその気になれば、樋田なんて二秒で挽肉にすることが出来るだろう。しかし、彼女は首無しを殲滅してからも、こうしてこちらに手を出して来る様子はない。


 殺されるか、或いは見逃されるか。生か、または死か。

 非力な少年にはこうして目を瞑り、惨めに神へと祈りを捧げることしか出来ない。ごくりと生唾が喉を鳴らす音と、忙しない胸の鼓動だけが、やけに頭の中で大きく鳴り響いていく。


 されど、そんな樋田可成一世一代の賭けは、あまりにも呆気なくその決着を迎えることとなった。





 いっそ可愛らしいとも言える程に気の抜けた声が、少女の口より漏れる。最後はまるで唐突に電源を切られたかのような印象であった。

 樋田と正面から向かい合っていた光の少女。彼女はふいによろりとふらつくと、そのまま力無くその場へと崩れ落ちてしまったのである。


「……へっ?」


 自分の間抜けな声以外は何も聞こえず、しんと冷たさすら感じる完璧な静寂が、今度こそ裏路地の中を包み込む。

 『顔の無い男』達は死に絶え、『光の少女』は都合の良いことに気を失った。念の為もう一度辺りを念入りに回してみるが、最早どこにも樋田の命を脅かそうとする危険な存在は見当たらない。

 自らの安全を確信したその瞬間、全身からどっと力が抜けた。経緯はどうあれ、取り敢えず命拾いをしたことに少年は一先ず深く重く長い安堵の息をつく。


「あぁ、助かった……のか。なんか今日死にかけ過ぎてイマイチ実感がわかねぇな……って」


 樋田は呆然とそんなことを呟くと、折角助かったというのに心底嫌そうに眉をひそめてしまう。

 正直に言えばこんな危なっかしい空間からは、今すぐにでもさっさとおさらばしてしまいたい。されどそんな彼にはまだ一つ、この場でやるべきことが残っているのだ。


「俺を、助けてくれたのか……?」


 ぼそりと呟くように言いながら、アスファルトの上に沈む少女の背中をチラリと見やる。

 理屈は分からないが、頭上の青白い輝きも左肩の巨大な翼も、いつの間にか少女の体から消えている。

 こうして見てみると、その姿は本当にどこにでもいる普通の女の子のようであった。


「流石にこのままスルーすんのはクズすぎるよな……」


 もしかしたらただの偶然かもしれないが、この光の少女が樋田の危機に颯爽と現れ、見事首無しの凶刃からその命を救ってくれた事に変わりはない。 

 そんな命の恩人(仮)がこうして気を失っているからには、基本自分第一主義な樋田でも多少は気にかかる。

 別に態々少女を介抱しようというわけではない。

 ただ彼女の命に別状が無いか確かめるだけ。それで大丈夫そうならそのまま速攻で逃げてしまう程度のしょうもない恩返しだ。

 側から見れば随分な薄情に見えるかもしれないが、自分が死にかけまくったこんな場所には、最早一秒たりとも長居はしたくないのである。


 抜き足差し足忍び足、随分とひけた腰で樋田は恐る恐る少女に近付いていく。しかし事態は彼が想像しているほど楽観的なものではなかった。

 

「……オ、オイッしっかりしろお前ッ!!」


 そんな荒い声と共に、樋田は慌てて足早に少女のもとへと駆け寄る。

 叫びながら体を揺すり、優しくその頬に触れてみても全くもって反応が無い。肌は生気の欠片もない土気色で、口元の白濁した紫に思わず背筋がゾッとなる。

 少女の体のどこにも傷は無いというのに、その体は何故か冷たく、顔色も酷く弱々しいものになっていた。

 

「俺がっ、何とかしねぇと……」


 その時、その瞬間、少年樋田可成は思わずそんな偽善を口にしていた。

 自分でも何でそんな思考回路に至ったのかは分からない。それは形はどうあれ命を助けてもらった事に対する罪悪感か、それとも頭が混乱するあまり正常な判断が下せなかったのか、いやそのどちらとも違う。


 ありふれた言葉だが、頭で考えるよりも先に体が動いてしまったのだ。


 樋田は彼女の小さな体を優しく抱きかかえると、まるで赤子でも扱うようにゆっくりと背中に回す。

 随分と小柄な少女だが、こうして抱えてみると意外にしっかりとした重みを感じる。それはまだ彼女が確かに生きていることの証の様であった。


「クソッ、頼むから人の背中でおっ死ぬんじゃねぇぞッ……!!」


 そのまま何かに急かされるかのように、樋田は表通りへ向けて全速力で走り出す。疲労と緊張のせいで随分と体が重いが、それでも彼は一切その速度を緩めようとはしない。

 駆けて、駆けて、ひたすらに駆け続けて、一体どれだけの時間が過ぎただろう。長く続く裏路地の向こうにぼんやりとした光が見え、少年は大地を蹴る力を更に強める。


「誰かッ、誰か救急車を呼んでくれえええええええええッ!!」


 裏路地から勢いよく飛び出たのとほぼ同時、樋田は開口一番に助けを呼んだ。人に注目されるのは元来苦手な性質タチだが、今はそんな悠長なことを言っている場合ではない。

 誰でもいいからこの小さな女の子を助けてくれ、と樋田はただひたすらに叫び続ける。街を行く数百の群衆に向かって、心の底から喉が引き裂かんばかりに叫び続ける――――しかし、そんな少年の必死の呼び掛けに答えてくれる者は、誰一人としなかった。


 無視をしてそのまま目の前を通り過ぎていくのはまだマシな方。何故だか表通りを行き交う通行人の多くが、まるでこちらを迷惑そうな目で睨みつけてくるのである。


「てっ、テメェらァアッ……!!」


 現代人は他人への興味が薄いだとか、都会は冷たいだとかはよく聞くが、これは最早そんなレベルではない。

 こんな小さな女の子が苦しんでいるというのに、何故誰も手を差し伸べようとしないのか。樋田もついさっき似た様なことをしたばかりだが、それでも腹が立つものは腹が立つ。群衆のあまりにも薄情な対応に、樋田の短気な頭はみるみるうちに熱くなっていく。

 そして次の瞬間、ふいに彼の中で何かが音を立ててブチ切れた。


「テメェらそれでも人間かよッ!! どいつもこいつも揃いも揃ってテメェには関係ねぇみてぇなツラしやがってッ!! いいから黙って医者でもなんでも連れて来いってんだよッ!!」


 樋田は声が枯れんばかりに怒鳴り散らすと、その怒りの赴くまま一番近くにいた若い男に食ってかかる。

 突然の事に男が怯んだ次の瞬間、樋田は問答無用とばかりに彼の靴を力任せに踏みつけると、そのまま鼻頭に強烈な頭突きを叩き込んだ。


「ぐああああああああああああああああああッ!!」


「ギャーギャー喧しいんだよ下衆野郎。テメェも馬鹿みてぇに歩きスマホなんてしてる暇あんなら、さっさと医者呼べやクソッタレ」


 最早自分のことを棚に上げての八つ当たりでしかないが、沸騰しきった樋田の頭ではそこまで考えが回らない。

 とにかくさっさとこの少女を、誰でもいいから大人達に託してしまいたかった。その心は彼女を助けたいという気持ちよりも、早く責任感から解放されたいという気持ちの方が強いと言えるだろう。

 何はともあれ救急車さえ呼んでしまえば、それで自分の義務は果たされるのだ。顔を抑えながらその場へ力無く崩れ落ちる男を尻目に、樋田は彼が落とした携帯電話に手を伸ばし――――すんでのところでその手を止める。


「……アァ?」

 

 背中に刺さる視線が何だか気持ち悪い。

 気になって群衆の方を振り返ってみると、彼等の中には明らかなどよめきが広がっていた。加えて数多の批難と敵意の瞳が、四方八方からこちらを睨みつけているのである。


「は、はぁ? なんだよ、俺は何も間違ったことなんて――――」


 しかしそんな樋田の困惑の声を掻き消すかのように聞こえてくるのは、キチガイだの頭がおかしいだのと言った彼を罵倒する言葉だけである。

 何故こんな衰弱した女の子に手も差し伸べないゴミ共に自分が責められなくてはならないのか。そう樋田がいくら心中で理不尽を嘆いても、群衆の瞳は白いまま変わらない。


「ハッ、なんなんだよ。訳わかんねぇ……」


「……なんなんだよはっ、こっちのセリフだ!」


 樋田の足元で転がっていた先程の男が、流れ出る鼻血を拭いながら、心底忌々しそうな目でこちらを睨みつけてくる――――そこで樋田はようやく違和感の正体に気が付いた。


 それは彼等からの視線である。

 見れば見るほどに周囲の群衆からの視線は、不自然なまでに樋田に注がれていない。

 高校生が背中に子供を背負っていれば嫌でも目立つというのに、群衆の中で少女の方を見つめている者は誰一人としていないのだ。


「まさかっ、そんなワケねぇよな……」


 一瞬脳裏を過ぎった一つのトンデモない仮説に、樋田は思わずその場に倒れこみたくなる程の目眩を感じる。常識で考えればはあり得ないに決まっている。普段の樋田であれば、つまらない冗談だと鼻で笑うことすらなく否定しただろう。

 しかし、確かにそう考えてみれば、この異様な状況に説明がつくこともまた事実なのである。


「ってことは――――――――――」


 と、樋田の脳内の中で仮説が確信に変わりかけるなか、目の前の哀れな被害者が大声でそれを更に後押しした。


「理不尽はやめてくれよ! 小さな女の子だって……? 何言ってたんだアンタ、そんなモンどこにもいないじゃないかぁっ!?」


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