第八十六話 『インドラvsインドラ』
天界の黎明期から存在する原初の天使。
数千年の永きを生き、同じ天使の中でも極めて強大な力を有する彼等は、人類が幻想した諸神格のいわば元ネタとなったものも数多い。
黄道王直属第二位、卿天使ヴィレキア=サルテ=ヤーデスクライ=ルルースクもその一人であった。
天界の活動が今よりも活発であった太古の時代、下界において超常の力を振るったその天使の存在を、地上人類は彼等それぞれの信仰・価値観に当てはめることで理解しようとしたのだ。
実際にインドの人々は彼から雷霆神インドラを幻想し、一方ゾロアスター教の人々は彼のことを絶対悪アンラ=マンユに直属する魔王であると解釈したと、この現代にまで伝わっている。
されど、そのこと自体は別に問題ではない。
一つの神格から複数の神格が派生することは珍しくないし、逆に複数の神格が統合されて、まるで元から一人の神であったかのように扱われる事例も多々ある。
そうそれが人の宗教、信心深い人々の頭の中だけで成立する話ならば問題はない。
しかし、この世界から既に「ありえない可能性」というものは消失してしまった。例えそれが人の想像から生まれた根拠のない概念であっても、『
「その結果がこれというわけか……」
上空より全長二十メートルの巨獣を見下ろしながら、ヴィレキア=サルテは苦しげな溜息をつく。
恐らくは今回の黒幕である何者かが、魔王としてのインドラ概念を天使として昇華させ、このような怪物を生み出したのだろう。
己という天使が人の目に止まらなければ、そもそも存在すらしていなかったであろう悪魔の王。例え自らの非ではないと分かっていても、このダエーワの犠牲となったであろう人々に罪悪感を覚えずにはいられない。
言葉にすれば軽いが、とかく心苦しかった。
自分は人を生かすためにこの剣を振るったにも関わらず、その結果生まれた怪物によって多くの人間が不幸となった。
その残酷で理不尽な事実が、生真面目な男の胸をキツく引き締めるのである。
「……
背後でダエーワと人類王勢力の怒号が飛び交うなか、卿天使は両手剣を構え、ゆっくりと悪魔の王に近付いていく。
そうして彼はおもむろに空中で停止すると、その澄んだ瞳で目前のダエーワを睨み付けた。
「しかし、今は私情を挟んで良いときではない。怒りを抱かず、思い入れも持たず、其の方の生命活動を一秒でも早く機械的に停止させる。それこそが現状における最善であると私は判断した」
背後の人類王勢力が、今何のために戦っているかぐらいすぐに分かる。
皆期待しているのだ。
ヴィレキア=サルテ=ヤーデスクライ=ルルースクが見事インドラを討ち滅ぼし、この絶望極まる状況を打開してくれることを、今この場にいる全ての人間が熱望している。
だから、卿天使は余計な感傷を全て捨て去った。
自らがインドラを早く倒せば、それだけ多くの戦士が死を免れることができる。
そのことを理解し、覚悟を決め、それでいて決して重圧に萎縮だけはしない。青髪の武人は再び両手剣を構えると、臨戦態勢と言わんばかりに前傾姿勢をとる。
「ゆえに、初めから全力で行かせてもらう」
そこで、ヴィレキア卿の体に変化が生じた。
シューという音を立てながら、その皮膚より蒸気じみた白い煙が立ち昇る。続いて四枚の翼が生えている背中の更にその上、肩の辺りの肉がボコボコと蠢き出したのだ。
「『
そして、その肩より三対目の両翼が勢い良く飛び出した。
六翼。それはありとあらゆる天使の中でも最も旧く、最も優れた者だけに許された最強の証である。
翼の出現に伴い、青だった天使の髪は黒く、そして白かった肌は熱した鉄の如き赤を帯びていく。纏う白の衣も赤と黒を基準に変色し、細身の体には鋼の如き筋肉の鎧が備え付けられていく。
それまでの優男じみた雰囲気とは正に対極、猛々しい武人の如く変化した天使の姿は、やはりインド神話に伝わる軍神のそれと酷似していた。
「これが
雷霆神と魔王が正面から互いを睨み合う。
戦力的に圧倒的な優位を誇る巨竜も、今だけは自らの別側面たるその男に全ての意識を注ぎ込まざるをえなかった。
「『天骸』抽出完了、汎用術式『
膠着状態を先に破ったのはヴィレキア卿であった。彼が地を蹴り、その六翼を以って空に飛び上がる。
ただそれだけで足元のコンクリートが弾け、轟ッ!! という衝撃波が周囲を隈なく吹き抜けた。
例え実力は互角であろうとも、体のサイズの都合上、機動力は卿天使の方に軍配が上がる。
ヴィレキアは音速を遥かに超える超速度でインドラに肉薄。難なく巨獣の背後に回り込み、腰元の両手剣を引き抜く。そして、自前の『天骸』を雷撃へと変換し、その全てを己が得物の芯へと注ぎ込んだ。
「鎧袖一触。我が雷威は卿の肢体を蹂躙する」
途端に、膨大な熱量が一気に凝縮され、剣自体が白く眩い輝きを放ち始める。
一振りでビルを消し飛ばす程の神話的一撃が正に今、卿天使の頭上に力強く振り上げられ――――そして、振り下ろされた。
「ギギャガカアアアアアアアアアアアアアッ!!」
しかし、虚偽の魔王はその超速度に反応した。
インドラはヴィレキアの超速機動を完全に追い切れているわけではない。だからこそ、魔王は周囲の全方向に向けて無数の雷撃を撃ち放ったのだ。
バリバリバリバリッ!! と、数百発分の放電が、魔王の周囲に障壁の如く張り巡らされる。
そして、そのうちの一発がヴィレキアの座標をすぐに補足した。途端に全ての放電がその一発へと収束し、巨大な光線となって天使の体を消し飛ばそうとする。
「私達が共に同質の存在である以上、其の方と私の間に大きな力量の差はない。仮に差がつくとすれば、どれだけその力を集中できるかという一点につきるッ!!」
しかし、対するヴィレキアはこれを真っ向から剣で受け止めた。いや、違う。むしろインドラの光線は光り輝く剣の切っ先に触れた途端、二つに分かれて背後に虚しく受け流されていく。
単純な話であった。
はじめから剣の刀身のみに雷撃を集中させていたヴィレキアに対し、インドラは途中から慌てて放電を一つに収束させたに過ぎない。
悪魔の反応も早かったが、それでも光線の収束は完璧ではなかった。
例え数字的には小さな差であっても、互いに神の領域に踏み込み、天文学的な脳力を振るう彼等にとっては、その小さな差こそが致命的な生死の分かれ道となる。
「ぜりゃああああああああああああああッ!!!!!!」
最早優劣は明らかであった。
ヴィレキアはインドラの光線をはねのけながら、少しずつ前へ前進する。少しずつ、少しずつ、刃がインドラの体に届く間合いまで、徐々に距離を詰めていく。
まるで嵐の中を進んでいるかのようであった。
一瞬でも気を抜けば、逆に光線によって吹き飛ばされるのはヴィレキアの方であろう。
それでも卿天使は進む。
例え光線の余波が自らの肢体を傷つけようとも、この剣に託された希望を実現するためにひた進むッ!!
「むッ……!?」
しかし、そこで異変が起きた。
いや正しくは異変が起きているような気がした。
根拠はない。
されども勘とは数多の戦闘経験の中で培われた確かな経験値に由来する。
だからヴィレキアは第六感の出したサインを裏切らなかった。光線に抗うのを止め、ミサイル射出が如き勢いで一度距離を取り直す。
その直後であった。
「ゴハッ……!!」
胸の痛み、続いて何かが喉から込み上げるような感覚。卿天使はそのまま手のひらに、その何かをゴパリと吐き出す。
中から出てきた液体は生温かく、そして赤い。ヴィレキア=サルテは自らも気付かぬうちに吐血していたのだ。
「そういうわけかッ……」
原因はすぐに分かった。
視界の先では、魔王の体より何か黒いガスのようなものが吹き出しているのがよく見える。そのガスに触れた途端、海の水は腐り果て、港のコンクリートはボロボロと崩れ落ちていく。
紛うことなき『
それはゾロアスター教における絶対悪アンラ=マンユと、その眷属たるダエーワだけが有する魔の空気である。
世界の全てを悪で染め上げようとする彼等の性質を代弁するが如く、『瘴気』は万物に作用し、ありとあらゆる物質・概念を汚染し腐らせる。
通常のダエーワも同じものを有してはいるが、魔王インドラともなればその濃度は桁違いだ。
ヴィレキアが善側に立つ生物である以上、あれほどの『瘴気』をまともに浴びれば間違いなく即死する。ああして周囲に『瘴気』を撒かれてしまっては、最早まともに近付くことさえ難しいだろう。
「なるほど、白兵戦は封じられたというわけか……」
剣の柄を握る手に力が篭る。
これではこちらが速度で勝っていたとしても、大したアドバンテージにはならない。
どうにかしてあの『瘴気』を止めることは出来ないだろうか? いや、考えても策は思い付かなかった。しからば、今のヴィレキアに出来得る戦いはたった一つである。
「承知した。其の方がそう来るならば、こちらもそちらのやり方に合わせよう」
刹那、再び卿天使の体が大きく躍動する。
彼はその神速を以って頭上高く飛び上がると、そこで一度ピタリと停止した。そのまま見えないボールを左右から挟むように両手を構え、そこに『天骸』から生成した轟雷を集中させる。
そうして生み出されたのは、甲高い金属音を上げながら、眩い光を撒き散らす碧白の雷球。
それは至極不安定であった。あまりにも膨大なエネルギーが一点に集まったことで、仮に天使が少しでも調整を誤れば、途端に暴発してしまうほどの危うさを秘めている。
実際に雷球はすぐに安定を失い、まるで陽炎のようにユラリと揺らぐ。そしてそれこそが、天使の手中より神威が出力される契機となった。
「贖え。我が天火は卑賊を焦殺する――――『終の
雷球が崩壊する。
爆撃の如き轟音が響き渡り、世界の全てが白と光とに埋め尽くされる。それはまるで核爆弾が使用されたと思ってしまうほどの光景であった。
雷球より射出された数千の超温熱光線。
それらはまるで花が開くような放射線を描きながら進み、そのままその全てがインドラ一点目掛けて襲い掛かる。
回避不能、防御不能。
接触、そして再び未曾有の大爆発が起きた。
大地が揺れ、空気が震え、海では津波すら巻き起こる。
空は嵐だというのに、その馬鹿げた光量が戦場をまるで晴天のように明るく照らしていた。
インドラの姿は見えない。巨獣は全長二十メートルを誇るにも関わらず、その全身は光と熱のカーテンにすっぽりと覆い隠されてしまっているのだ。
それでも神威の猛攻は留まるところを知らない。
何しろ全弾は数千発だ。まるで土砂降りの雨を浴びるかのように、今もダエーワの王は終わりのない蹂躙の嵐に晒され続けている。
「現世においては叡智の炎にもなぞえられるインドラの雷だ。ただの一射で国家をも灼き尽くす。されど、それで其の方が死んでくれるとは限らん。故に確実策を取らせてもらう」
ヴィレキア=サルテは慎重な男であった。
つまり、一発では終わらせない。彼は一つ目の雷球が消え切るよりも早く、二つ目、更には三つ目の雷球を生み出し、殴りつけるような殲滅雷撃を重ねて射出する。
「重ねて『
然して、この現世に地獄が現出した。
ありとあらゆる形あるものが塵と化し、眼に映る全てが白に塗り潰されていく。あまりにも光が強すぎて、その下にいるであろう怪物の様子など欠片も見通すことが出来ない。
まだ死んだのか分からない。
だからこそ、卿天使は徹底する。
かの魔王を徹底的に焼却し、徹底的に滅殺する。
ヴィレキアが前に手を出すと共に、インドラのいそうな一帯を巨大な円形の術式が隙間なく埋め尽くす。
その一つ一つが、先程四メートルの肉塊を瞬時に蒸発させた『間欠泉』の術式である。まるで光の塊を下から噴き上げるように、全術式から殲滅的な一撃が撃ち放たれた。
光線が直上の空間、その全てを呑み込み天を衝く。それはさながら、光と熱とによる巨大な十字架が空に打ち上げられたかのようであった。
「悪魔は善神に打ち倒される。神話とはそういうものだ」
未だ光がインドラを焼き尽くしているのを眺めながら、ヴィレキアは一言ボソリと呟く。
王さえ除けば数ある天使の中でも最強に類する卿天使、その『天骸』の六割を注ぎ込んでの猛攻であった。
これにて虚偽の魔王は死んだ。細胞の一片すら残さずに蒸発した。
そこで卿天使はすぐに背後を振り返る。
そこにはヴィレキアの勝利に湧き立ちながら、目の前のダエーワを殺し続ける人類王勢力の姿があった。
人が少数で悪魔が多数なれど、彼等は上手くダエーワを自分達のいる場所に引き寄せている。上から見ても、悪魔が人の住む港湾施設の外へ出ていく様は見受けられない。
そこにヴィレキアは、自らの生命を犠牲にしてでも、市井の人間だけは巻き込まんとする彼等の気高い魂を認めざるをえなかった。
「……命を無駄にせずに済む、などと非礼を述べたことは謝罪しよう。卿等は等しく、私の背中を預けるにたる武人であった」
兵の数はほとんど変わっていないが、それでも幾人かの戦士が殺されたのは明らかだろう。ヴィレキアは彼等に加勢しようと、素早く地上に降り立とうとする。
「ヌグオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
最早聞こえるはずのない咆哮があった。
ヴィレキアは驚愕と共に振り返る。すると丁度、海上を覆い隠していた光のカーテンが、ようやく晴れ始めたところであった。
「何故だ、何故あれを浴びて未だ……」
卿天使は目の前の光景を信じることが出来なかった。
まるで光のカーテンを内側から打ち破るかのように、全長二十メートルの巨大ダエーワが姿を現わした。
魔王はモーセの如く海水をかき分け、水中より出した小さな前足を岸の端にかける。途端にバキバキバキッとコンクリートが砕け、それでもインドラはその巨体を地上へと押し上げた。
津波の如く弾けた水飛沫は、そのまま細かな水滴となって頭上より降り注ぐ。これまで海中に隠れていた部分が露わになり、改めてその巨大さに驚かされる。
しかし、卿天使が驚いたのはそこではない。
光のカーテンが晴れ、水飛沫が収まり、インドラの輪郭がはっきりと見えるようになるにつれ、これまで冷静であったヴィレキアの顔が驚愕に歪んでいく。
「なっ」
巨竜は無傷であった。
いや、確かによく見ると表面の鱗は僅かに焦げ付いている。されど、たかがそれだけであった。
卿天使が神話クラスの術式を惜しむことなく注ぎ込んだにも関わらず、虚偽の魔王は死ぬどころか有効打の一つすら受けていない。
驚愕だとか、絶望だとか、そんな生易しい言葉で言い表せられるものではなかった。
インドラは吠えるわけでも、暴れるわけでもなく、その丸い瞳をただこちらに向けている。それはさながら鼠を隅に追い詰めた猫が、あとはどのタイミングでトドメを刺そうかと思考している様によく似ていた。
人類王勢力より派遣されしインドラ討伐隊、その全滅のときは刻一刻と近付いて来ていた。
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