第二十八話 『カセイと晴』


 大した自慢ではないが、昔から体だけは丈夫だった。

 年が二桁になったあたりから、来る日も来る日も喧嘩に明け暮れてきたというのに、今日まで特に大きな怪我も病気もしたことはない。

 だから仮に他人を病院送りにすることはあっても、自分が入院する羽目になるなどありえないだろう――――と、樋田はこれまで高を括って生きてきたのだが、


「それがいきなり耳をもがれ、皮を剥がされエトセトラと来たモンだ。いや、本当マジでよく生きてたな俺……」


 此度の一件をもって、無病息災のチンピラ少年は見事初入院をキメる羽目となった。

 とある病院のとある病室のベットの上、独りげんなりと溜息をつく彼の顔は果てしなく虚ろである。暗く静かな窓の外を見るに、時刻はそろそろ日付を跨いだ頃合であろうか。


「畜生、全然眠れやしねぇじゃねぇかクソッタレ」


 怪我を治すためにも早く休まなくてはならないが、入院してからというものろくに寝付けない日々が続いている。どうやら全身を隈なく満たすこの鈍痛は、今日も少年より安眠を取り上げるつもりらしい。


「あれからもう二日、か……」


 晴と共に簒奪王を打ち倒したあの夜、廃ビル街で気を失ってからの記憶が樋田にはない。彼が次に目を覚ましたのは、いつの間にかこの病院の中へと運び込まれ、ベットの上で全身包帯まみれにされたあとのことであった。


 あとから医師に聞いた話だと、樋田は一人の少女とともに病院の前で倒れていたのだという。恐らくは晴が気絶した樋田の体を担ぎ、廃ビル街からこの病院まで運んできてくれたのだろう。


 それからは警察が何度か事情を聞きにきたが、当然本当のことなど話せるはずもない。仕方なしに何も覚えていないの一点張りで押し通し、本日ようやく事件性なしの方向で納得してもらったところであった。


「……結局全部元通りになっちまったな」


 結局あれから晴とは一度たりとも会っていない。

 彼女も初日こそは大人しく入院していたらしいが、右手の弾丸の摘出が終わり次第、いつの間にかどこかへ姿をくらましてしまったのだという。


「まあ、しゃあねぇか」


 されど、そこに未練がましい後悔はない。

 彼女に全てを託して気を失ったその瞬間、これが今生の別れになるかもしれないと覚悟はしていたのだ。


 いくら結果的に命を救ったとはいえ、樋田が一度彼女のことを見殺しにしようとした事実に変わりはない。

 簒奪王を倒してしまえば、全てが元通りになる。あの煩わしくも愉快な日々を、また晴の隣で共に過ごすことが出来る――――と、そんな都合の良い願望を抱けるほど、樋田は馬鹿な男ではないのである。


「……まあ、いいさ。アイツがどっかで笑って生きていてくれんなら、俺ァそれで十分だっつーの」


 落としどころとしては、このあたりが妥当であろう。

 もう晴とは二度と会うこともないのだろうから、いつまでもこんな気持ちを引きずっていたって仕方がない。樋田はそう自分に言い聞かせながら、さっさと寝てしまおうと固く瞼を閉じる。


 されど、彼には全身を蝕む鈍痛以上に、未だ寝付くことが出来ないもう一つの理由があった。



「……やっぱ、溜まってんだろうな」



 それは思春期の男ならばあって当然の生理現象。具体的に言うならば、下半身がなんだかむず痒くなり、無意識のうちに股座へと手を伸ばしてしまう例のである。


 相部屋と疲労感を理由に今日まで何となく控えてきたのだが、それでもやはり溜まるものは溜まるものだ。

 入院生活という名の強制禁欲生活も今日で早くも三日目――――いや、そもそも晴と同棲してからはずっと我慢させられてきたのだから、ほぼ丸々一週間ご無沙汰だったということになる。


「思春期真っ只中のエロ猿にあるまじき醜態だな、いやむしろテメェの紳士ぶりを見事証明出来たと喜ぶべきなのか……」


 そんな戯言はどうでもいいとして、金玉の張り具合を鑑みるにそろそろ一発解消せねばならないだろう。

 幸い同じ部屋の患者達は既に寝静まっているようだし、カーテンさえ締めてしまえば下手に勘付かれることもあるまい。


「まぁ、匂いはファブリーズ撒いときゃなんくるなるだろ」


 そう己に言い聞かせるように呟きながら、枕元のティッシュを引き寄せれば準備は完了だ。

 性欲を解消出来ればそれでいいのだから、態々快楽を求める必要はない。精は神速を貴び、速射即発を旨とせよ。そうして樋田がようやく覚悟を決め、正にズボンに手をかけようとしたその瞬間――――突如ガンガンガンガンッと窓が叩かれ、瞬時に少年の顔は真っ青になった。


「げぎゃああああッ!! ここ三階だぞ馬鹿野郎オオオオオッ!!」


 彼は思わず腰を抜かしかけながらも、半ば反射的に窓の方へ向き直る。すると、



「――――なッ」



 樋田は一瞬目の前の光景を信じることが出来なかった。

 ガラスの向こう側に見えるのは、身長百四十センチちょっとの幼い少女であった。

 長い髪のうち左半分は黒髪で、右半分は透き通るような淡い金髪。その頭上には銀河を思わせる天輪が煌々と燃え上がっており、左肩から生えた巨大な隻翼は今も悠々と宙を羽ばたいている。


 その可憐で高潔な彼女の姿を、まさか見間違うはずもない。かつて樋田が己の命を懸けて救った隻翼の天使――――がそこにはいた。


「お前、どうしてッ」


 樋田が訳も分からぬまま窓を開けると、彼女は無言で病室の中へと入ってきた。そしてすぐにその神々しい『天使化』を解除すると、少年の顔をどこか気まずそうな表情でチラリと一瞥し、


「……話はっ、それを済ませてからでも構わん。ワッ、ワタシは部屋の隅で待っているから。ちゃんと目も瞑って大人しくしているから。だからっ、その、すっ、好きに続けてくれッ!!」

「するわけねえだろ馬鹿野郎ッ……!! つーか中途半端に気ィ遣うのはヤメろ、そこは何も見なかったことにして話を進めるのがベストでカインドでしたッ……!!」


 周りの患者の迷惑にならないように、声量控えめで喚き散らす器用少年樋田可成。やがて彼は気が抜けたように長い溜息をつくと、それからようやく本題へと入っていく。


「……つーか今まで一体どこ行ってたんだよ?」


「どこって……、そんなのオマエの家に決まってるだろ。身元不明の身では色々と面倒なことになりそうだったからな。警察や役所の人間に色々突っ込まれる前に、トンズラこかせてもらっただけのことだ」


 そこまで言うと、晴は突然何かを思い出したように指を揺らし、


「おっと、余計な心配はするなよカセイ。ワタシだって一応一般常識ぐらいは弁えている。その証拠に治療費プラス迷惑料として、ちゃんと病院の受付に五〇万程供えてきたからな☆」

「……で、そのお金はどこから?」

「無論オマエの口座からッ!!」

「は?」


 そう自信満々にほざきながら、見事なドヤ顔ピースをキメてくる天然鬼畜ロリこと筆坂晴。その一切悪びれない堂々とした物言いに、樋田は怒りを通り越して一種の呆れを覚えてしまう。


「……まぁ、その話は別にもういいわ。つーかそんなことより、簒奪王の野郎は一体どうなったんだよ」


 樋田の声色が真面目なモノへと変わった途端、晴もまた背筋を正してシリアスモードに移行する。

 確かに彼等は簒奪王を倒すことに成功したが、倒しただけでは何の解決にもならない。ヤツの身柄を然るべき場所に拘束するなり、場合によってはその命を絶ってしまわねば、またいつか簒奪王はその野望とやらのために非道を働き始めるに違いないだろう。


 されど、実際は口で言うほど心配はしていない。

 晴ならばそこらへんもしっかり考えて、あの後サクッとヤツの首を刎ねてくれたに違いないと、樋田は確かにそう信じていたからである。しかし、



「うむ、普通にそのまま捨ててきたぞ☆」



 そんな希望的観測はものの二秒で崩壊した。


「すすすっ、捨ててきたってお前ッ……!!」


「うるさいうるさいうるさいッ、時間が無かったんだから仕方ないだろッ!! あの時にはもう天界の天使共がすぐ近くまで迫っていたし……って、そもそもオマエが失血死一歩手前になってたのが一番の原因だバーカバーカッ!!」


「あっ、なんかすんません……。でもよ、なんかこうサクッと殺したり出来なかったのかなあって」


「馬鹿を申すなヒダカスこの野郎。あのときのワタシは『天使化』が解け、『天骸アストラ』も完全に尽きた状態……言わば何の力も持たないただの幼女でしかなかったのだぞ。いくら死にかけのジジイが相手とはいえ、こんなか弱い細腕でそんなサクッと殺せるわけがあるかッ!!」


 晴はそこまで一息に叫び散らすと、疲れてしまったのかちょこんと近くの椅子に座り込み、


「……だが、心配をする必要はない。簒奪王の身柄はあのあと、間違いなく然るべきの手によって拘束されたはずだ。まあ確かに『未練の奴隷エターナル=アクト』を回収出来なかったのは心残りだが――――なに、オマエが危惧するような事態にはならんだろう」

「そうか、ならいいんだが……」


 そうボソリと答えると、それきり樋田は口を真一文字にひき結んで黙り込んでしまう。

 折角晴と再会を果たしたというのに、何故か少年の顔は未だ陰鬱の程をなしたままであった、そしてそんな明らかさまな違和感に、あの筆坂晴が気付かないはずもなく、


「オイ、どうしたんだカセイ。ただでさえ覇気がない癖に、今日は普段にも増してボソボソボソボソと。折角簒奪王のヤツを倒せたというのに、一体何に不満があるというのか――――むっ」


 晴はそこまで喋って、ようやく樋田の心情に気付いたのだろう。彼が苦虫を噛み潰したような顔で見つめているのは、未だ包帯が巻きつけられている少女の右腕――――即ち晴が樋田を庇って穿たれた掌の銃創であることに。


「もしかして、これのことか?」

「ああ、そうだ。とりあえずなるようにはなったが、とてもめでたしめでたしじゃ済ませられる話じゃねぇよ……それに、一度はテメェのことを見殺しにしようとした事実に変わりはねぇしな」


 あれだけ救うだの助けるだのと大口を叩いた癖に、結局樋田は晴のことを完璧に護り切ることは出来なかった。そしてそれ以上に、人として決して言ってはいけないことを言い、決してしてはいけないことをしてしまった。

 その腐った性根の招き寄せた結果がこれである。包帯の下に刻まれた痛ましい傷跡を思うと、樋田はそれだけで今にも胸が張り裂けそうな気分になる。


「まっ、オマエらしいと言えばオマエらしい結果だったと言えるんじゃないのか。そういう誰も彼もが完璧に救われる最高の結末を引き寄せられるのは、生まれもっての正義の味方くらいのものだろう。ちょっと改心した程度のチンピラ風情に、勇者の真似事はちと荷が重すぎる」


「……クソムカつくけど言い返せねぇな。けっ、本気でテメェが嫌になるぜ」


「まあ確かにオマエは命を助けてもらった癖に、痛いのは嫌だの死ぬのは怖いだのとダダをこねまくった挙句、最後には開き直って逆ギレしだすような正真正銘のカスだったのかもしれん」


「ねぇ、本気で死んじゃうよ俺?」


 晴の情け容赦無い口撃に、樋田の脆弱な精神は瞬時に灰と化す。しかし続いて晴はおもむろにベッドの上に身を乗り出すと、



「だが、ワタシは



 そう言って樋田の頬に優しく手を回した。

 その掌はほのかに温かく、彼女が今も生きていることが確かに実感させられる。


「他の誰がなにを言おうとも、あのときワタシを助けてくれたのはカセイ――オマエだ。オマエが簒奪王に立ち向かってくれたから、オマエだけはこの惨めな天使の声に応えてくれたから、ワタシは今もこうして生きていられる。だからこそ、オマエの隣でこうして笑ってみせたり、あとはそのっ、早く治れーとか念じたりも出来るんだ」


 そこで彼女は「だから」と一度言葉を切り、


「そのことに関してだけは、多少は誇りに思ってもいいはずだ……とワタシは思うな、うん」


 そう一方的に自己完結すると、晴はこれ見よがしに暑い暑い言いながら顔を手で扇ぐ。

 因みに現在の室温は摂氏十度以下。そのあまりに酷い口下手っぷりに、樋田は落ち込むことも忘れて、思わず吹き出してしまいそうになる。


「晴、お前って奴ァ……」


 そうだ、己は一体何を考えていたのだ。

 いつも我儘で偉そうで、その癖ドがつくほどのお人好し。それこそが樋田の憧れた筆坂晴の高潔な姿ではないか。

 そんな彼女がたかが一度で、樋田のことを恨むはずもない。そんなことを気にしていたのは、最初から彼の方だけだったのだ。


 ――――だが、その優しさに甘えるつもりはねぇよ。


 確かに晴は本当に樋田のことを許してくれたのだろう。されど他の誰でもない彼自身が、自分の犯した罪を許すことが出来そうもない。

 仮にこれからも晴の隣にいることが許されるのならば、例え世界を敵に回してでも、自分だけは彼女の味方であり続けよう――――態々言葉には出さずとも、少年は確かにそう心に刻みつける。

 残念ながら今の惰弱な自分に出来る贖罪は、それぐらいしか思いつきそうもない。


「まっ、まあ本当に悪いと思っているのならば、オマエにその罪を償う機会を与えてやってもいいがなッ!! むしろ今日こうしてオマエに会いに来たのは、それが目的まである」

「直訳すると?」

「個人的にお願いがあるから超聞いて欲しいッ!!」

「応、どんときやがれ」


 そんな樋田の決意になどこれっぽっちも気付いていないのか、愉快に喚く晴のノリは異常なまでに軽い。されど早速彼女の役に立てるならば、こちらとしても願ったり叶ったりだ。

 一体何を言いだすのかと口元に手を寄せる樋田に対し、晴は偉そうにこちらの顔を指差すと、


「くくくっ、ならばこのアロイゼ=シークレンズの名をもって命じよう――――ワタシを養え樋田可成ッ!!」

「嫌です」

「あんぐりはいやわぱッー!!」


 ミステイク。なんか態度がムカついたので、思わず勢いで拒絶してしまった。

 対する晴の方はと言うと大袈裟に椅子の上から転げ落ち、まるでこの世の終わりみたいな顔で樋田の顔を一瞥すると――――そのまま半ベソかきながら少年の足元に縋り付いてくる。


「たっ、頼むカセイッ。頼むからワタシを見捨てないでくれッ!! もう森林公園でムカデやらダンゴムシやら食べて飢えを凌ぐ生活には戻りたくないんだああああああッ!!」


「うるせぇ、ひっつくなッ!! 冗談だっつーのッ!!」


「……ふぇっ?」


「だから別に構やしねぇって言ってんだよ。どうせ乗りかかった船だ、こうなりゃ最後まで付き合ってやらあ」


「……ほっ、本当かッ!? くははッ、流石はカセイ。話せば分かるヤツではないかッ!! わーいわーい大万歳、感謝感激雨霰ッ!!」


 よっぽど嬉しかったのか、お馴染みの高笑いと共にアホっぽい小躍りを披露する晴。そんな彼女の明るさととびっきりの笑顔に、樋田は心の底から救われた気分になる。


 ――――……全く、鈍感な野郎だぜ。


 泣いて喜びたいのはむしろこちらの方であった。

 こんなクズで卑屈な最低の人間のことを、晴だけは笑って受け入れてくれる。まだまだこれからも彼女の隣で、この煩わしくも愉快な日々を送ることを許してくれる。

 それがろくに他人とも交わらず、独り自己嫌悪の中で溺れ続けた樋田にとって、一体どれだけの救いになったか。

 きっとこの少女はそんなこと、これっぽっちも分かってなどいないのだろう。


 窓から僅かに吹き込む冷たい隙間風も、今だけは何故か全くもって嫌に感じない。

 晴はおもむろに小躍りを止めると、手を後ろに回して、くるりとこちらへ向き直る。その何色にも染まらない鮮やかな黒髪を、どこまでも可憐にたなびかせながら。



「それでは改めてよろしくなッ、カセイ」



 樋田は突如差し出された少女の握手に一瞬動揺し、それでも最後にはその手を強く握り返す。随分と久々に感じる人の肌の温もり、その温かさに思わず頬が緩みかけるのを――――今度はもう堪えたりはしない。


 この小さな手を二度と離してなるものか。そう固く決意しながらも、少年の仏頂面は自然に穏やかな笑みへと変わっていく。



「――――ああ、よろしくな晴」



 晴の太陽のような笑顔に釣られ、樋田もまた子供のようにあどけない笑みを見せた。

 そのあとも二人は声を潜めてクスクスと笑い合う。お互いが生き残ってくれたことを喜び、心の底から安堵し、いつまでも楽しそうに笑い続ける。


 この街を救った二人の『英雄』の姿を、天上の月明かりだけが祝福するように照らしていた。

 

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