第四十五話 『ゲートレス・ラビリンス』
「さて、それでは粛々と死んで頂きましょう」
そんなおぞましい宣戦布告に、樋田は三発の銃声を以って答えた。
飛ぶ鳥のように迫り来る五人の天使に対し、彼は牽制の意味も兼ねて続けざまに発砲する。しかし、ただでさえ素人の樋田が、粗悪な銃を使って攻撃を当てられるはずもなく、鉛玉は虚しく少女達の間をすり抜けていった。
「再演術式展開。擬似
「――――ッ、しゃがめ松下アアアアアアアアアアアッ!!」
そして次の瞬間、銃撃のお返しとばかりに天使の一人からジャベリンが投擲された。
樋田は慌てて傍の少女を押し倒すが、そのせいで代わりに自身の回避が遅れてしまった。まるで矢のような勢いで殺到した投槍は、少年の肩を浅く引き裂くと、そのままブーメランの要領で持ち主の手元へと戻っていく。
「畜生、ッざけやがってッ……!!」
「先輩っ、血がッ……」
「ハッ、こんなモン唾つけときゃすぐに治んだよ。んなことよりさっさとここからズラかるぞッ!!」
肉を裂かれる激痛は確かに堪えるが、それでも戦闘に支障が出るほどではない。しかし、このまま松下を庇いながら、五人の相手を続けるのは流石に不可能だ。とにかく今は逃げの一手に賭けるしか、この戦場を生き残る術はない。
「にっ、逃げるって言っても一体どこへッ!?」
「っせぇんだよモジャモジャがッ!! 死にたくねえなら黙ってついてきやがれッ!!」
そう言って樋田は乱暴に松下の手を掴むと、天使達に背を向けて無我夢中に駆け出した。しかし、それでも松下のスピードに合わせて走らざるを得ないこともあり、敵影は瞬く間に二人の背後へと迫り来る。
そして五人の中で最も動きが俊敏な天使――そのロングソードを構えた少女に至っては、最早彼等から僅か五メートルの地点にまで達していた。
「先輩後ろオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
松下の絶叫と共に、白銀の剣は光に煌めき、天使は飛びながらに刺突の構えをとる。
しかし、それでも樋田は攻撃を避けることをしなかった。その場で身を翻すことも、腕を犠牲に急所を庇うこともせず、その必殺の一撃を甘んじて受け入れる。
直後、少年の胸板から白銀の剣が勢いよく飛び出した。
刃に少し遅れて鮮血が撒き散らされ、少し前を走らされていた松下の体が朱に染まる。彼女はそこで思わず立ち止まると、今にも泣き出しそうな顔で樋田に縋り付こうとする。されど――――、
「
その一撃で樋田可成が絶命することはなかった。
彼はそのまま慣れた手つきで、天使のこめかみに拳銃を押し当てると、一瞬の逡巡もなしに引き金を引いた。
少女の額に風穴が穿たれると共に、彼女の『天使体』はまるで宙に溶けるように崩壊していく。そしてその光の渦が止むと、天使はいつの間にか元の少女の姿へと戻っていた。彼女はそのまま眠るように気を失い、バタリと呆気なくその場へ倒れ臥す。
「クソッ、タレがアアアアアアアッ!! ――――ぐぅがァッ、ありえねぇ、チクショウ。ッざけやがって、クソ痛てぇわボケェえええええええッ!!」
樋田は胸に刺さったロングソードを無理矢理に引き抜くと、即座に『
体の方は実質無傷に等しい状態とはいえ、樋田は自分の中のもっと大切な部分が消耗させられているような気がした。
「――――大人しく、絶命してください」
しかし、そうしてゆっくりと苦悶している余裕すらも、今の樋田には与えられなかった。
ロングソードの天使と入れ替わる形で、今度はハルバートの少女が勢い良く獲物を振り抜いてきた。樋田は次々と繰り出される少女の攻撃のうち、重い一撃は紙一重でかわし、軽い一撃は奪った長剣でちょこまかとやり過ごしていく。そうして何度か打ち合いを繰り広げた後、彼はワザと大振りを外し、明らかな隙を作ってみせた。
「マズッ……!?」
そこで樋田が体勢を崩したその瞬間を、ハルバートの少女は見逃さなかった。この一撃で勝敗を決めようと、こちらの予想通りの剣筋で斬りかかってくる。
そしてその結果、慌てて身を翻した努力も虚しく、少年の左腕は肩から一思いに切断され――――しかし、その代わりに右腕のロングソードが天使の首を真一文字に刎ね飛ばした。
ボトリと生首が落ちると同時に、彼女の『天使体』もまた崩壊を迎え、瞬く間に元の少女の姿へと戻っていく。そしてこれまた先程と同様、そのさまを上から見下ろす樋田の左腕も、既に時間遡行による再生を完了していた。
「ハハッ、いいねぇ。付け焼き刃にしちゃあ、割とうまくいくじゃねえか……」
繋がった腕の感覚を確かめながら、作戦成功と獰猛に微笑む少年であるが、その凶相にはベトリと張り付くような嫌な汗が浮かんでいる。
当然ただの人間にすぎない樋田と、天使である彼女達では、身体能力において比べ物にならないほどの差がある。しかし、それでも樋田の格闘センスと獣じみた反射神経をもってすれば、なんとか相討ちに持ち込むことぐらいは可能だ。
そこで彼は『
その恐怖と激痛による心理的な負担は想像を絶するものであるが、そうでもしなければとてもこの戦いを生き残れるとは思えない。そんな苦渋の決断であったのだ。
「へはっ、ひひゃはははははははああッ!! どうだこれであと三匹ィッ!! オラオラどうした? 全員まとめてきっちりブチ殺してやるから、さっさとかかって来やがれってんだよ。このクソッタレの売女共がァッ!!」
しかし、そうして二人の仲間が倒されるに至っても、残りの三人の表情に動揺の色が浮かぶことはなかった。
むしろここからが本気とでも言わんばかりに、ロングソードとジャベリンの間に挟まれる形で、一人の少女が前に進み出る。それは五人の中でいつも三番目に声を上げるあの少女であった。
「……術式の原理は不明。然し、近接戦闘の不利は明確。よって、中距離大火力による一掃攻撃を推奨」
両者の距離はおよそ十メートル弱、しかし向こうから先に攻撃を仕掛けてくる気配はなし。しかし、そこで少女は虚空より、鋭くしなやかな何か杖のようなものを取り出した。
その瞬間、白がベースである天使の『
「っざけんじゃねぇッ!! ありゃあマジで冗談じゃすまねぇぞッ!!」
「えっ、ちょっと、どうしたんですか先輩ッ!?」
そんな明らかな大技の気配に、樋田は松下を連れて即座に逃げ出した。もし仮にその判断が少しでも遅れていれば、彼らの命はそこで尽きていたに違いないだろう。
「再演術式展開――――擬似聖創『
直後、まるで巨大なドラゴンが火を噴いたかのように、狭い渡り廊下の中は一瞬で炎に埋め尽くされた。
背後より押し寄せる火炎。にじり寄る高温。差し迫る死の予感。
先程左腕を直したばかりであったため、『
悲鳴をあげる暇も、絶望に嘆く猶予もない。樋田は腰が抜けかけている松下の体を抱えながら、後方に向けて走りに走り――――間一髪のところで目の前の曲がり角を右に飛び込む。
次の瞬間、先程まで樋田達がいた場所を紅蓮の火炎が焼き尽くした。続いて壁に沿って流れてきた炎が肌を焼くが、全身丸焦げにされなかっただけマシだと思わねばならない。
「オイ大丈夫かッ!? まさかもう走れねぇっなんてことはねぇよなッ!?」
「はい、なんとか大丈夫です……」
「よし、なら立てッ!! 死にたくねぇなら、血ィ吐いてでも走るしかねぇぞッ!!」
どうやら松下は先程の一撃で、すっかり怯えきってしまったようだが、今彼女に気を回しているほどの余裕は樋田にもない。そうして背後からの熱と煙に追われるように、二人は早々にその場から腰をあげる。
『
――――前を塞がれちまった以上、後ろに逃げるしかねぇんだが……。
しかし、樋田が目を向けた先に、先程のように炎をやり過ごせそうな曲がり角はどこにもない。そちらの方は、ただ真っ直ぐな一本道が続くのみであった。
どちらにしろ次の一撃は『
しかし、何故か三人の天使達は、逃げる彼等を追いかけはしなかった。
二人が彼女達から充分距離を取ってから、三人の天使達はようやく炎の中から姿を現わす。しかし、それでもやはり何か攻撃を仕掛けてくる様子はない。
彼女達は逃げる樋田達を、ただ哀れみの視線で見下すのみであった。
「――――まあ、いいでしょう。そちらへ行きたいのならば、逝けばいい」
「愚劣」
「ここで仕留め切れなかったのは残念ですが、代わりに我等の盟友が貴方方を歓迎してくれるでしょう。さぁ、
しかし、そんな天使達の嘲るような声も、樋田達の耳には最早届いてはいなかった。彼等は一度だけチラリと背後を振り返り、あとはただがむしゃらに廊下の中を駆け抜け続ける。そして、その直後――――、
「なっ」
ガラリと、唐突に
樋田達は先程まで確かに廊下の中を駆けていたはずなのに、気が付くと何故かだだっ広い大広間の中心へと変わっていた。
その空間は吹き抜けになった二階建て構造で、前後左右には四つの巨大な扉と、二階へと続くこれまた巨大な階段が続いている。
全体の雰囲気としては西方世界における城郭内部のイメージに近いが、それは当然、これまで樋田がこの綾媛女子学園の中で見た光景とはかけ離れたものであった。
「畜生、ハメられたッ……!!」
樋田はそう苛立ち気に吐き捨てると、力任せに傍の柱を殴りつけた。そうして多少は頭が冷めるのを待ち、続いては空間の細部へと目を凝らしていく。するとやはり――――どことなくこの空間は情報量が薄いように感じられた。
確かに建物の構造自体は立派だが、音も匂いも色彩も、現実世界と比べると何もかもが単調で大雑把に見える。やはりここは比較的狭い空間の中に、それよりも巨大な空間を無理やり詰め込んで生み出された『異界』なのだろう。
周囲の景色がいきなり変わった理由は分からないが、そんなものはここが『異界』である以上、いくらでも理屈をこじつけることが出来る。
例えば異なる座標にある『異界』同士を、術者が無理矢理に繋げている可能性だってあり得なくはないのだ。
その場合樋田達は敵の『異界』の中に取り込まれたうえ、ワープの要領で別の『異界』の中へと飛ばされてしまったということになる。
もしこの仮説が事実ならば、現状は最早マズいなんて言葉で言い表わせるレベルの危機ではない。それでは晴がこのあと樋田達の失踪に気付いたところで、二人を助けに駆けつけられるか分からなくなってしまったのだから。
「……ちょっとッ、一体なんなんですかアイツらは?」
「っせーな、今ちょっと話しかけんな――――って、お前どうしたんだよその顔……?」
「えっ、なんです? 松下の顔になにか付いているんですか?」
「いや別にそういうわけじゃあねぇんだが……」
今になってようやく呼吸が落ち着きだしたのか、隣の松下は肩を上下させながら不安気にこちらを見つめてくる。
しかし、その顔色があまりにも悪かった。樋田も樋田でかなり動揺はしているのだが、彼女の顔全体からは生気が抜け落ちてしまっているし、その形の良い唇に至っては弱々しい紫に染まってしまっている。
どちらかと言うと彼女は肝が座っている方だと思っていたのだが、いきなりこんな命の危機に晒されては、こうして恐怖に溺れてしまっても仕方がないだろう。
いきなりワケの分からない空間に飛ばされて、目の前で見知った人間が血飛沫をあげて、大人数から本気の殺意を浴びせられて、挙げ句の果てには炎で全身を丸ごと焼き殺されかけたのだ。
修羅場慣れした樋田でも冷静さを失うほどのストレスに晒されて、たかが中学一年生のか弱い女の子が平気でいられるはずがないのである。
――――チクショウ、俺がなんとかしてやらねぇと。
何はともあれ緊急事態だ。
仮に敵に襲われるようなことがあっても、晴が来るまで持ち堪えられればいいと、そうタカを括っていた過去の自分を殺したい気分であった。
それでもやはり晴と連絡さえ取れれば、このクソッタレな状況も大分マシなものになる。そこで樋田は携帯電話を取り出すと、縋るような思いで彼女に電話をかけてみる。しかし――――、
「チクショウ、やっぱ繋がらねぇか……」
そんな甘い考えはものの数秒で否定された。
正確に言うと電話自体は繋がっているのだが、何故か向こうから何も声が聞こえてこないのである。これも『異界』と現実世界とが、空間的に遮断されているせいなのだろうか。
――――チクショウ、これじゃあ全く先が見えねぇじゃねぇか。
現状は正に最悪の一言だ。
この『異界』の中にどれだけの数、またどれだけの強さを持った敵がいるかは全くの不明であるし、何より松下という足手まといを常に抱えたまま行動しなければならない。
そのうえ晴がいつ助けに来てくれるかも分からないとなれば、それなりに修羅場慣れした樋田でも思わず心が折れてしまいそうになる。
今は何故か天使達が攻撃を仕掛けてくることはないが、そんな安全な時間だっていつまでも続いてくれるとは限らないのだ。
「まぁ、こんぐらいならなんとかなるだろ」
しかし、そんな胸の中を渦巻く絶望感とは真逆に、樋田は敢えて楽観的な言葉を口にしてみせた。
樋田も樋田でそれなりに嫌な汗をかいているが、今一番この場で恐怖に震えているのは、間違いなく隣の松下の方だ。ここで自分が弱気な姿を見せては、きっと彼女の恐怖を更に煽ってしまうことになるだろう。
ならば、例え虚勢でもここは威勢の良いことを言った方がいい。そう考えた上での言葉だったのだが、案の定松下の瞳からは微かに恐怖の色が薄まっていた。
「これがなんとかなるって……なら先輩はこれからどうするつもりなんですか?」
「ああん? そりゃどうするもなにも外出てぇなら出口探すしかねぇだろ」
「えっ、出口なんてそんなものあるんですか?」
そんな松下の意外そうな声に、樋田は力強い肯定をもって答える。
「嗚呼、必ずどこかに出口はある。あくまで晴からの受け売りだが、ここが『異界』である以上それだけは確かだ」
しかし、その言葉は何もただの虚勢なわけではなく、かつて晴の口から聞いた紛れもない真実である。
彼女曰く『異界』とは特定の空間を現実世界から切り離して生み出すものだが、それが元々は同じ空間である以上、『異界』と現実世界を完全に遮断することは不可能であるらしい。
即ちどんな『異界』の中にも、必ずいくつかは現実世界との境界が薄い座標があるのだ。そこを渾身の『
イメージ的には風呂の上に浮かべた水風船を割ってしまえば、水風船の中の水も風呂の中の水も違いはなくなるというのが近いと言えよう。
そのあたりのことを噛み砕いて話すと、松下もようやくいつもの調子を取り戻してくれたようであった。
「なるほど、その出口とやらを見つければ、松下達だけでも外に出られるんですね」
「ああ、だからそこまで悲観的になる必要もねぇよ。それに今のお前にはこの俺様がついているしな」
「……いや、さっきとか結構ギリギリだったじゃないですか。先輩って顔は明らかにヤバいヤツなのに、実際あんま強くないんですね」
「っせーな、ちゃんと言われた通り盾になってやったんだから、ちったぁー感謝しやがれ」
「いやいや、そこらへんは松下も一応ちゃんと感謝してますよ。いや、その、マジで本当にです……」
「いきなりマジになんのはやめろ。こっちが気恥かしくならぁ」
そう松下と軽口を叩きながらも、樋田の頭の中は今も別のところにあった。
確かに出口はあると言ったが、正直それがどこにあるかは何も分からない。そもそもこの空間が『異界』である以上、どれほどの広さがあるのかも全くもって不明なのだ。
もしかしたらこの『異界』で出口を探すということは、砂漠の中で一つの砂つぶを探すような途方もない作業なのかもしれない。
――――だからっていつまでも探検ごっこなんざしてるわけにもいかねぇ。いつあの天使共が襲ってくるかは分かんねぇし、単純に水が飲めねぇだけでも一日で松下がへばっちまう。その前にどうにか手掛かりを見つけなきゃならねぇんだが……。
何はともあれここから動かなければ、何も事態が改善しないことだけは明らかだ。そうして樋田はとりあえず一番近くの扉を指差すと、
「先を急ぐぞ」
少年の口調が真剣なものに変わったことを察し、松下は黙って首を縦に振る。それは見るからに頑丈そうな扉だったが、二人で押してみると割と簡単に開いてくれた。
そうして中を覗きこんでみると、扉の向こうにはには洋風の廊下が大分先まで延々と続いていた。樋田と松下は二人でその中を恐る恐る進んでいくが、特に何かおかしな点は見つからない。
強いて言うならばそこら中に微量の『
とても晴とは比べものにはならないが、樋田も先月『
『異界』と現実世界との境界が薄い地点ともなれば、この『
樋田はそう考えて廊下の中を進む傍ら、周囲を満たす『
しかし、その後長い廊下を抜け、これまた長ったらしい螺旋階段を上に上り、幾つかの大部屋を通り過ぎた後になっても、特にめぼしい変化を感じることはできなかった。
それでも今はこれこそが最善なのだと、『異界』の中をさまよい続けているうちに、早くも一時間以上が過ぎてしまった。
樋田がそこでそろそろ何か次の手を考えなくてはならないと苦悶していると、隣で松下が久方ぶりに声を上げた。
「あの、先輩すみません。下の方から何か聞こえてきませんかね? なんかこう甲高い女の声みたいなのが」
「いや、俺には何も聞こえねぇけど……ん?」
そう言われて耳を澄ませてみると、確かにどこからか人の声のようなものが聞こえる気がする。どうやら声がしているのは樋田達が今進んでいる先、下階へと続く怪しげな階段の奥からのようであった。
「確かになんか聞こえるな。そこらで反響しまくってて、何言ってんのか全くワカンりゃしねぇが」
そこで樋田は階段の近くまで寄ってみるが、中は何故か薄暗く、その先にどのような光景が広がっているかは想像もつかない。
正直に言うと嫌な予感しかしないのだが、ここでようやく見つけた手掛かりを、このまま調べないわけにはいかないだろう。
「……よし、先行ってちょっと見てくる。お前はここで大人しく待っててくれ。何かあったら悲鳴の一つでも上げてくれりゃあ、すぐに戻ってくるからよ」
「いや、ここまで来たなら松下も行きますよ。確かに怖くないと言ったら嘘になりますが、ここで一人置き去りにされるよりかはずっとマシです」
「……そうか。だが、気ィ張れよ。こっから先はマジで何が起こるか分かりゃしねぇんだからな」
その言葉に松下が頷き次第、樋田は二人でゆっくりと階段を下に下っていく。心臓がバクバクと喧しいのは、唇を噛んで無理矢理に誤魔化した。
そうして下へ下へ進んでいくと、大理石や赤煉瓦が目立っていた周囲の外装は、白を基調としたモダンで無機質な印象へと次第に変わっていった。
足元には用途不明のチューブやら配線やらが走りに走っており、辺りの照明がまばらなせいもあって、何となく廃病院にいるような気分になってしまう。
「……やはり、人の声ですね」
「……ああ、しかもこりゃマトモじゃねぇな。声っつーよりかはむしろ悲鳴だ」
そして二人の予想通り、階段を下に降りていくにつれて、謎の声の方も次第に大きく、そして明瞭に聞こえるようになっていった。
まるで高速回転する金属同士を擦り合わせるような鋭い女の悲鳴。しかもそれはとても一つや二つで収まるような数ではない。
その悲惨な叫び声に二人の心臓は、今にも口から飛び出んばかりに暴れまわっていた。呼吸も次第に荒くなり、掌をじんわりと嫌な汗が満たしていく。
そうして今すぐ引き返したくなる衝動を堪えに堪え、何とか階段を降り切った先には、これまた一つの大きな扉があった。
ここまで近づいて来ると、悲鳴は最早二人の耳にもはっきりと伝わってくる。普通に人生を生きていては、決して聞くことはないだろう、あまりにも濃密で混沌とした嘆きの声。この扉一枚を隔てた向こう側では、一体何が行われているのだろうか。
少年は生唾をゴクリと飲み込みながら、遂に最後の一歩を踏み出した。
「俺が行く」
彼は小声で松下にそう告げると、扉の上部に取り付けられた小さな窓から、中の様子をゆっくりと覗き見る。そして――――、
「嘘ッ、だろ」
そのおぞましい光景に、樋田は思わず間抜けな声を上げてしまう。
扉の向こうに広がっていたのは、ありとあらゆるものが黒で統一され、床に数多の魔法陣のようなものが刻まれた異常空間。ぱっと見の印象は黒魔術の儀式場とでも言ったところであろうか。
そこでは今も十を超える隻翼の天使達が何かの作業を行っている最中で、その手元には皆一様に見覚えのある電子モニターが展開されていた。
そしてそんなオカルティックな雰囲気と対極をなすように、天使達に囲まれる形で巨大なカプセルを思わせる三つの機材が鎮座している。
その不気味な空間や、数多の天使の存在にも驚かされたが、何よりもそのカプセルの中に見える
晴が最初着ていた純白のローブと似たものを身に纏い、全身をおびただしい数の術式で埋め尽くされた三人の少女。例え制服自体は身につけていなくとも、そこには明らかに綾媛学園の生徒と思われる少女達の姿があったのである。
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