第百三十一話『忘れたくても忘れられない』其の二



「……あの、醤油じゃなくて山葵とって欲しいって言ったんですけども」



 しかし、我に返ると其処に座っていたのはやはり松下希子であった。

 当然、秦漢華ではない。見た目も背丈も大きく異なる彼女を、何故秦と見間違えたのだろうか。

 嫌な汗が流れる。醤油片手に思わず固まる。

 そんな明らかに様子のおかしい樋田に、松下はダウナーなジト目を怪訝そうに細めていた。


「あぁ、山葵な。悪い悪い」

「あっ、はい。ありがとうございます」


 そう言って、努めて自然に山葵を手渡す。

 それでも松下は何か引っかかるような顔をしていたが、そのうち気のせいだと断じたのか、何事もなかったように晴や紗織との会話へと戻っていく。


 どうやら自分で思っている以上に樋田可成という男は女々しいらしい。

 たかが一人の女に忘れられただけだ。それも恋人だとか、十年来の親友だとかにというわけでもない。


 彼女は今も生きている。樋田の知らないところで、樋田の知らない人間と、これからを幸せに生きていく。

 何も悪いことなんてない。むしろこの上なく正しい。本来樋田可成こそがこの世界を最も肯定するべきなのだ。なのに、それにも関わらず――――――、


 ――――アホくせぇ。


 正直、食欲はない。

 それでもこの鬱屈とした気分を改めようと、おもむろに箸を手に取る。

 馬鹿な幻想を見るのは、いつまでも過去を悔やむのは、まだこの新しい世界に心が馴染んでいないからだ。それでも、いつも通りに振る舞っていればそのうち慣れる。思い出は薄れ、別離の悲しみは消え去り、やがて秦と関わらないこの世界の方が当たり前になる。



「おい」


「ッ――――――――――――――」



 左方からの唐突な声に樋田は顔を上げる。

 この声を、忘れるはずもない。決して、忘れてはいけない。

 世界の誰もが彼女のことを忘れたとしても、樋田可成だけはその声を覚えていなければならない。


 彼女の怒っている声を聞いた。

 苦しんでいる声を聞いた。

 泣いて、助けを求める声を聞いた。

 にも関わらずその全てを聞かなかったことにしたのだから。


「おい、聞こえてねえのか」


 いつのまにか隣に草壁蜂湖くさかべほうこが座っていた。

 しかし、様子が尋常ではない。透き通るような亜麻色の髪は鮮血に染まり、そのこめかみには銃で穿たれたような穴がぽっかりと開いている。


 戦慄する。

 強烈な吐き気に襲われる。

 金縛りにでもあったかのように身体が動かない。



「手、汚れているぞ」



 言われて自らの右手に視線を走らせ――――瞬間、樋田の頭の中は真っ白になる。

 見慣れた自分の手は、血で真っ赤に染まっていた。

 反射的に左手で拭おうとするが、落ちない。いくら拭っても、何度拭っても、落ちない、落ちない落ちない落ちない、落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない――――――――、



「オイ、カセイッ!!」



 自らの名を呼ぶ声に、樋田はハッと我に返る。

 恐る恐る隣を見れば、最早そこに草壁の姿はなく、筆坂晴が心配そうにこちらを見上げていた。手にこびりついていた鮮血もいつの間にか消え失せていた。

 確かに手は今も汚れてはいる。しかし、それは知らぬ間に着いたであろうただの醤油であった。


「どうしたオマエ、最近なにやら様子がおかしいようだが……?」


 机を挟んだ向こう側では、松下と紗織もいつの間にかお喋りをやめていた。

 申し訳ないなあと心の中で呟く。折角の楽しい祝い事だというのに、空気を壊してしまって、本当に申し訳がない。


 いつかはこの世界にも慣れると言った。

 やがて思い出は薄れ、別離の悲しみも消え去ると、


 だが、そんなのは嘘だ。

 自分の気持ちを誤魔化すための詭弁だ。


 忘れるはずがない。忘れたくなんかない。

 秦漢華に忘れられる。ただそれだけのことがどうしても耐えられない。


 早く忘れたい。罰を受けて楽になりたい。

 それでも、犯した罪だけは絶対に消えることはない。


「いや、別になんでも――――」


 そう言いかけ、やめる。

 晴は様子がおかしいではなく、様子がおかしいと言った。 

 結局、何もかもお見通しなのだろう。晴も前の世界のことは何も覚えていないはずなのに、それでも何かあったと思われる程、今の樋田は壊れているのだ。


 秦漢華の幸せを守りたいならば、前の世界のことを知ってるヤツは一人でも少ない方がいい。

 だから話さなかった。隠してきた。そのくせ誰かに聞いて欲しくて、知って欲しくて、そんな矛盾があって――――だが、例えそうだとしても、


「悪い。ぶっちゃけあんま体調良くねえわ。和室で寝ててもいいか」


「なら早くそう言わんかッ。大丈夫なのか? 熱があるわけではないようだが……」


「いや、そこまでじゃねえよ。経験上ぐっすり寝りゃどうにかなる程度のアレだ。悪いな、折角の日に心配かけるような真似しちまって」


 そう言って樋田は席を立とうとする。

 松下と紗織が心配そうな視線を向けるなか、晴は樋田にだけ辛うじて聞こえる声で言う。


「いつか話したくなったら聞いてやる」


「……あぁ、な」


 それだけ言い残し、和室に入って襖を閉める。

 体調云々は方便であっても、正直言って気分はあまり良くない。まだ時間は早いが、今日はもう何も考えずに眠りたい気分であった。だから、樋田は布団を出そうと、奥の物置を開き、


「っ」


 そうして、小物をまとめて放り込んでいる箱の中に、懐かしいものを見つけた。

 なんの変哲もない焦げ茶のヘアピン。

 かつて晴が樋田に押し付け、前の世界では樋田が秦に送ったものだ。結局彼女は一度もつけてはくれなかったが、今となってはこれだけが唯一秦との繋がりを感じられるものである。



 だから、捨てることにした。



 ベランダに臨した窓を開き、ふらふらと外に出る。

 別に何も大したことはない。ただ軽く柵の外へと放ればいいだけだ。

 それでも中々決心が付かない。

 だから、樋田は大きく右手を振りかぶった。

 このまま勢いに任せて、手を離してしまえば、それで全て――――――、



「はあ……、はぁ……はあ……」



 力無く、ゆっくりと手を下ろす。

 結局、捨てることは出来なかった。


 こんなただのヘアピン。

 持っていても、再び二人の人生が交わることなんてあるはずもないのに。


「畜生ッ……!!」


 樋田はそのまま崩れ落ちるように膝をつく。


 何故あれほど苦しい思いをしてまで、秦漢華を救おうとしたのか。

 何故、秦の声が耳にこびりついて取れないのか。

 何故、秦に忘れられることがこれほどまでに耐え難いのか。


 それが正しいと思ったから?

 それとも、正しく生きている奴は報われるべきだと信じたから?


 違う。

 違う違う。

 そんなものは、全部建前だ。

 嫌われることが怖くて、否定されることが恐ろしくて。そんな臆病な自分を包んで守るための理論武装に過ぎない。


 例え忘れられようとも、もう二度と会えずとも、彼女がどこかで幸せに生きているならばそれでいい――――ふざけるな、それで良いわけがないだろう。


 あれだけ苦しんで、何度も傷つけられて、心を抉られて。

 痛みに慣れるなんてありえるはずがない。本当はそう言って強がっているだけなのだ。

 死ぬことだって怖い。刃を突き付けられれば身は竦むし、殺意を向けられれば戦慄する。それでも躊躇すれば本当に殺されるから。殺されたら守りたいものを守ることが出来ないから。

 恐怖を飲み込んで、押し殺して。

 出来ないことでも出来ると信じて成し遂げて。

 そうやって命を懸けて頑張って、何度挫けそうになっても諦めずに頑張って、頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って――――――――――――――、


「結局……俺はッ……」


 そうして、樋田はようやく自らの感情を認めた。


 秦の見るものを一緒に見たい。

 秦の聞くものを一緒に聞きたい。

 秦の知りたいものを一緒に知りたい。

 秦の過ごす時間を一緒に過ごしたい。


 漢華の、側にいたい。


 本当に、自分自身が心の底から気持ちが悪くて仕方がない。でも、ただそれだけなのだ。言い訳じみた建前や理論武装を取り除いてしまえば、動機なんて本当にただそれだけだったのだ。


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