第五十八話 『二人の涙』
「……さて、そろそろ頃合いですかね」
最早樋田が『
そうして彼女は少年のすぐ傍まで近付くと、手元に残った双剣の片割れをゆっくりと振り上げた。
「上の方針に媚び続けることこそが、私達がこの綾媛学園で生きていくための唯一の道。今までずっとそう思ってきたのに、そのために罪のない女の子をたくさん生贄に捧げてきたのに……それなのに、今更こんなところで引き返せるわけがないじゃないですか……」
まるで自分に言い聞かせるかのように呟く。
気付けばその手は震えていた。双剣を握る掌は嫌な汗でびしょ濡れで、少しでも気を抜けば今にも得物を取り落としてしまいそうなほどである。
頭が熱い。呼吸が荒い。そして目の焦点がなんだか落ち着かない。
片手で握っていた短剣を今度は両手でしっかりと持ち直しても、最早その震えを収まることは出来そうにはなかった。
「……何ぶるってんですか。もう戻れやしませんよ。私の手はもうとっくの昔に汚れちまってんですから」
しかし、それでも殺しの覚悟を決められない彼女は――――、
「ぐっ……!!」
途端にこれまでの人生では味わったことのない強烈な痛みが生じるのを、松下は硬く奥歯を噛み締めることでなんとか堪える。
「……ハハッ!! よォオシ、スッキリしたアアッ!!」
だが、それで余計な迷いは晴れた。
大量の出血と激痛のせいで、頭の中が何だかぼんやりとする。胸の底から湧き上がるどうしようもなく熱いものが、彼女の心をギリギリのところで踏み止まらせていた何かを忘れさせていく。
「これでいいんです……私は何も間違っちゃいません。あとは先輩達に死んでもらえば、それで全部丸く収まんですからッ……!!」
そのときの松下に正常な判断能力が有ったかと問われれば、当然その答えは否であろう。
学園に媚びるべきだと思う松下も、学園を倒そうと息巻く松下も、樋田達を殺すべきだと諦める松下も、彼等を殺したくないと嘆く松下も、その全てが平等に松下希子を構成する心の一側面なのである。
だがしかし、だからこそ彼女は狂ってしまったのだ。
隼志紗織は自分が救わねばならないという使命感と、そのために他者を傷付けていいのかという良心の呵責。
そうした数多のジレンマに押し潰されるなか、最後の最後に彼女が選んだのは――――いや、選んでしまったのは、最も簡単でなおかつ最も愚かな選択肢であった。
少女の思考は停止する。
自分の心と真摯に向きあうことを放棄し、一時的な激情にその全てを丸投げしてしまう。
然して、松下は荒ぶる思いの勢いに任せるがまま、樋田の首元へ双剣を振り下ろそうとし――――、
「
しかし、そこで背後から声が飛んできた。
その聞き慣れた少女の声に、松下は口から心臓が飛び出んばかりに驚く。
「……なんで貴方がここに」
金糸混じりの明るい茶髪と、頭上で花開く大きなリボン。そして自分がこれまで何度も押してきた思い出の車椅子。
恐る恐る背後を振り返ってみると、やはりそこには松下希子の親友である隼志紗織の姿があった。
「ねぇ、なにしてるの……希子ッ」
彼女はガタガタと体を小刻みに震わせながら、今にも泣き出しそうな目で――だがしかし決して目は逸らさず――松下を真っ直ぐに見つめている。
何故だ。先程彼女のことは『
いや、そんなことは考えずとも分かる。
松下希子と隼志紗織は親友であり、なおかつ共に幸不幸を分かち合う表裏一体の存在だ。
そして、もし仮に自分が紗織の立場であったならば、
「……もしかして今、その人を殺そうとしてたの?」
「ねぇ、応えてッ!!」
「ちっ、違うんですこれは……」
先程とは別の意味で体から悪い汗が噴き出す。
見られてしまった。
紗織に見られてしまった。
松下希子が松下希子でなくなるところを、一番見られたくない人に見られてしまった。
――――なんでよりにもよって今なんですかッ!?
何故だ。何故こうも大事なときに邪魔が入る。
あとはこの双剣を振り下ろせば全ての決着がつく。それで紗織には一切汚い世界を見せることなく、このクソッタレな茶番劇を終えることが出来たはずだったのにッ!!
「分かってくださいッ。これは紗織を救うためには仕方のないことなんですよ……」
そうして松下は己が親友のことを何とか丸めこもうとする。
だが此度の紗織は普段の彼女と比べるとまるで別人のように頑固で、松下の必死な言い訳にもまるで聞く耳を持とうとはしなかった。
「……分からないッ、そんなの分かるわけないじゃんッ!! ふざけないでよ。第一私は希子にそんなこと頼んでないッ!!」
「細かい事情はいつか話します。ですが、今だけは私の言うことを聞いてください。時間がないんです。紗織ももう自分の体が相当マズいことになっているのは分かっているはずですよね?」
そう言って松下は紗織の左肩から生えている隻翼に目をやる。
彼女の身を蝕む天使化の術式は既に最終段階を迎えつつある。今すぐにでも『火の戦車』の反転記号を用いて、術式を強制的に停止させなければ本当に手遅れになってしまうかもしれない。
そのことは紗織も何となく分かっているのか、彼女は苦しそうに翼の根元を握りしめる。されど――――、
「うん、分かってるよ。これがどういうものなのかは何も分からないけれど、なんとなくこのままじゃマズいんだってことだけは私も分かる」
「だったらッ!!」
「でもッ!!」
しかし、そこで紗織は松下のことをキッと睨めつけて言う。
「それは私の問題であって希子には関係ないよね。だからさ、私のためだって言葉を便利な免罪符にして、一人で勝手なことをするのはもうやめてよ」
「…………ッ!!」
それまで松下は紗織のことを説得しようと思っていた。
異能の存在を知らない彼女を相手に、如何に自らの行いを正当化し、如何にそれを彼女に納得させようかと考えを巡らせていた。
だが、それもつい先程までのことである。
勝手なことをするのはやめて。
これまで紗織に尽くし続けてきた自らの献身をそう評された直後、松下希子の心を支える何かが致命的に崩れ落ちる音がした。
「かっ、勝手なことってどういう意味ですかッ!? ふざけてんのはそっちの方でしょうッ!! あのまま紗織が一人で苦しみ続けるのを、私は黙って見ているべきだったとでも言うんですかッ!? そんなこと私に出来るわけ……大体なんで話してくれなかったんですかッ!? なんで黙りこくって一人で全部抱え込もうとしてんですかッ!! 紗織が話してくれないから私は――――」
「だって言ったら希子絶対無茶するもんッ!! 私がもし助けてだなんて言ったら、希子は本当はしたくない酷いことに手を染めてまで、絶対に私のことを助けようとするもんッ!! それで最後には結局後悔して、希子は自分のことをいつまでも責め続けるに決まってる……そんなの認められない。希子が代わりに傷付いてしまうなら、それで私が助かったって何の意味もない。でも実際に今の希子はそうなってんじゃんッ!!」
「そっ、それはっ……!!」
想定外であった。
されど、それは図星でもあった。
まさか紗織がそんなことを考えているとは思わず、松下はつい気圧されるように二、三歩背後へと退いてしまう。
だがしかし、それでも彼女の理屈を受け入れるわけにはいかない。こちらにもこちらの事情というものがあるのだから。
「別にだからなんだって言うんですか。私は紗織を救うためなら悪魔にだってなれます。それで貴方がこれからも平穏に生きることが出来るってんなら、そこに何の問題があるっつーんですかッ!!」
「だからそんなこと頼んでないって言ってんじゃんッ!! ……私だって五年前、希子のことを傷付けたじゃん。希子が私に罪悪感を抱いていることをいいことに、自分の悲しみと憎しみを全部希子に押し付けたじゃないッ……!! それだけのことを私は希子にしたんだよ。だからもう、希子がこれ以上私のために辛い思いをするのは我慢出来ないッ!!」
五年前。
紗織の口から飛び出たその言葉に、松下は血が滲むほどに固く唇を噛みしめる。
分かっちゃいない。やっぱりこの子は何も分かっちゃいない。
紗織が松下を傷付けただなんて、そんなこと松下が彼女から両親を奪ったことと比べれば些細なことではないか。
なのに何故この子は、これほどまでに食い下がろうとする。罪人である松下希子にそれだけの価値はないというのに。
――――こんの、分からず屋ッ……!!
きっと、このまま二人で話し合い続けても、絶対に落としどころは見つからないだろう。
隼志紗織は松下希子が傷付くことを絶対に許容できず、松下希子もまた隼志紗織が傷付くことを絶対に許せない。
然らば、こちらは無理にでも自分のやり方を押し通すのみだ。既にその人生の中で多くのものを奪われた彼女を、これ以上不幸にさせないことこそが、この松下希子の宿命なのだからッ!!
「……私にこれ以上辛い思いはさせたくないですか、本当に紗織は優しいですね。ですが、その頼みだけは聞けません。例え私がこの手を汚すことになろうとも、こんなクソッタレな世界に貴方を巻き込むことになるよりかはずっとマシなんですよ」
そう言って松下は紗織に背中を向ける。
しかし彼女は車椅子の上から転げ落ちるように倒れこむと、そのまま罪を犯そうとする親友の足に縋りついた。
「待って、行かないでよ希子ッ!! なんで、なんでなの。別にいいんじゃん私のことなんてッ……!!」
「……すみませんが、その言葉はそっくりそのまま貴方に返してあげますよッ!!」
そうして松下はなおのことしがみついてくる紗織を無理矢理に引き剥がすと、今度こそ樋田にトドメを刺そうと再び背後を振り返る。されど――――、
「……なんで?」
そこに樋田可成の姿はなかった。
『暗い日曜日』によってその精神を完璧に破壊され、惨めに床に這いつくばっていたはずの少年。その姿が何故か影も形もなく消え失せていたのである。
だがしかし、それでも一切痕跡がないというわけではない。
重傷の体を無理矢理に引きずったせいか、粘着質の赤い液体が彼の軌跡を描くかのように床を濡らしている。
そうして、松下がその軌跡の先へと視線を走らせたその直後――――、
「こっちだ」
突如、彼女の耳元にドスの効いたハスキーボイスが囁かれた。
「――――ッ!?」
松下は慌てて声の方を振り返ろうとするが、それでも声の持ち主――――樋田可成が強襲の拳を放つ方が明らかに早い。
その鉄塊の如き一撃は少女の顔面に真っ直ぐ突き刺さり、彼女の華奢で小さな体がまるで冗談のように宙を舞う。
「希子ッ!!」
「……クッソオオオオオオオオオオオオ、『
不意を突かれた。されど、松下も松下でやられてばかりではない。
銀髪の天使は体を横殴りに吹っ飛ばされながらも、すぐさまソニックブームによる追撃へのカウンターを行おうとする――――が、此度のそれは『
「そんなことも出来んですかッ……!?」
予想外。
だが、まだ手はある。
樋田の追撃が再びこちらの顔面を捉えようとするその直前、松下は『虚空』の瞬間移動能力を発動させ、無防備を晒す少年の真後ろへと転移する。
加えてこちらから発せられる全ての音は当然、『
――――なんで動けるようになったかは知りませんが、それならまた眠らせてやりますよッ!! 今度は、永遠にッ!!
然らば、ただでさえ攻撃を放ったばかりの樋田がまともに反応出来るはずがない。
この一撃を今回の戦いにおける最後の無音殺傷法してやろうと、そのま松下は少年の脳幹目掛けて双剣を叩き込まんとする。
「甘ぇよ」
「ッ……!?」
だがしかし、樋田はそこで即座に身体を反転させ、その銃口を数分違わずこちらの額へと突きつけた。
「そんなッ……!?」
「必ず死角を突いてくるって分かってんなら、それはもう奇襲とは言わないぜ」
然して、樋田は迷いなく銃の引き金を引いた。
弾ッという炸裂音と共に、迫り来る一発の鉛玉。
まずい。このままではやられる。
ふざけるな。認められるか。
私がここでこの男に負けたら、一体誰が代わりに紗織を救ってくれると言うのだッ!!
この状況、迫り来る銃弾をソニックブームで迎撃するには時間が足りなさすぎる。
だからこそ松下は一か八か、額のすぐ前方に小さな音圧の塊を生じさせた。少年が弾丸を撃ち込むであろう位置を、瞬間的に判断しての悪足掻きであった。
されど、樋田の放った弾丸はピンポイントでそこへと命中し――――直後、その軌道を捻じ曲げられ背後へと飛んでいった。
「あははははははははははッ!! 甘ぇのはそっちだったみてえですねえええッ!!」
やった。
間一髪だった。
だがしかし、それでもやり過ごせたッ!!
されど――――、
「え?」
そうして勝利の女神は己の方に微笑んだと確信した瞬間、突如少女の首根っこから噴水のような勢いで鮮血が噴き出す。
真っ直ぐにこちらの首のど真ん中を貫くは、松下が先程樋田に渡した双剣の片割れ。それは右手で黒星の引き金を引いた樋田が、空いた左手で銃を防がれたときの保険にと投擲したものであった。
「ガハッ、アアアアアアアアアアアアアアッ!!」
首筋の動脈の断裂。それは深刻な出血を伴う明らかな致命傷だ。
その証拠に『
マズい、マズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズい。
天使体が完全に崩壊してしまえば、松下が体格で勝る目の前の男に勝てる可能性は万に一つもなくなってしまう。
「……クソッ、クソクソクソクソクソクソオオオッ!!」
だからこそ松下は天使体が崩壊しきる前に、なんとしてでも樋田を殺そうと即座に突撃をしかけた。
「ガハッ……!!」
されど、窮鼠猫を噛むこと能わず。
双剣の投擲から続けざまに放たれた三発の銃弾が、少女の体を即座にその場へと縫い付ける。
右肩、左脇腹、そして額。それぞれに風穴を穿たれた途端、天使体の崩壊は更に加速し、たちまちにその全身を真っ白な光が包み込んでいく。
やがてその光の中から現れたのは、大天使サンダルフォンの祝福を受けた銀髪の隻翼などではなく――――松下希子というただのか弱い一人の女の子の姿であった。
「……あっ、ぐっ、うぅ、嘘だ。嘘だあああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
翼を失い、天輪を掻き消された自らの姿を一瞥し、松下は絶句する。
負けた。
敗北した。
そしてその事実は当然、此度も自分は紗織を救うことが出来なかったことを意味する。
もう紗織をこれ以上不幸にしてなるものかと、そのためならば何だってやってやろうと誓ったはずなのに。
それが紗織のためだと自分の全てを犠牲にし、関係のない他人まで生贄に捧げて足掻いてきたというのに――――今この瞬間その全てが無意味と化した。
そのあまりの悔しさに、そのあまりの無力感に、松下は腸が引きちぎれるほどの苦しみと虚しさを覚えずにはいられない。
「嘘じゃねえさ。言っただろ。今のテメェじゃその子を救えやしねえってな」
しかし、対する樋田可成は怒るわけでも、こちらを責め立てるわけでもなく、ただ哀れなものを見るような目でこちらを見下ろしていた。
「樋田、可成ィイイイイイイイイイッ……!!」
ありえない。
つい先程まで床に這いつくばっていたのはコイツの方なのに、つい先程まで惨めな敗者を見下ろしていたのは自分だったはずなのにッ!!
敗北は事実。
それだけは紛れもない現実だと受け止めねばならない。
だがしかし、それでも松下は目の前の彼に、その勝敗の分かれ目を問い質さずにはいられなかった。
「なんで、ですか……なんで、そんな何事もなかったみたいにピンピンしてんですか……? 貴方の精神は、私の『暗い日曜日』で確実に破壊されたはずなのに……」
「……」
そう問われても樋田は何も答えを返そうとはしない。
しかし、その代わりと言わんばかりに、彼は口の中からベッと何かを吐き捨てた。
カラカラと音を立てて転がる無数の金属片。
いや、よく見るとそれは彼が普段黒星に込めている実弾であった。
『
「……一体、どういう意味ですか?」
「うるせぇな。少し黙れや。頭に響くんだよ」
何故だ。何故『暗い日曜日』による精神破壊が効いていない。そして何より、何のためにこの男は銃弾を食べていたのだ。
いや、そもそも銃弾ってそんな軽率に口の中に入れていいものなのか――――と、たちまちに頭の中がパニックになる松下を尻目に、樋田は押し寄せる頭痛と吐き気をなんとか堪えながらネタバラシを始める。
「……メタギアとかやってたらピンとくると思うんだけどな。まあ噛み砕いて言うと、一部の実弾のガンパウダー――――つまり弾丸を推進させるための無色火薬には、一種の麻薬作用があるトルエンつー物質が含まれてんだよ。当然そんなモン体に入れりゃ、多少なりとも精神に影響が出る。実際アフリカとかじゃ少年兵に火薬モリモリ食わせて、殺人への恐怖感を忘れさせたりしてるしな」
そう何の気なしにペラペラと喋る少年とは対照的に、松下は今にも背筋が凍り付く思いであった。
何だコイツは。コイツは今何と言ったのだ。
まさかこの男は松下に殺人を犯させたくないがために、躊躇なくクスリに手を出したというのか。
「お前の『暗い日曜日』とやらは、その人間の精神状態を煽動するのに最適な楽曲を用意すんのが前提条件なんだろ。だったら、クスリでテメェの精神状態を無理矢理捻じ曲げちまえばいい。あとは適当に術にかかった振りして、テメェが油断すんのを待ったっつー寸法だ。まぁ、ぶっちゃけ頭痛と吐き気で死にそうだし、おススメは出来ねえけどな」
「で、ですがいくら麻薬作用があるとはいえ、そんな少量の薬物でそこまで精神状態が捻じ曲がるなんて――――」
「別に実際に麻薬作用があるかどうかはどうでもいいんだよ。麻薬作用があるかもしれないもんを口にしたって事実さえあれば、あとは自己暗示でテメェの心の在り方ぐらいどうとでも出来る。お前の言う自己嫌悪大好きメンヘラクソ野郎は、基本的に思い込み強いしな」
「……バッ、馬鹿なんじゃないですか。いくら思いついてもやりませんよそんなことッ!!」
そんな樋田のイカれた思考回路に、松下はもうすっかりと気圧されてしまっていた。
ありえない。頭がおかしい。
それでこれからの人生が全て台無しになったっておかしくはないのに、どうしてこの男はそんなバカなことが出来るというのだ。
それは自分がこの場を生き残る為だろうか。
いや、違う。
それとも松下希子という憎き学園の敵を打ち倒すであろうか。
いや、違う。
きっとこの男は、松下に殺人を犯させたくないがためにそこまでのことをやってみせたのだ。
「言っただろ。俺ァ絶対にテメェにだけは殺されるわけにはいかねえってな」
馬鹿だ。この人は絶対に馬鹿だ。
何故こちらのために、先輩がそこまで割を背負わなくてはならない。この松下希子にそんな価値はないというのに。
そんな風に自分の人生を棒に振るような真似をしてまで、救って欲しいなどと松下は彼に頼んではいないというのにッ!!
「
そこで松下はようやく理解した。
そんなことしてまで助けて欲しいなんて頼んでいない。そう、紗織も自分に同じことを言ってくれたことを。
「じゃあ、私は、ずっと紗織に、こんなッ……!!」
そうか。こういうことなのか。
自分を助けるために、大切な人が傷付く苦しみとはこのようなものなのか。
そしてなにより、自分はこんな苦しみを、これまでずっと紗織に押し付けてきてしまっていたのか。
「希子ッ!!」
床に膝をつきながらそんなことを考えていると、横から紗織が抱きついてきた。彼女は苦しそうにしゃくりあげながら、赤く腫れぼったい目でただひたすらにこちらを見つめる。
「もうやめよう。もういいよ希子……、もうこれ以上、自分を責めるのはやめてよッ……!!」
その顔に浮かぶのは松下に対する心配のみで、自分の両親を奪ったことへの憎しみなどどこにもない。
「紗織……」
そうだ。あの紗織が今になっても自分のことを憎んでいるわけがない。
だというのに何故自分はそんなことに気付けなかったのだろう。いや違う。本当は気付いていたくせに、気付かないフリをしていたのだ。
かつての自分が犯してしまった過ち。
あの日紗織から両親を奪ってしまった永遠に消えることのない大罪。
その罪悪感を払拭したいがために、松下は紗織の心を勝手に自分の物差しで測り、その中身を自分にとって都合よく解釈してたのだ。
紗織を救うため、罪を償うため。
口ではそんな綺麗事をほざいておきながら、本当は自分こそが彼女に許され、救われたかったのである。
ああ、馬鹿だ。なんて自分は馬鹿なのだろう。
自分はただ紗織に笑っていて欲しかっただけなのに、ただその笑顔を失いたくないだけだったのに。
結局松下希子は隼志紗織を救うことは出来ず、それどころか結果的に彼女をここまで追いつめ、その頬を涙で濡らしてしまった。
馬鹿だ。
本当に、馬鹿だ。
「――――――――――――――――――ッ!!」
そうして松下は声をあげて泣いた。
胸の内から込み上げてくる感情を最早抑えることも出来ず、恥も外聞捨ててただひたすらに泣き狂った。
泣いて、泣き叫んで、そしてやがて泣き疲れて。
その間ずっと紗織は胸を貸してくれた。
まるで子を宥める母親のように頭を撫でてくれた。
そして彼女は、松下が泣き止むそのときまで、一緒に大きな声で泣いてくれた。
「うぅッ……ひっ……」
「大丈夫、希子?」
「うっ、はい、なんとか……」
やがて松下は溢れ出る涙をなんとか堪え、そのすっかり腫れぼったくなった顔を目の前の少年に向ける。
もう、松下希子では紗織を救うことは出来ない。
彼女を泣かせてしまった自分に最早そんな権利はない。
だからこそ松下はやんわりと紗織の元から離れると、樋田に向けて深く頭を下げた。
「先輩お願いします……一生のお願いです。私の代わりに、どうか紗織を救ってくださいッ……!!」
都合が良いことは分かっている。
一度目の前の少年が差し伸べてくれた救いの手を、自らのくだらないエゴのために払いのけたことを忘れてはいない。
だが、今度こそ他に手段がないのだ。
目の前の少年に縋り付く以外に、最早紗織の笑顔を守る術は存在しない。
だがしかし、そうして必死に懇願する松下に対し、樋田は彼女を馬鹿にするようにハッと鼻で笑うと、
「今更何言ってんだよ。俺はとっくに昔にテメェの親友を守るために力を貸すと約束したはずだぜ」
体中に抱える激痛を堪えながら、そうニッと笑って答えるのであった。
「先輩ッ……!!」
「……ったく本当めんどくせぇ奴だなテメェは」
その頼もしい言葉に、松下はようやく止めた涙が再び溢れ出してしまいそうであった。
嗚呼、この人なら大丈夫だ。
先輩はこんな最低な自分のことさえ救ってみせたのだ。ならば、紗織のことも必ず救い出してくれるに違いない。
少なくとも、今の松下はそう信じている。だからこそ――――、
「先輩」
彼の力に頼る以上、今回のケジメだけはきっちりとつけなければならない。
そうして松下は一度上げたその頭を、再び地面と擦れるほどに下げていく。
「御厚意感謝します。ですが、私が先輩を殺そうとしたことに違いはありません……言うまでもなく当然のことですが、私もそれ相応の罰は受けるつもりです……」
「えっ、希子――――」
「紗織は黙ってください」
途端に紗織は樋田と松下を交互に見てオロオロしだすが、これだけは譲れない。
そうして松下もゆっくりと目の前の少年の方へ視線を向ける。その瞬間、ただでさえ鋭い彼の目付きが更に凶悪さを増した。
「……まぁ、当たり前だよなあ。こんだけ全身ズタボロにしてくれたからには、それなりにケジメとってもらわねえと筋が通らねえわ。オラ、とっとと歯ァ食い縛れ」
こちらのことを救ってくれたとはいえ、やはりこの人の根っこは顔面通りのチンピラ気質だ。その短気で粗暴な性格は、まだ付き合いの浅い松下でもよく理解している。
今まで気の良い先輩みたいなノリで接していたから忘れていたが、この人改めて見ると本当に顔が凶悪すぎる。しかもそのただでさえ鬼のような顔の男が、額に血管をビキビキと浮かべつつ、手の骨をボキボキ鳴らしながら近づいて来るのだから恐ろしいことこの上ない。
それは同年代の女の子の中ではかなり気が強い松下が、思わずビビって目を瞑ってしまうほどである。
「よーし、いくぞオラァアアアアアアアッ!!」
然して、いつどつかれるのかと恐怖に震えること約二十秒。松下希子の左頬を唐突にパチリとビンタが襲う――――しかし、何故かそれはこれっぽっちも痛くない
「ちょっ、何ですか今のは……」
そうして不審に思った松下が思わず目を開けると――――、
「もおおおおおおおおおおおおお希子の馬鹿アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
そこには再び目を真っ赤に腫らしながら、ポカポカとこちらを猫パンチする紗織の姿があった。
「えっ、ちょちよちょ、何なんですか紗織ッ!!」
「何なんですかじゃなーいーッ!! 何で希子はそうやって何でもかんでも一人で背負いこもうとするのッ!? いっつもそう、昔からそう、ちっちゃい頃からずっとそうッ!! 確かに守ってくれるのは嬉しいけどさ、その間私がどれだけ心配してるかなんて希子は何にも知らないんでしょッ!? うぅ……馬鹿、希子の馬鹿アアアアアッ!?」
「こりゃなんなんですか先輩ッ!? ちょっと、ちゃん説明してくださいよッ!!」
やはりあのビンタも紗織のものだったのだろう。
つい先程まであんだけ制裁オーラを出してた細目チンピラは、俺関係ねぇしと言わんばかりに、二人から離れたところで何かTシャツ千切って止血とかしていた。
やがて彼は応急処置を終えると、うざったらしニヤニヤしながら松下の困惑に答え始める。
「悔しいが、どうやら俺の言葉じゃお前の心には響かねぇみてぇだからな。だから、お説教はお前が大大大だーい好きな愛しのサオリンヌさんにお任せすることにしたわ」
「いっ、愛しってッ!! べっ、べべべべべべべべべ別に私紗織のことをそんな性的な目で見たことなんて一度もないんですがッ!?」
「いや、そこまで言ってねぇよ。まぁ、いいわ。そんじゃあいい機会だししっかり怒られとけよ」
「ちょっと待ってくださいッ!! こんな状況作り出しておいて放置とか流石に鬼畜すぎやしませんかねえッ!!」
それだけ言い残して、さっさとその場を去ろうとする樋田に松下の喉が裂けかける。
しかし、そこで当の紗織は松下にプンスカ怒るのを一度やめると、何かを思い出したかのようにその背中に声をかけた。
「……貴方は、これからどこへ行くんですか?」
「ああ、俺か?」
そうして彼は一瞬僅かにこちらを振り向くと、
「君のヒーローをそこまで追い込みやがったクソ野郎共に用があってな」
そう言ってその鋭い四白眼に、ギロリと殺意の炎を灯すのであった。
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