第十五話 『主人公ごっこの終焉』
「……ウッ、グッ――――――ゲアッハッ!!」
意識の覚醒と同時に樋田の体を襲ったのは、息がつまるような圧迫感であった。いや違う、実際に息が詰まっているのだ。
それはまるで肺の中が水没でもしているかのような感覚。意識は未だハッキリせねど、間違いなく今自分が窒息しかけていることだけは分かる。
そこからはもう必死であった。
口の中に血が滲むのも気にせず、必死に嘔吐の真似を繰り返すこと約三十秒。ぬるりという粘着質な音と共に、ようやく飲んだ海水を全て吐き出すことに成功。途端に体がスーと軽くなり、胸の中で燻っていた焦燥感も消えていった。
「ハァ……ハァ……。クソッ、どこだここ」
ようやく辺りに注意を払う余裕が出来た時、少年の視界の先に広がっていたのは、気を失う前とほとんど変わらない鮮やかな夜の星空であった。
当然のように全身はずぶ濡れで、体中にまとわりつく砂と泥の感触がなんとも気持ち悪い。背中に感じる大地の圧力から、なんとなく自分が仰向けになっていることに気付く。
大方海に落ちた後、潮の流れに流されるがまま、どこかへ打ち上げられたとでもいったところだろう。
しかしそんな経緯は正直どうでもいい。今はただ
己が助かったという結果、ひいてはその幸運っぷりに拍手を送るのみであった。
「クッ、クッ、クッ……げひゃひゃひゃひゃひゃひゃひあああああゃッ!!」
今この瞬間も、樋田可成は生きている。
こうして当たり前のように心臓を動かし、呑気に息を吸って吐くことだって出来る。
あれほどまでに絶望的な状況からの生還、それをどうして喜ばずにいられよう。これほどまでに傷を負った自分を取り逃がした間抜けな簒奪王、それをどうして笑わずにいられよう。
確かに左耳は千切られたし、両腕の皮も剥がされたが、悪運のいいことに命だけは助かった。こんな酷い経験は二度と御免被るが、死ぬよりかはまだずっとマシだ。
――――あの状況から生還出来た理由はわからねぇが、死んでねぇならまだどうにでもなる。
筆坂晴の元まで辿り着き、その暴力に縋りつけば、この絶望的な状況もまだどうにかなるのだ。
樋田の日常の中に入り込んだ特大の
そう思えば、まだ頑張れる。
両腕を劈く激痛にも、鼻腔にこびりつく不快感にも、心焼く濃厚な絶望にだって耐えることが出来る。
「ギギッ……!!」
そんな情けないうめき声をあげながら、樋田はなんとかその場に身を起こす。ふやけて感覚のない体に鞭打って、なんとか両足を前後させていく。
そうして視線を上げてみれば、自然と周囲の様子も見えてくる。地平線の先まで続く東京湾に、人っ子一人いない夜の砂浜。そしてその背後に立ち並ぶのは、まるで壁のような高層ビル群だ。
初めは自分がどこにいるかも分からなかったが、こんなビーチまがいのモノがある場所など、この東京の中では限られている。恐らくはあの港から海を渡った先、お台場海浜公園の南側辺りだろうと適当に予想をつける。
そうして黙々と道を進んでいると、予想通りレインボーブリッジの前に出ることが出来た。自宅がある白金台まではまだ大分距離があるが、こんな傷だらけの身でも歩いていけない道のりではない。
「覚えてろよ簒奪王ッ……、この俺様をっ、この樋田可成様をコケにしやがったこと、必ず後悔させてやるッ……!!」
巨大な海峡をゆっくりと渡りながら、樋田は心底忌々しそうに独り言つ。左右に東京湾が広がる美しい光景も、今の彼の淀んだ瞳には映らなかった。
「何が簒奪王だッ、くっだらねぇ。晴にチクりゃテメェなんざ二秒で挽肉だっつーの……」
海水と血でぐちゃぐちゃになった体を引きずりながら、少年は死に物狂いで自宅を目指す。
幸い夜明けの時間帯ということもあってか、周囲に人影は少ない。加えてこの暗さでは仮に誰かに見られたとしても、両腕の傷までには気付かれないだろう。街で頑張るお巡りさんには悪いが、今更警察なんて呼ばれたところで、とても簒奪王相手に役に立つとは思えない。
それから約一時間。なんとか自室のあるマンションの前まで戻ってきた頃には、既に東の空は明るくなりかけていた。
たかが四階だ。最早エレベーターを待つ時間すら惜しい。樋田は最後の力を振り絞り、一気に階段を駆け上がる。そしてそのまま逃げるように自宅の中へと雪崩れ込んだ。
「へへっ……、どうだ、やってやったぜ俺ァッ!!」
扉を後ろ手に閉めて、ホッと一息。途端に気持ちが軽くなるが、まだ油断するわけにはいかない。最早自分は簒奪王の亡骸を見るまで、安心して暮らすことなど出来ないのだから。
「オイ晴ッ、さっさと出てこい晴ェッ!! 穀潰しに仕事をくれてやるッ。ようやくテメェのガサツさが役に立つ時が来たんだからなあッ!?」
とにかく晴だ。何はともあれ晴だ。
まるで見失った母親を求める幼子のように、樋田は必死にその名を呼び続ける。
「オイコラ、晴ッ。無視決め込んでんじゃねぇよ。いるんだろ……なぁッ!?」
しかしいくら大声を張り上げてみても、リビングの向こうから返事が返ってくることはなかった。よく見れば部屋に明かりは付いておらず、中に誰かがいるような気配もない。
「――ッ、つっかえねぇッ……!! この俺様の命がかかってんだぞッ。んな糞重要な時に一体どこ行きやがったあのエンジェルクソニートオオオッ!!」
樋田は思わず狂ったように壁に頭を叩きつけるが、今は癇癪を起こしている場合ではない。
天使がまだ帰っていないのは予想外だったが、例え彼女がいなくとも、しなくてはならないことは幾らでもある。
まず第一に傷の消毒、続いてその手当て。直ぐに水分も取らねば、脱水症状で病院送りになることだって考えられるだろう。
取り敢えず落ち着けと己に言い聞かせ、樋田は硬く両の奥歯を噛みしめる。何度も深呼吸を繰り返して、胸の中に溜まった熱を吐き出していく。
そうしてなんとか我に返った樋田は、一先ずは明かりをつけようとリビングの中へ足を踏み入れていく――――と、丁度そんな時であった。
「ぁ」
足の裏を包むぬちゃりとした感触に、樋田は思わず立ち止まる。
鼻腔を抉るような酷い匂いに、靴下越しでも伝わる気味の悪い生温かさ。ありえないと否定したくても、間違いなく
少年は知っている。樋田可成は知っている。この身を劈くようなおぞましい感覚の、その正体を知っている。
ようやく目が闇に慣れ始め、目の前の残酷な現実がうっすらと浮かび上がってくる。
床中に隈なく撒き散らされた赤黒く、そして生々しい粘着質の液体。それは間違いなく人間の
「ひっ」
思わず仰け反ろうとしてバランスを崩し、少年は反射的に傍の壁に手をつく。偶然そこにあったスイッチが押され、リビングに明かりが灯される。
夜の闇によって包み隠されていた赤と黒の惨劇。煌々と照る部屋の照明が、その全てを明らかにする。少年の頭を過った最悪な予想が現実のモノとなるまで、ものの数秒もかからなかった。
「はっ、晴……?」
そこにいたのは、いやそこに倒れていたのは、やはり己が見知った少女――――筆坂晴であった。
あの筆坂晴が、あのアロイゼ=シークレンズが、樋田を命の危機から救った隻翼の天使が、まるで物言わぬ死体のように血溜まりの中に沈んでいる。
彼女がその身に負った傷はなんとも酷く、そして凄惨なモノであった。その美しい左の翼は根元の辺りで引きちぎられており、ズタズタに引き裂かれた胴からは、今もおびただしい量の鮮血が溢れ出ている。
そこに樋田が憧れた凛とした美しさは最早欠片も無い。あれだけ頼もしく思った力強さも既に消え失せている。そして何より、ころころと忙しなく変わるあの豊かな表情が見当たらない。
自分勝手に喚き散らす晴も、そのくせ人並みの罪悪感を持っている晴も、樋田にとって生まれて初めて向けられた他者からの笑顔――――あのどこか子供っぽくも誇り高く微笑む彼女の姿も、もうそこにはない。
「アッ……、あぁッ……」
次から次へと湧き起こる訳の分からない感情が、胸の中を滅茶苦茶を焼き尽くしていく。目の前の現実を受け入れることが出来ず、樋田はただ狂ったように呻くことしか出来ない。
そこにいるのは筆坂晴ではない。光の消えた瞳で虚空を見つめるだけの――――ただの、ただの肉塊であった。
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