第十六話 『諦め逃げ出したその先に』



「――――ッ、嘘だろ」



 足がすくんで動かない。腰が抜けて思わず壁に手をついてしまう。瞬きも、そして息を吸うことすらも忘れ、樋田はただその場に立ち尽くしていた。

 しかし、目の前の惨劇はいつまでも少年にそんな呆然を許してはくれない。真っ白となった頭、何も考えられなくなった思考の中へ、嫌でも現実が染み込んでいく。


「オイッ……、オイ晴」


 血溜まりの中に沈む少女の肩を、樋田はおっかなびっくりに揺すってみる。しかし、当然のように何も反応は返ってこない。


「オイ、起きろよ……。つまんねぇ真似はやめろって」


 それでも諦めきれず、少年は天使の頬に手を回す。首元の血は既に黒く固まっており、そこから命の温度は全くもって感じられない。天使の体は最早氷のように冷たくなっていた。


「へへっ、ははっ……」


 やけに渇いた笑いが漏れる。

 胸の鼓動は高鳴り、息もたちまちに荒くなっていく。背中からは嫌な汗が吹き出し、惨めな手の震えを止める事が出来ない。


 樋田はその時、己の心が確かに泡立っていくのを感じていた。


 胸の奥底より湧き上がるどうしようもない焦燥感、喪失感、そして絶望感。それらは瞬く間に少年の精神の許容量を超え、そのまま濁流のように外へと溢れだす。

 冷静さを失った少年の頭では、最早押し寄せるパニックを抑え切ることは出来なかった。



「――――、起きろっつってんのが聞こえねぇのかあああああああああああああッ!!」



 意味が無い事は分かっている。それでも樋田は叫ばずにはいられなかった。理不尽に対する怒りと、どうしようもない無力感を、吐き出さずにはいられなかった。

 この胸を締め付ける苦しさの正体は一体何なのだろう。それすら分からないまま樋田は気でも狂ったように叫び散らす。少年の涙無き慟哭が、朧げな早天の中に虚しく轟いていく。


 しかし、そんな少年の絶望は直後、更なる衝撃によって塗り潰されることとなった。



「……、っなんだ、これ」



 血溜まりの中に沈む少女の死体。即ち晴の小さな体から、突如ホタルのような光の群れが溢れ出したのである。


 引きちぎれた翼の根元に、消えかけの青白い光輪。そして左半分が金色へと生え変わった瑞々しく長い髪。

 その全てが白く輝き、或いは水のように溶け、天使の体を徐々に優しく包み込んでいく。まるで光が血肉の代わりにでもなるかのように、彼女の凄惨な傷跡を瞬く間に埋め尽くされていく。


 それは正に奇跡、或いは祝福としか言い表しようがない光景であった。少年が二、三度瞬きを繰り返しているうちに、光は消え、翼や天輪もまた宙へと溶けていく。

 一連の奇跡の閉幕と共に、彼女の体は見慣れた人間らしい姿へと戻った。その身には最早ささくれ程度の小さな傷すらも残ってはいない。


「ッ、グッ、カハァッ……!!」


「はっ、晴ッ!!」


 身が跳ねる程の咳と共に、隻翼の天使が息を吹き返す。しかし安心したのも束の間、彼女の口元からは早々に新たな鮮血が滴り落ちていた。


 その肌に幼な子らしい瑞々しさは面影も無く、白と黄土を混ぜたような顔色は、それこそ死体のようですらあった。瞳の下には樋田以上の隈が刻み付けらており、唇を染める薄い紫色にゾッとしなかったと言えば嘘になる。


「……お前、それ生きてんのか?」


 不躾で不謹慎な質問であることは分かっている。少しは晴の身にもなってやれと自分でも思う。しかし、それでも樋田は彼女にそう投げかけずにはいられなかった。


「……ッ」


 話すのも辛いとばかりに眉をひそめる晴であったが、やがて苦痛も段々と落ち着いてきたのだろう。少女は普段通りにこちらを凛と見返し、ゆっくりと事実を確かめるように言葉を紡いでいく。


「……天使化した時の体は、あくまで『天骸アストラ』で作られた仮の肉体だからな。例え首を刎ねられ、臓物をぶちまけられようとも、生身の方が傷付けられなければ影響はない……。まぁ、こうして立て続けに『天使体』を破壊されていれば、流石に衰弱もするがな……」


 普段と変わらない長広舌を振るう晴であったが、彼女が無理をしているのは最早火を見るよりも明らかなことであった。


 一体何処の誰が、とは言わない。

 あのアロイゼ=シークレンズをここまで追い詰めることが出来得る存在など、樋田が知る限りではたった一人しかいないのだから。



「――――簒奪王か?」



 その一言で、晴の視線が一瞬硬直する。彼女はそこでようやく樋田の全身の傷に気付いたのか、心の底から忌々しそうに舌を打った。


「……チッ、どうやらキサマもワタシと似たような目にあったようだな。このアロイゼ=シークレンズとしたことが迂闊だった……まぁとりあえずは、よく生き残ったと褒めてやる」


「それじゃあ、やっぱテメェも……」


「ああ、そうだ。見ての通り見事なまでの惨敗っぷりであった。今のワタシでも相討ちぐらいには出来るかと思っていたのだが、やはりそう現実は甘くはないらしい」


 そう言ってヤケクソとばかりにカラカラと笑う天使であったが、樋田はとてもそんな気分にはなれなかった。

 筆坂晴に縋れば、それで全てどうにかなる――――何故己はそんな根拠の無い幻想を、当然の事のように信じ切っていただろうか。


 いや違う、きっと目を背けていたのだろう。


 筆坂晴は最強ではない、己をどんな外敵からも必ず守り抜いてくれる絶対的な守護者ではない。その事実を受け入れる事が恐ろしくて、無意識のうちに都合のいい妄想を深層心理の中に刷り込んでしまっていたのだ。


 精神を保つ為の最終防衛線、己の心の弱さが生み出した仮初めの希望はあまりにも呆気なく崩れさった。そして樋田自身もまたその場へ力無く膝をついてしまう。


「あの野郎はっ、一体何者なんだ……?」


 そんな樋田の至極当然な疑問に、晴は一瞬難しそうに顔を歪める。どこから話すべきか、そんなことを考えていそうな思案顔であった。



「……奴の尊名はワスター=ウィル=フォルカート。天界において元老げんろうに次ぐ指導的立場である卿天使きょうてんしの一人であった男……と言っても伝わらんか。そうだな、奴が天使へと昇華する前に名乗っていた肩書き、オスマン帝国第二十一代皇帝スルターンアフメト二世と言った方が理解しやすいか?」



 オスマン帝国。

 晴がその名を口にした途端、樋田は懸命に記憶の引き出しを探し回る。

 確か現在の中東に、中世から近代にかけてそんな名前の国家が存在したことぐらいならば知っている。だが、逆に言えばそれしか知らない。世界史に暗い樋田では、それ以上のことは何も分からなかった。


「知んねぇな、誰だそりゃ……?」


「ヤツの人間時代のことなどどうでもいい。問題はヤツが人から天使へと昇華し、天界に籍を置いてからのことだ」


 そう言って晴は記憶を確かめるように、一度目を伏せる。


「確か丁度ワタシが産まれた1871年の事だったか。奴は直属の上司にあたる鎮魂王を殺害し、その神権代行『未練の奴隷エターナルアクト』を奪って人間界へと堕天したと聞いている。ハッ、まさかそんな天界の大罪人が、こんなところでくだらん王様ごっこに興じていたとはな」


 晴はかつて言っていた。今この人間界には、天界より堕天した天使の多くが潜伏していると。

 あの時は軽く流していたが、その事実の重大さがようやく脳に染み込んだ気分であった。


「……そんなクソ野郎が、『燭陰ヂュイン』の力を手に入れて一体何をしようとしてやがる?」


 不安がそこに行きたくのは極自然なことである。しかし対する晴の返答はあっけからんとしたものであった。


「そんなことワタシが知るか。……まぁ、間違いなくロクなことには使われないだろうな。『燭陰ヂュインの瞳』は腐っても時間を操る強力な神権代行権だ。あの傲慢な男がそんなチートを手にして、好き勝手振舞わない道理はないだろう……」


 仕方があるまい。

 そう呆れたように呟くと、そのまま晴はおもむろに立ち上がる。きっと横になっていても未だ苦しいはずなのに、それでも天使は己の心身に鞭を打つのをやめようとはしなかった。


 相変わらず顔色は最悪で、足元もふらりふらりと頼りない。しかしそれでもその瞳だけは真っ直ぐに前だけを見据えている。

 例えどれだけ理不尽な目に遭い、どれだけ世界の悪意に晒されようとも、彼女の曇りなき対の群青か凛とした輝きが消え失せるはない。


 ああ、お前は変わらないな――――と、樋田は思わず悲しい笑みを浮かべそうになってしまう。


 普段は自分勝手なお姫様を気取っていても、やはり筆坂晴の根っこは明らかな善人だ。

 名すら知らぬ者にも躊躇無く手を差し伸べ、自分の命を危険に晒してでも悪に立ち向かおうとするその姿には、敬意を通り越して憧憬すら抱きそうになる。


 樋田は晴のそんな人間性が好きであった。彼女の誇り高い善性と、その決して折れぬ芯の強さが好きであった。


 しかし、今ばかりはその美しさが恐ろしい。その真っ直ぐな瞳で正義と高潔を突きつけられるのが、何よりも恐ろしいのである。



「やはり、倒さねばなるまいな」


 ――――勝てるわけがねぇ……。



 そんな晴の勇ましい言葉を、樋田は無意識のうちに心の中で否定していた。アロイゼ=シークレンズとワスター=ウィル=フォルカート。そのどちらにも等しく殺されかかった樋田には分かってしまう


 『天骸アストラ』の量と質、そして駆使出来る異能の数と破壊力、その全てにおいて簒奪王の方が明らかに上だ。双方の実力の差は歴然で、とても小細工で勝敗を覆せるようなレベルではない。


 奴と戦えば死は免れられないというのに、何故この天使は立ち上がろうとするのか。樋田にはそれが理解できなかった。


「……オイ、カセイ。何を惚けた顔をしている? キサマも見たであろう。目的は分からないが、今巷を騒がしている『吸魂事件』は、まず間違いなく簒奪王の仕業だ。このまま奴を放っておけば、必ずや数多くの罪無き者が犠牲となる」


 ここにいない簒奪王への怒りを込め、天使は心底忌々しげに奥歯を擦り合わせる。そうして彼女は再び真っ直ぐに樋田の瞳を見据えると、ハッキリとこう宣言したのであった。


「ワタシは奴の鬼畜にも劣る悪行を、それによって苦しむ人々の嘆きを、このまま黙って見過ごすことは出来ない……!!」


 そこで、「だから」と力強く区切り、



「――――ワタシと共に戦ってはくれないか、カセイ」



 予想通りの言葉だった。

 それはなんとも彼女らしい、筆坂晴らしい言葉であった。

 そこには戦いへの恐怖も、己が選んだ道への迷いも一切ない。そのどこまでも誠実な対の群青に、樋田は思わず口元を歪に歪めてしまう。



 ――――あぁ、鹿



 正義感に溢れ、善性に満ち、自己犠牲を厭わず、己の信念を通す彼女の生き様は確かに美しい。こんな生き方が自分にも出来たらと心から思う。だがしかし、樋田可成のような小者では、彼女の理想に応えることなど出来はしない。


 だから、彼は、こう吐き捨てざるを得なかった。



「……そんなモン、無理に決まってんだろッ」



 本当ならこんなことを言いたくはないのに、それでも思わず口をついた心からの本音。いつになく刺々しい樋田の声に、晴は意外そうに目を丸くする。しかし、それもほんの一瞬のことであった。


「……頼む。ワタシの実力では簒奪王に対抗することは出来ない。キサマが持つ『燭陰ヂュインの瞳』の力が、奴を打倒する為には必要なのだ」


「だからっ、無理だっつってんだろッ!! それで俺が死んじまったらどうすんだ、テメェは責任とってくれんのかよ? ハハッ、とれねぇよなぁ……、死んじまったらそれで全部終わりだもんなあッ!?」


「……おっ、おいカセイ。いきなりどうしたんだ?」


 自分でも驚くほどに強い、責めるような口調になってしまっていたことに気付く。

 人が変わったように喚き散らす樋田に対し、晴は思わずと言った具合に半歩後ずさる。恐らく彼女は、今の樋田の言動を意外なモノだとでも思っているのだろう。


 だがしかし、樋田は別に豹変などしていない。

 晴と出会ったときから、いやこの世界に生を受けたその瞬間から、己の本質は一度も変わってなどいない。


 勇気も信念も覚悟も何も無く、自己保身の為に他人を平気で見捨てる陰湿な卑劣漢。それが樋田可成という男の本来の姿なのだから。


「へへっ、そう、だよな……。当たり前だよなあッ!! 態々他人の為に命張るなんざ馬鹿のすることだぜェッ!! ハッ、ちょっと優しくしたくらいで馬鹿みたいに勘違いしやがって……悪りぃが俺はテメェが望んでいるようなメサコン野郎じゃねぇんだよおおッ!!」


 それはもういっそ清々しいとすら思えるほどの開き直りであった。そんな樋田に晴は信じられないものでも見るかのように瞳を丸くする。


「……本当にどうしたんだカセイ。何故だ、オマエはそんなに弱い人間じゃないはずだろう……?」


「たかが一日の付き合いで、知ったような口聞いてんじゃねぇええッ!! 俺がそんな出来た人間に見えたか、そんな芯の通った人間に見えたか? そんなモンはまやかしだ。嘘と虚勢で塗り固められた偽りの姿にすぎねぇんだよ……そりゃ俺だって、あのクソ野郎をどうにかしてやりてぇとは思ってる。だがな、この世の誰も彼もがテメェみたいに強く生きられるわけじゃあねぇんだよ……」


 そんな樋田の最後の一言に、晴はハッと我に返ったかのように瞳を見開く。そしてそのまま強く唇を噛み締めると、彼女はそれきり下を向いて黙り込んでしまった。

 物憂げに俯いた少女が、今どんな顔をしているのかはわからない。されどそんな彼女の変化に気付けるほどの余裕は、今の樋田には最早存在しなかった。


「ハハッ、本当バカだよなぁ。俺はテメェに命を助けられた時、つい思っちまったんだよ。あぁ、こんな強い人間になりたいな、俺もこんな風に生きることが出来たらテメェのことを嫌いにならずにも済むのかなってなッ!! ……だが、その結果がこれだ。結局俺には無理だったッ!! 例えどれだけ自分を変えたいと思っても、どれだけ理想を貫こうとしても、最後の最後には自分の身が可愛くなっちまう。所詮俺はその程度の人間なんだよ……!!」


 ただでさえ陰気臭いその凶相を、更に醜く歪めながら樋田は喚き散らす。その一方的で独りよがりな告白は、まるで自分の弱さを正当化し誤魔化しているかのようであった。


 簒奪王によって刻まれた死への恐怖が、少年から理性と余裕を奪い取り、その醜い本性を白日の下へと引きずり出す。最早抑えようと思っても抑えられない。胸の底に隠していたドス黒い感情が、勝手に暴言となって口から飛び出していく。


「クソッ……、テメェのせいで全部滅茶苦茶だ。テメェとさえ関わらなきゃ、俺はこんなにも苦しまずに済んだんだ。こうして耳を削がれることも、腕の皮を剥がれることもなかったんだよッ!! あの日テメェを見殺しにしてりゃあ良かったって、今ならハッキリとそう言えるぜ俺ァッ!! 」


 人として決して口に出してはいけないことだというのは分かっている。それでも八つ当たりとも取れる憎悪の言葉が止まらない。一時的な激情によって、彼女への全ての感情が黒く、そして醜く塗り潰されてく。

 何故己がこれほどまでに辛い目に合わなければならない。何故己が死の恐怖に震えなければならない。

 そんなドス黒い怨嗟の濁流の果てに、少年は最終的に最も彼らしい最低の選択肢へと行き着いた。



 ――――そうだ、見捨てちまえばいいじゃねぇか……。



 このまま晴を簒奪王にけしかけ、己は何事もなかったかのように日常の中へと戻る。彼女が勝てばそれはそれで丸く収まるし、別に敗死したところで構いはしない。

 あの天使は、簒奪王は言っていたではないか。『燭陰ヂュインの瞳』さえ手に入れてしまえば樋田可成の命自体に興味は無いと。


 現在神権代行は樋田の身に宿ってしまっているが、この事態は晴でも予想し得ない程のイレギュラーなのだ。人助けなんて余計なことはせず、一人で黙って大人しくしていれば、こちらが睨まれることなどあるはずもない。


 ――――あぁ、なんだ。別に端から慌てるこたぁねぇじゃねぇか……。


 この隻翼の天使さえ排除出来れば、それで全てが元通りになる。退屈な代わりに苦しみも痛みも存在しない、あの平和で平穏な毎日を取り戻すことが出来る。


 あぁ、それは何と醜く己らしい思考回路。そして何と明るく素晴らしい未来であることか。


 そんな最低な選択を選ぶことに抵抗が無いと言ったら嘘になる。それでも樋田可成という人間は、晴や顔も知らない多くの人々の命よりも、己が身の安全を優先する。その情けなさだけは、どんなことがあっても変わりはしない。


 そう、答えなど最初から既に決まっていたのだ。



「――――そんなに死にてぇなら、一人で勝手に殺されてくりゃいいじゃねぇか……。テメェの綺麗事に、この俺を巻き込むんじゃねええええええええええええッ!!」



 それはとても絶句などという生易しいものではない。

 時が止まった。

 思わずそんなことを思ってしまうほどの静寂が、両者の間を包み込む。


 これだけ汚い本性を見せつけてやれば、きっと晴は心の底から樋田を軽蔑するだろう。最低だ、屑だと散々に罵ったあと、向こうの方から縁を切ってくるに違いない。


 だが、それでいいのだ。そうすればきっと、この胸の中で微かに引っかかっている馬鹿げた未練を、完全に振り払うことが出来るのだから。

 結局ただ晴を見殺しにする覚悟もなく、そのきっかけすら彼女に押し付けている自分の醜さに思わず笑いそうになる。


 しかしそんな樋田の予想に反し、晴から返ってきたのは意外な言葉であった。



「そう、だな……」



 あれだけ罵倒され、侮辱され、理不尽を押し付けられたにも関わらず、晴は怒るわけでも軽蔑するわけでもなく、ただ曖昧に微笑んでいた。それはまるでどこか申し訳なさそうな、そしてまるで何かを諦めたような、そんな悲しい笑みであった。


 ――――オイッ、何、納得したみたいな顔してんだテメェ……。


 何故だ、何故この局面で笑う。何故怒らない、何故そんな悲しそうな顔をする。樋田には彼女の笑顔の意味が理解出来なかった。


「……色々と迷惑をかけて済まなかったな、カセイ。ワタシの事はもう一切忘れてくれて構わない。もう充分だ。キサマがいなければワタシは昨夜、あの汚い路地裏で野垂れ死んでいても何もおかしくはなかったのだからな」


「テメェ、何言って……?」


「だからそんな辛そうな顔で自分を責めるのはやめてくれ。命が惜しい、人間らしくて立派な考えではないか。オマエは悪くない――――そう、これは仕方のないことなんだ」


「――――ッ!!!!!」


 その言葉に樋田は胸が張り裂けるような息苦しさを感じる。歯を食いしばり過ぎて血が滲み、体の中心が自分でも驚くほどに熱くなっていく。


 ――――何故だ、何故責めない、何故俺を突き放さないッ。そうすれば俺はなんの罪悪感も無しに、これからものうのうと生きていられるのにッ……!!


 爪が食い込むほどに拳を握り締める樋田の横を、晴はゆっくりと通り過ぎていく。そして彼女は丁度玄関に差し掛かったところで、


「だから、最後に一つだけ聞いてくれ」


 どこか名残惜しそうな声でそっと囁いた。



 ――――やめろ……、それを聞いたら、それを聞いちまったら、きっと俺は。



 手足の震えが止まらない。そんな言葉は聞きたくないと心が叫ぶ。それでも彼女は、筆坂晴は最後にそっと、こう付け加えた。



「楽しかったぞ」



 時間に換算してたったの一八時間。決して長くはなくとも濃密であった晴との時間が、その一言で走馬灯のように頭の中を駆け巡る。


 そこには樋田を命懸けで助けてくれた晴がいた。

 そこにはまるで太陽のように微笑む晴がいた。

 そこには己を一人の人間として頼ってくれる晴がいた。

 普段は傲慢を装ってる癖に、結局は気のいい優しさを隠しきれない。そんな甘くて隙だらけで不器用な女の子、筆坂晴がそこにはいた――――と、そこまで考えて、樋田は血が滲まんばかりに強く唇を噛みしめる。

 まるで己が胸に抱える大切な思い出の数々を、無理矢理にでも忘れようとでもするかのように。


 ダメだ。このまま彼女と言葉を交わしていれば、きっと自分は馬鹿なことを考える。この高潔で真っ直ぐで誰よりも美しい天使のことを、どうしても諦められなくなってしまうだろう。


「クソッタレが……!!」


 ここで一歩を踏み出すことが出来れば、それは一体どれだけ楽なことだろう。ここで彼女と手を取り合うことが出来れば、それは一体どれだけカッコいいことだろう。されど、そんな偽善の先に待つのは、確定された己の死だけだ。


 ――――それでも、それでも俺は……、お前みたいには生きられねぇ……!!


 樋田可成は弱い人間だ。理想の為に傷つく覚悟も、大切な人間の為に命を賭ける勇気もない。だから、心にへばりつくこのクソッタレな未練は、自らの手で切り離すしかない。


 生まれて初めて向けられた他者からの笑顔。

 あれだけ憧れ続け、焦がれ続け、ようやく手に入れたかもしれない他者との繋がり。それを樋田は自分の手で破壊し、そして切り捨てるしかないのだ。


 その時、その瞬間、樋田可成は現実に屈服し、身の程知らずの理想を諦めた。

 全てを諦め放り出し、そして逃げ出したのだ。



「――――ッ、出ていけえええええええええええええええええええええええええッ!!」



 反射的に手が伸びたのは机の上、樋田はそこにあった鋏を掴み取ると、癇癪に任せるがまま晴の顔に投げつける。

 ピッ、という肉を裂く鋭い音。それは天使の頬を浅く切り、その肌に一筋の赤を滲ませる。



「――――気は、晴れたか?」



 晴はその大きな瞳を細めながら、またあの悲しそうな笑みを曖昧に浮かべていた。


「今すぐ……」


 それだけで、ただそれだけで、自分へのどうしようもない嫌悪感に押し潰されそうになる。

 嫌だ、もう無理だ。こんな醜い己の本性を、彼女の高潔な瞳の前に晒すことに、樋田は最早耐えることが出来なかった。



「今すぐ俺の前から消え失せろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」



 その一言が天使と少年の離別を決定付けた。


 晴は最早何も言わなかった。

 彼女はその大きな瞳を細めると、どこか悲しそうにフッと笑う。そしてそのまま衰弱しきった体を引きずり、黙って部屋の外へと出て行った。


 扉が閉まる音、廊下に響く頼りない足音。その全てが未練がましく樋田の後ろ髪を引く。しかしそれもほんの一瞬のことであった。

 やがて晴の名残は完全に消え失せ、部屋には静寂と一人の人でなしだけが取り残されることとなる。



「――――畜、生……ッ。仕方ねぇだろ、俺にどうしろってんだよおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」



 そういくら喚き、暴れ、叫び、嘆いたところで、天は何も答えを返してはくれない。

 至極当然のことだ。いくら状況に強制されたと言い訳しても、この選択を実際に選んだのは醜い己自身であることに変わりはないのだから。



「クソがッ……、今度こそ変わりたいって……、強くなりたいって、そうほざいてたじゃねぇか……!!」



 されど、そんな夢が叶うことは最早ない。


 その日、樋田可成が被っていた偽りの仮面は、彼自身の手によって粉々に砕けちった。彼が思い描いていた身の程知らずの理想は、跡形もなく霧散した。


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