第十四話 『狐は虎にはなれない』


「小さき者よ、この簒奪王さんだつおうの興を殺いだ罪は重いぞ」


 男が纏う軍服は煌びやかなものである。しかし、そこに無理に着飾ったような見苦しさは一切無い。

 仮に威厳という概念が具現化したならば、きっとこのような姿をしているのだろう。思わずそんなことを思ってしまうほどに、『簒奪王』を名乗る男の立ち姿は支配者の風格に満ち溢れていた。


 その重圧に、樋田はなすすべもなく圧倒されてしまう。それは一瞬が永遠にすら感じられる極度の緊張状態であった。

 やがて硬直していた思考も徐々に流動性を取り戻し、彼はようやく自らの置かれた絶望的な状況を認識する。


 ――――コイツがあの首無し共の親玉ってわけかッ……!?


 理路整然と立ち並ぶ数十の首無し達。そして、彼等の先頭で悠然と佇む老紳士。こんないかにもな構図を見せ付けられれば、樋田もそれぐらいのことはすぐに予想出来る。

 問題は何故この老人が、ただの半グレに過ぎない樋田の前に現れたかということであるが――――残念なことに、そこに関しては致命的な心当たりがある。


「フン、恐怖のあまり口も開けぬか。まぁ、良い。余の卿に対する興味も既に尽きていることであるしな」


 王はそうつまらなそうに吐き捨てると、おもむろに中折れ帽子を深く被り直す。それはまるで何か重大な何かを言う前に、身嗜みを整える仕草のようであった。


「御託は要らぬ。よって率直に命じよう」


 そして王はその紅色の瞳で樋田を睨みつけると、深く重い玉音を以ってこう告げたのであった。



「アロイゼ=シークレンズ。彼の者が天界より持ち出した神権代行権、『燭陰ヂュインの瞳』を余に献上せよ」



 世界から音が消えたような沈黙の後、樋田は生唾と共にその言葉の意味をゴクリと飲み込んだ。彼の動揺を表すかのように、嫌な汗が額から頰をつぅと伝う。


 やはり予想通りであった。

 樋田が天使だの異能だのといった諍いに巻き込まれるなど、この左目に宿る『燭陰の瞳』絡みであるとしか考えられない。

 指名手配犯である晴の立ち位置を鑑みれば、さしずめこの男は天界からの刺客とでもいったところであろうか。


「フッ、小人しょうじんよ。そう恐れずとも良い。別にとって喰おうというわけではないのだ。シークレンズの身柄を引き渡しさえすれば、卿の身の安全は保証してやってもよかろう」


「俺には、興味がねぇだと……?」


 まるで試すような物言いの簒奪王に対し、樋田は自分にしか聞こえない声量でぼそりと呟く。

 この男の言うことはおかしい。コイツの狙いが『燭陰の瞳』にあるのならば、真っ先に持ち主である樋田を抑えるべきなのだから。


 ――――流石にあの日あの部屋で何が起きたかってことまでは、天界の連中も知らねえってわけか……。


 恐らくこの老紳士は、『燭陰ヂュインの瞳』の力が晴から樋田に移動したことを知らないのだろう。

 我ながら最悪な考えだとは思うが、敵の狙いが自分でなく、あくまで晴であることに安堵しなかったと言えば嘘になる。


「……小人らしく策を弄するのは構わないが、まさかこの簒奪王につまらぬ嘘はつくまいな。余はこうして卿の目の前に姿を現した。その事実の意味するところが理解出来ぬ訳ではないだろう」


 不自然な沈黙を続ける樋田に痺れを切らしたのか、漆黒の老人は俄かに釘をさしてくる。その声色に怒気が混ざり始めたのは、きっとただの気のせいではない。


 ――――どんなタネがあるかは知らねぇが、端から居場所は割れてるってことか……。


 最初から期待はしていなかったが、やはり小細工が通用する相手ではないようだ。

 これだけ周囲を囲まれてしまえば逃走は不可能。加えて得意の二枚舌も封じられたとなれば、最早樋田にこの場を無事に切り抜ける方法はない。


 いや、実を言うと一つだけある。


 だが、それだけはダメだ。

 仮にそんな卑劣な手段を自らに許したが最後、樋田はもう二度と自分という存在に希望を見出せなくなってしまうだろう。


 ――――ありえねえよ。流石の俺もそこまでクズになれるかっつんだ。


 一瞬頭の中をよぎった最低で最悪な一つの方策、少年はそれを忘れようと硬く唇を噛み締める。ちょうど、その瞬間であった。



「……卿は何を躊躇しているのだ?」


「――――ッ!!」



 ふと我に返ると、簒奪王はいつの間にか樋田の目の前、息がかかるほどの至近距離に佇んでいた。思わず呆気にとられる少年を無視して、老人はその整った顔をゆるりと近づけてくる。


「小人よ、己が本性に正直になり給え」


「……なっ、何が言いてぇッ」


「本当は卿も分かっているのだろう。人にはそれぞれ弁えるべき分というものがある。つまりだ。無理に己を美しく見せようとするのはよせと言っているのだ」


「だから……さっきから訳わかんねぇことぬかしてんじゃ」



「――――早く、あの女を差し出して楽になってしまいたい」



 まるで日常会話でもするかのように、軽い調子で告げられた王の一言。されどその瞬間、樋田の体の芯には電撃じみた衝撃が駆け抜けていた。


「ちがっ……!!」


 慌てて言い返そうとするがうまく言葉が出ない。

 それほどまでに今この瞬間、樋田は動揺してしまっているのである。

 それは己が心を見透かされたことに対する怒りか、或いは目を背けていた醜い自分を直視させられたことに対する不快感か。いや、きっとその両方なのだろう。


「確かに、そう思ったのではないか?」


「ハッ、ハァ? んなことあるわけねぇだろ。いくら俺でも、そんな糞みてぇな真似するくらいなら……」


「いや違わないな。卿は元より斯様に殊勝なことを申せる人間ではないだろう? そうだな。別に証拠というわけではないが、シークレンズを引き渡せば命は助ける。そう余が告げた時――――」


 そう言って簒奪王は俄かに、自らの口元を指差すと、



「卿は確かにぞ」


「なッ……!?」



 思わず右手で口元をなぞる。

 いや、違う。ありえない。コイツが言っているのはくだらない嘘に決まっている。

 だってその言葉が仮に本当ならば、樋田は晴を見捨て自分だけが生き残る道を、一つの選択として受け入れていたことになってしまうではないか。


「……てっ、適当ほざいてんじゃねぇぞコラッ」


「この簒奪王が態々そんな姑息な手を使うとでも? 人の人間性などその瞳を見れば大体のことは見通せるものだ。余は卿の瞳の中に狐を見た。それは愛を知らず、勇気を知らず、臆病かつ狡猾で、自身の身の安全のためならば、平気で他者を見殺しにも出来る卑劣漢の瞳である」


「うるせえッ……」


「余が何故このような回りくどい交渉を持ちかけた理由が分かるか? 当然、それは最初から確信していたからだ。卿のように醜い心を持つ小人ならば、間違いなくシークレンズを見捨て、己が保身のために良い働きをしてくれるとな」


 そう謳うように言いながら、簒奪王は更に顔を近づけてくる。そして少年の耳元、その息がかかる距離で、最後にこう告げたのであった。



「甘えるなよ小人。卿のような何もが、何かをなせるはずがないであろう」


「――――――――――――ッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」



 その瞬間、少年の頭から理性が消し飛んだ。

 身を焼くような憤怒の炎が燃え滾り、怒り以外の全ての感情を呑み込み焼き尽くす。


 抗え、逆らえ、決してその言葉を受け入れるな。

 ここで恐怖に屈してしまえば、それこそ自分が簒奪王の言う通りの人間であることの証明になってしまう。


 だからこそ怒るのだ樋田可成。

 そんな戯言は、妄言は、己が激情を持って否定するしかない。



「――――ッ、勝手に、この俺のことを決めつけんじゃねぇええええええええええええッッッ!!!!!!!!!」



 それは獣の雄叫びの如き大喝であった。

 樋田は突如バネのように跳ね起きると、隠し持っていたナイフを老紳士の首根っこめがけて突き上げる。


「死ねやゴラァアアアアッ!!」


 大振りな刃が簒奪王の喉笛に深く突き刺さる。

 真っ赤な鮮血によって瞬く間に染め上げられる老人の白い肌。刺突の瞬間思わず目をつぶってしまったが、そこには確かな手応えがあった。


「んなこたぁ最初から分かってんだよ。いくら日の下にいる奴等に憧れて、その猿真似をしたところで、結局テメェは陰湿な小者にしかなれねぇってことぐれえなッ……!!」


 何故、自分は今この瞬間これほどまでに激昂したのだろう。あまり認めたくはないが、やはりそれは王の言葉が図星であったからだ。

 樋田可成は確かに自他共に認める正真正銘のクズだ。晴を見捨ててしまえば楽になれると、一瞬そう思ってしまったのも紛れもない事実である。


「だがな……それでその小者が、他人のために命を張らねえ理由にはならねえだろうがアッ!!」


 だが、それがなんだ。

 晴を差し出して、テメェだけは生き残ろうとする。そんな自己愛にまみれたクソ選択肢は、ここで完全に駆逐してやる。

 自分に失望するのは、もうとうの昔に飽きた。人はいつだって変わることが出来る生き物なのだと、このヒトモドキの頭の中に叩き込んでやろうではないか。



「ヴラァァアアアアアアアアアアアアアッッ!! とっと死晒せ糞野郎オオオオオオオおおおおおおおオオオオオオッ!!」



 縦に刺した刃を横向きにし、そのまま一気に首を掻っ切りにかかる。

 いくら天使といえども所詮は生物、生き物である以上は殺すことが出来る。このまま胴と頭を切り離してしまえば、そのままこの老紳士が天に召されるのは必定であろう。



「――――そうか、醜い狐の身でありながら敢えて気高い虎を騙るか。フン、誇りに思え。卿はこの簒奪王の予想を超えたのだからな」


「な……ッ!?!?」



 しかしそんな樋田の甘い希望は直ぐに断ち切られることとなった。

 首根っこを滅茶苦茶に切り開かれたというのに、王の表情に苦悶の色が滲むことはない。それどころか、その声色には明らかな余裕の感情すら感じられる。


天骸アストラ抽出完了、第三聖創『覚醒細胞イモータル 』」


 そんな聞き覚えのない文言の直後、簒奪王の傷跡からまるで泉のように血肉が溢れ出した。

 それらは生き物のようにギュルリと蠢き、首に刺さったナイフの刀身を一瞬で包み込む。そのあまりにも異様な光景を前に、樋田は思わず得物から手を放してしまっていた。


「再生……だとッ、肉団子の特権じゃねぇのかッ!?」


「むしろその逆だ。此奴らは余から聖創を一時的に下賜されているだけに過ぎぬ。そもそも臣下風情に出来得ることが、この王に出来ぬはずがないであろう」


 まるで首という口が肉という舌を以って咀嚼するかの如く、ナイフはあっという間に簒奪王の体の中へと引きずり込まれていく。

 その上から更に血肉を塗りたくれば、それで首の傷は何事もなかったかのように消え失せてしまう。


「クソッ、理不尽も大概にしやがれッ……!!」


 ダメだ。やはり樋田可成ではこの男を倒すことは出来ない。

 ならばどうする? そう脳が新たな策を求めて暴れ回るが、そんな小細工が意味をなす段階はとうに通り過ぎている。


 交渉は既に決裂してしまったのだ。

 今これから始まるのは、強者による弱者への一方的な命の弄びレクリエーションに過ぎない。


「フン、卿の命になど使い道は一切無いが……、その醜い本性を引き出してみるのも、また一興であるか」


 まるで氷のように冷たい冷酷な声。

 そうして簒奪王が軽快に指を鳴らしたその直後であった。



「――――――――ッ、ぐわあああああああああああああああああああッ!!!!!!!!!??????」



 樋田は冗談抜きで、目の前にが発生したのかと思った。


 思わず膝をつきそうになるほどの重圧に、視界の一切を埋め尽くす赤い光の嵐。

 港の向こう側では岬がひしゃげ、貨物船の群れが無残に捻れていく――――いや、違う。あまりにも濃厚で膨大な『天骸』、それが内包する全知全能によって、世界がまるで蜃気楼にでもかかったかのように歪んで見えるのだ。


「『天骸』抽出完了。神話再現術式多重展開。第一聖創『霊の剣エル=ミラ』」


 簒奪王の声に合わせ、周囲の肉塊が一斉に金属音じみた悲鳴をあげる。しかし、そんな歪な大合唱が繰り広げられるなか、樋田は吹き飛ばされまいと踏ん張るので精一杯であった。


 今すぐこの場から逃げ出さねば死ぬ。

 そう本能が必死に叫んでるというのに、それに抗うことさえも許されない。そして樋田可成を死へと誘う鎮魂歌レクイエムは、遂にその終焉のときを迎えた。


「臣下よ集え。凱歌を募れ。この簒奪王の名の下に、我が敢為邁往の覇道を翼賛せよ」


 それ自体は決して目では見えないはずなのに、樋田はその攻撃の正体を半ば直感で感じ取っていた。

 己はこの術式を知っている。この術式が纏う『天骸』の感覚を感じたことがある。そして何より、この術式の恐ろしい破壊力を既に味わったことがある。



「唸れ、霊視の刃――――『聖句サルク=イン唱歌=エフェソス』」



 簒奪王の手元が青白く煌煌と輝く。

 その右腕より蹂躙の術式が振るわれる。

 そのさまはまるで、百を超える鎌鼬の群れが一斉に走り抜けたかのようであった。


 ガガガガガガガガガガガガッ!! と、王の手元より降って湧いた不可視の刃の嵐が、滅茶苦茶に地面を、或いは壁を、或いは周囲の全てを抉り散らしながら、樋田へ向かって真っ直ぐに突っ込んでくる。

 一片が十メートルにも及ぶ巨大な暴力の塊。こちらへと瞬く間に迫るその速度は、もしかしたら走行中の電車よりも速いかもしれない。


 押し寄せる重圧、迫り来る斬撃。瞬く間に差し迫る直撃までの時間。そして世界から音も色も全てが消し去ったその刹那、巨大な刃の嵐が樋田の全身という全身を滅茶苦茶に引き裂いた。


「があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」


 つむじから爪先まで、体のありとあらゆる箇所を余さずに這い回る不可視の斬撃。少し遅れて激痛が爆散し、続いて鮮血が樋田の全身を真っ赤に染め上げる。されど、


 ――――し、死んでねぇだと……?


 こんな一撃を喰らえば絶対に助からない、確実に即死すると樋田は確信していた。されど刃の嵐が後方へ突き抜け、派手な爆発音と共に霧散した後も、樋田の心臓は相も変わらずに動き続けている。


 確かにズキズキと痛みが体中を這いずり回ってはいるが、それでも斬撃が通されたのはあくまで身体の表面だけなのだ。命に関わるような急所まで、その不可視の刃は一切届いていない。


 見た目が派手なだけで実はそれほど威力はないのか、或いは単に狙いを外したのか。いや、きっとそのどちらも違うだろう。

 理由は分からないが、明らかに手心を加えられたとしか思えなかった。


「アァ……?」


 そうして肉を裂く痛みに気を取られていたからか、樋田は背後より忍び寄る二つの影に全く気付くことができなかった。

 いつの間に近付いていたのか、突如二体の『顔の無い男』が樋田の両肩を力任せに押さえつける。慌てて飛びのこうとしてももう遅い。彼等は斬撃によって捲れ上がった樋田の両腕の皮膚を掴み取ると、


「――――オイ、待て冗談ッ」


 何のためらいもなく、そして何の躊躇もなく、そのまま力任せに体から引き剥がしたのである。



「ギッ、グッ、ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」



 その痛みは最早激痛なんて言葉で済ませられるレベルではなかった。思わず死んでしまいたいと思う程の爆痛に、少年は一瞬意識が吹っ飛びかける。


 肩口から肘に至るまでの皮膚がまとめて消失し、代わりにその下から生々しい肉と脂肪とが顔を出す。

 そこに見えるのはやけに鮮やかな赤の塊と、肉の中に散らばる醜い白の水玉だ。その醜怪な様を一目見ただけで、忽ちに口の中が酸っぱさでいっぱいになる。


 ――――ァッ、あァ……ァあっあア。


 激痛のあまり感覚が麻痺したのか、全身がピクピクと気味悪く痙攣し始める。

 それはまるで陸に上げられた魚、或いは半身を潰された蛆虫のように、惨めで情けない姿であった。


 王に立ち向かうために燃え上がらせた闘志など、最早欠片も残っていない。しかし、樋田の精神が順調に発狂へと誘われるなか、簒奪王の暴挙は更に加速する。


「憐れ、であるな小人よ。可哀想に、血も肉もまるで足りていないようではないか」


 簒奪王はそう謳うように言うと、傍にいた首無しの身体の一部を無理矢理に引き千切る。そして一体何を思ったか、その酷い悪臭のする肉塊を、容赦無く樋田の口の中へとぶち込んできた。


「然らば、これを賜わそう」

「――――ッ、ゥブッ!!!!!」


 糞のような粘着質と、腐敗臭を纏った不快の塊が、少年の口の中を滅茶苦茶に穢し、汚し、犯していく。

 鼻の奥を悪臭が突き抜け、喉の中で吐瀉物と肉塊がぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。気持ち悪い気持ち悪い、気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い――――。


「虚栄心によく効く妙薬だと聞く。どうだ、これで少しは本性を曝せ出せるようにはなったか?」


「ゲヒャアッ!!」


 簒奪王の腕力が僅かに緩むと同時、樋田は胃の中身と共に肉塊を吐き出した。続いて、それが何であるかも分からない最悪な液体が、ぐちゅりと汚らしく唇を伝う。


「うっ……、あっ……」


 多少は気が楽になったが、それでも粘ついた不快感が喉の奥にこびりついて離れなかった。加えて身を焼くような激痛も、未だ激しく全身を侵し続けている。

 そして何より恐怖が、底無しの絶望を伴う体の震えが止まらなかった。


 激痛に不快感、そして恐怖と絶望。

 それぞれが一級品の鋭さをもって、樋田の未熟な精神を滅茶苦茶に輪姦し尽くす。

 そのあまりにむごく、そしてあまりにも苛烈な仕打ちの数々。未だ齢十七の少年の心を殺すに、それらは充分すぎるほどの地獄であった。


 壊れていく。

 樋田可成の心の中で、人としての尊厳が音を立てて崩れていく。

 そうして遂に少年の精神は、悲しくも発狂の時を迎えることと相成った。



「アッ……うっ、グギッ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!!!」



 途端、樋田はまるで狂ったようにその場から逃げ出そうとした。

 視界は朧げで、正直意識すら薄ぼんやりとしている。当然走ることなど不可能で、逃げると言っても虫けらのように地を這うことしか出来ない。それでも彼はこの怪人から少しでも距離を置こうと、無意味でがむしゃらな敗走をやめようとはしない。

 そこに思考はなかった。そもそも壊れた心から正常な感情が出力されるはずもない。ただ死にたくないという原始的な本能、即ち生への執着だけが、彼の体を無理矢理に突き動かし続けていた。


「フンッ、黙って従っておれば良かったものを中途半端に色を出しおって……あまり気は進まぬが、やはりこの余が直々にシークレンズの下へと赴くしかあるまい」


 そんなつまらなそうな王の言葉も、樋田の耳には最早届いていなかった。


 そのまま血と汗でグチャグチャになった体を引きずっていると、突如その身にかかっていた重力が頭の方から消失する。

 一瞬気味の悪い浮遊感に襲われ、直後全身を包み込んだのは、肌を突き刺すような冷たい水の感覚だ。

 冷静に考えれば、港の中を闇雲に這ううちに、いつの間にか岸を乗り越え、海に落ちてしまったのだと思い至るだろう。

 しかし、今の樋田にはそんな簡単なことに気付くだけの知性も残ってはいなかった。


「あぁ、それも一応回収しておけ。いくら元が愚物とは言えども、首が取れれば、等しく余の臣下として遇するゆえな」


 既に興味は失せたとばかりに、冷たい溜息を吐く簒奪王。

 そんな冷酷な一言に従い、突如何かが樋田の背中と首元を凄まじい力で鷲掴みにする。その手から逃れようと抵抗しようにも、最早この体は指の一本たりとも動かすことはできなかった。


 そのまま樋田は眠るように、或いは現実から目を背けるように、徐々に気を失っていく。

 意識が暗転する直前、最後に彼の耳を突いたのは、まるで大きなガラスが割れたような甲高い炸裂音であった。


 果たしてそれが現実のモノであったのか、或いはくだらない夢の中の産物であったのか。

 今となっては、その区別もつかなかった。

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