第十三話 『充実の代償 後編』


 恐怖に思わず顔が引きつったその直後、首無しはまるで肉食獣を思わせる獰猛な挙動で飛びかかってきた。


 その圧倒的な腕力が、少年の体を力任せに大地へと押し倒す。

 コンクリートの凶悪な硬さが服の上から背中を削り、叩きつけられた衝撃で一瞬呼吸が止まりかけるほどであった。


「……クソッ、化け物風情が一丁前に待ち伏せなんざしてんじゃねぇぞコラアアアアアアアアアッ!!」


 樋田は慌てて怪物の体を押し退けようとするが、まるで岩でも相手にしているかのようにビクともしない。

 そんな弱者の足掻きなぞ気にも止めず、『顔の無い男フェイスレス』は曖昧にこちらへと手を伸ばし、そのまま樋田の左耳を乱暴に掴み取る。


 瞬間、考えうる限り最悪の想像が、少年の脳裏を電撃のように駆け巡った。



「イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て嘘だろ嘘だろ嘘だろ嘘だろ嘘だろ嘘だろおおおおおおおおおおッ!!」



 嘘であって欲しいと心から思う。

 されど、この残酷な世界は悪い予感ほどよく当たるように作られている。


 首無しが力任せにその腕を引いた直後――――ブチブチブチッと生々しい音を立てながら、樋田の左耳の皮膚と軟骨と筋繊維とが、まとめて滅茶苦茶に引き千切られた。



「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」



 この世の終わりだと言わんばかりの絶叫が、港湾施設の中に低く、そして重く響き渡る。

 激痛もさることながら、決して元通りになる事のない負傷――――即ち欠損への恐怖が、少年の精神を一気に削り取ったのだ。


 しかし、それでも首無しの暴挙は止まらない。

 化け物は剥ぎ取った樋田の耳介をゴミのように放り捨てると、次は彼の左目へ向けて、その赤黒い腕を躊躇無く伸ばしていく。


 ――――……流石にッ、そりゃ洒落にならねぇぞッ!!


 このままでは両の瞳を抉られることは避けられないだろう。

 かつて左耳があった場所に火で炙られたような激痛を抱えながらも、次の瞬間、樋田は半ば無意識に反撃の一撃を放っていた。


「いい加減にッ……、しやがれええええええええええええええええええええええッ!!」


 一体自分にどうしてそのような細かい芸当が出来たのかは分からない。

 まるで世界と己が一つになっていくようなこの感覚は、きっと偶然に引き出せてモノに過ぎないのだろう。

 しかし、それでも樋田は本能の赴くまま全知全能を内包する可能性の力――――即ち『天骸アストラ』を右足へと集中させ、そのまま首無しの体を力一杯に蹴りつけたのである。


「――――――偽、偽ッ」


 直後、怪物の口から漏れたのは威嚇でも咆哮でもない明らかな苦悶の声。

 足裏に広がる重鈍な感覚に、樋田は思わずニヤリと口角をつり上げる。嬲られることしか出来なかった昨夜とは違い、そこには確かな手応えがあったのだ。


 怪物の体が呆気なくよろめいたのとほぼ同時、樋田はバネのように跳ね起きると、そのまま素早いバックステップで敵との距離を取る。


「ハッ、なんだよ。割ときっちり効くじゃねぇか」


 樋田の予想通り、やはりこの首無しは世界の基準を天界に合わせた状態、即ち『霊体化』の状態にあったのだろう。

 『霊体化』した存在に、『天骸アストラ』を介さない攻撃は通用しない――――そんな晴の薀蓄をしっかり覚えていた自分に、ひとまずは喝采を送りたい気分であった。



「苦苦ッ、偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽ッ!!!!!!!!!」



 しかしそんな喜びも束の間、『顔の無い男』の苦しげな雄叫びが再び港中に木霊する。それは声というよりも、まるで高速回転する金属同士を擦り合わせたような不協和音であった。


 怪物の足元が僅かにぶれたように見えたその直後、吹き抜けるような衝撃波と共に、ドス黒い殺意が樋田の心臓を目掛けて殺到する。

 軽く十メートルは距離を取っていたというのに、瞬きをした次の瞬間、脅威は既に目の鼻の先まで迫っていた。



「クソッ、ブルってんじゃねぇぞ玉無しがあああああああああああああああッ!!」

 


 精一杯の虚勢で己を奮わせながら、樋田は首無しの一撃を紙一重でなんとか躱す。確かに動きは素早いしキレもあるが、避けきれない程ではない。


 しかし、やはり身体能力は首無しの方が圧倒的に上。加えて度重なる全力疾走が、既に少年の体力を大幅に削り取っていた。

 攻撃を凌ぐことは何とか出来ても、反撃をする好機チャンスが全くもって見つからない。このまま持久戦に持ち込んだとしても、こちらがジリ貧になるのは火を見るよりも明らかなことであった。


 ――――まぁ、このまま黙って嬲り殺されるつもりは毛頭ねぇがなッ……!!


 やはりここは多少の危険を冒してでも、奇策を講じるしか己が生き残る道はないだろう。

 幸い此度の相手は真っ直ぐに突っ込むことしか知らない猪武者だ。

 これほど罠に嵌めやすい相手はない。


「オラオラどうしたっ、食い付き甘ぇぞダボハゼがッ!!」


 奇策と言っても、樋田がとったのはあくまで至極単純な行動であった。

 首無しの攻撃を必死こいて捌きながら、徐々に後方へと戦線を下げていく。そして扉が開いたまま放置されている倉庫の一つ、その出入り口を背後に捉えてしまえば最早作戦は成ったも同じである。


「まあ、あとは中身次第だけどよオオッ!!」


 樋田は首無しの隙をついて建物の中に身をくぐらせると、そのまま大急ぎで扉を閉め切る。怪物の馬鹿力をもってすればすぐに突破されるだろうが、多少の時間稼ぎにはなるだろう。


 辺りをざっと見渡してみれば、それなりに大きな港だということもあり、倉庫の中はやはり広い。

 そこには巨大なラックが空間を埋め尽くさんばかりに立ち並んでおり、更にその上には多量の段ボール箱が余すところなく積み上げられている。


 幸いここまでは樋田の予想通りであった。


 人がいない理由は分からないが、やはりこの港は直前まで荷の積み下ろし作業の真っ最中であったのだ。それさえ確認出来れば、最早気懸りな点はどこにもない。


 出入り口を無理に破ろうとする轟音に急かされながら、樋田は空間の奥の方へと走る。その直後、けたたましい金属音と共に扉がこじ開けられ、首無しの怪物がその醜い姿を倉庫の中に現した。



「偽偽偽、愚愚愚愚愚愚愚愚愚愚愚愚愚愚愚愚愚――――ッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」



 こちらの姿を認めるや否や再び絶叫、『顔の無い男』はそのまま一寸の迷いもなく真っ直ぐにこちらへと突っ込んでくる。


 距離は瞬く間に詰まり、残り五十、四十、三十、二十、十、零――――、


 そして怪物がまさにこちらの首元へと掴みかからんとしたその瞬間、樋田は傍らのラック、即ち何かしらの資材が詰められた段ボール群に手をかけると、


「ヴラァァアアアアアアアアッ!! 死晒せゴラァアアアアアアアアッ!!」


 そのまま首無しの怪物の方に向け、これを力任せに押し倒した。距離は充分に引き付けた。最早奴に身を翻す余裕は、時間的にも空間的にも無い。


 直後。

 ドガアアアアアアアアッ!!!!!!!!!!!!!!、という肌を打つほどの衝撃の嵐が、倉庫の中を震天動地と吹き荒れた。


 まるで雷でも落ちたのかと思う程の爆音と、辺りが見えなくなる程の砂煙が、一時的に倉庫の中を埋め尽くす。

 雪崩を思わせる資材の濁流が、『顔の無い男』の腕を、足を、胴を、その強靭な体の全てを余すところ無く飲み込んでいく。


「ぎひッ」


 圧倒的な質量によって動きを封じられた首無しの怪物、その直上に細目四白眼の不良少年が荒々しく躍り出る。


 彼はさっとポケットの中に手を差し込むと、そこから明らかに銃刀法に違反している大振りのナイフを引き抜いた。

 最早こちらが一方的に嬲られる時間は終わり。昨夜の意趣返しとばかりに、チンピラの荒々しい怒号が倉庫の中に重く轟いていく。


「ハハァッ、そりゃあ化け物相手に拳で語り合うなんざナンセンス極まりねぇからな……オラ泣けるもんなら泣いてみろよヒトモドキ、痛くて苦しい精肉作業の始まりだぜええええええええッ!!」


 今もなお資材の山を押し退けようと必死にもがく首無しの怪物。そこから僅かに覗く醜い肉塊へ向けて、樋田は何の躊躇も無く刃を振り下ろした。

 瞬間、肉を引き裂くなんとも言えない感触が、ナイフ越しに少年の右手の中を熱く満たしていく。


「――――ッ、偽、悲ッ!!」


 苦しそうな怪物の呻きと共に、とても人間とは思えないドス黒い液体が辺りに飛び散る。


 やはりこちらの思っていた通りだ。『天骸』さえ込めてしまえば、ただのナイフでも問題なく突き刺さる。

 そして、こうしてしっかりと刃が通る以上、樋田にコイツを殺せない道理はどこにもない。


「ハハァ、中々良い声で喘ぐじゃねぇか……だが足りねぇ、こんなモンじゃ全く割りに合わねぇッ!! 昨日の俺様より惨めに泣き叫んでくれなきゃ、こっちの腹の虫も収まらねぇんだよオオオオオオオオオッ!!」


 そこからは樋田の独壇場であった。

 彼は何度も首無しの体にナイフを刺し、切りつけ、肉を削ぎ、抉って、その生命力を根こそぎ削り取っていく。

 いくら体に返り血を浴びようと、どれだけ首無しが苦しみに嘆こうとも、少年はその全てを一切気にしない。


「ギャハハハハハッ、ザマァ見ろオオオッ!!」


 昨夜から溜め込むばかりであったストレスを、ようやくこうして発散する場が出来たのだ。

 樋田は決して生まれ持っての悪人ではないが、今この場においてはその無慈悲な本性を遠慮無く曝け出している。


「オラッ、とっとと死ねやコンチクショウッ!!」


 コイツの息の根さえ止めてしまえば、この異常な空間もきっと元通りになるのだろう。

 そして何より、コイツを倒してしまえば、己は再び筆坂晴の隣という絶対的な安全地帯へと帰ることが出来る。


 そのとき、樋田はそんな都合の良い展開を確かに信じていた。


 最早己の身から命の危険は去ったものだと、絶対的な優勢にあぐらをかいて油断していたのだ。

 しかし、この世界は決して樋田のような矮小な存在に対して優しく作られてはいない。

 彼のその歪で傲慢な醜い笑顔は、すぐにドス黒い絶望によって塗り潰されることとなった。



「――――ッ、オイ、そんなのってありかよ……!!」



 そのあまりにも理不尽な光景を前に、樋田は思わずナイフを取り落としてしまいそうになる。

 何と少年が首無しにつけた無数の切り傷、その全てがみるみるうちにしていくのである。


 傷口から泉のように血が湧き、山を築くように肉が生え、あらゆる損傷をまるで何事もなかったかのように埋め尽くしていく。


 樋田がようやく我に返った頃、最早怪物の体にはささくれ程度の小さな傷すらも残ってはいなかった。加えてもう一つの予想外が少年の心に更なる絶望を上書きする。

 なんと、首無しの動きを封じていた資材の山が、その強靭な腕力によって半ば崩されかけていたのだ。



「偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽ッ!!!!!!!!」



 再び金属をすり合わせたような不協和音が木霊し、首無しの体が狂ったように激しく蠢く。

 このままでは資材の山から怪物が這い出てくるのも時間の問題だろう。仮にそうなれば攻守は一転、こちらが一方的に嬲り殺されるのは目に見えている。


 ――――クソッタレが、どいつもこいつも俺のことを馬鹿にしやがってッ……!!


 そんなあまりにもおぞましい未来予想が、そして胸の底より這い上がってくる焦燥感が、少年の頭から瞬く間に冷静さを奪っていく。


「死ねェッ!!」


 頭が真っ白になるなか、樋田は慌てて怪物の肉を刺し、切って、削いで、抉る。しかし少年がナイフを振るう速度よりも、首無しが再生する速度の方が明らかに早い。


「死ねッ、死ねぇッ……!!」


 それでも諦めずに刺して、切って、削いで、抉って、刺して、切って、削いで、抉る。

 そうして樋田が無意味な足掻きを続けている間にも、資材の山はみるみるうちに切り開かれていく。少年の生命の安全を保証していた頼みの綱が、見るも無残に打ち崩されていく。


 その瞬間、樋田は己の心の中で、が限界を迎えたのを確かに感じた。



「死ねっ、死ね死ね……死ね死ね死ね死ね死ねェえええええええええッ!!!!!!」



 最早その全てが徒事だと分かっていても、樋田は狂ったようにナイフを振り回すのを止めることは出来なかった。

 いくら刺しても『顔の無い男』は死なない。いくら切っても『顔の無い男』は死なない。いくら削いでも『顔の無い男』は死なない。いくら抉っても『顔の無い男』は死なない。


 そう、樋田可成では決してこの首無しの怪物を殺す事は出来ないのだ。そして、その事実が意味する彼の暗く虚しい未来、その展望とは?



 ――――――……死ぬのは、俺の方なのか?



 そんな確信が頭を過ぎった直後、遂に資材の山が完全に崩れ去り、首無しの赤黒い右腕が樋田の首根っこを掴みとる。 

 瞬間、言葉に出来ない底無しの恐怖が、樋田の心臓を鷲掴みにする。



「ギッ、死ねっつってんのが……聞こえねぇのかあああああああああああああッ!!」



 それでも彼がやる事に変わりはない。少年は半ば精神を発狂さながら、ただ闇雲にナイフを振り下ろし続けるだけであった。



 ――――死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね早くッ、早く死ね、出来るだけ早く死ね、死んでくれ、死んでくれェッ、いいから死んでくれ、頼むからさっさと死んでくれよォォオオオオオオオオオオオオオオッ……!!



 気管を閉められているせいで、まともに息を吸うことさえ出来ない。意識は段々と遠退いていき、視界も瞬く間に薄くボヤけていく。

 それでも憎き怪物の体に刃を突き立てることだけは決してやめない。


 そして最早自分がまともにナイフを握れているのかも分からなくなった――――丁度そんな時であった。


「――――ッ、ゲホッ!! ……ガッ、ガハッ」


 唐突に首根っこへの握力が消え失せ、樋田の体はそのまま力無く大地へと崩れ落ちる。

 視界はまるで洗濯機の中にでもぶち込まれたかのように荒れ狂っていた。イカれた平衡感覚ではまともに周囲の世界を認識することも出来はしない。


 そこからまともに己の感覚が回復するまで、一体どれだけの時間がかかっただろうか。


 ――――クソッ、何が起こった……?


 それでもなんとか視界をハッキリさせると、樋田はおっかなびっくりに足元を伺う。

 すると、そこにはこちらへ手を伸ばしたまま、まるで彫刻のように固まっている『顔の無い男』の姿があった。


「…………死んだ、のか?」


 自分で口に出しても信じきることが出来ず、樋田は試しにもう一度その胸元へ刃を突き立ててみる。しかし、此度ばかりは裂けた肉も、吹き出た血液も元には戻らなかった。


 もしかしたらこの怪物の再生能力にも限界というモノがあるのだろうか。


 何はともあれ樋田はそこでようやく自らの勝利を確信した。少しでも気を抜けばそのまま昇天しかねない程の安堵がドッと全身を包み込む。


「ざけやがって、二日連続で死にかけるとかマジで勘弁してくれよ……」


 全身は今もなお鋭い悲鳴をあげているし、当然千切られた左耳はもう二度と戻らない。

 だが、それでもこの命だけはなんとか助かった。神様とやらが本当にいるのならば、一先ずは感謝しておきたい気分であった。


「……クソッ、それなりに慎重なつもりだったが、まだ甘めぇみてえだな。どこぞの配管工じゃあるめぇし、これじゃあ命がいくつあっても足りねぇよ」


 そこにどんな目的があるのかは分からないが、やはり首無しの怪物達は確実に樋田を、そして晴のことを狙っているのだろう。


 此度は奇跡的になんとかなったが、このような偶然がそう何度も続くとはとても思えない。

 ここは一度晴と真剣に話し合い、この化け物集団の目的を突き止め、ひいては殲滅するための方策を立てねばならないだろう。幸い樋田にとっては一戦一戦が命がけの相手でも、彼女の手にかかれば秒単位で瞬殺出来ることは分かっている。


「……最早どっちがヒロインかって展開だよな。まあ、アイツにベッタリしてる限りはなるようになるだろ」


 ひとまず、これからの大まかな展望は整った。 

 正直に言えばまだしばらくは動きたくないが、こんな危険な場所にいつまでも長居をするわけにもいかない。

 樋田は軋む体に鞭打って無理矢理に立ち上がると、ラックに体重を預けながら、そそくさと港湾施設からの脱出を開始する。


 倉庫の中は照明で割と明るかったが、扉を潜るとそこには墨をぶちまけたような闇夜が広がっていた。首無しの怪物の死によって、きっとあの異常な空間も元通りになったのだろう。

 暗さのせいではっきりとシルエットを捉えることは出来ないが、港の中にちらほらと何かの作業をしているであろう人影が確認出来る。


「へはっ……、何露骨に安心してんだ俺。全く、情けねぇったらありゃしねぇ」


 例えそれが頼りない一般人であったとしても、やはり目の見える範囲にヒトがいるというのは、心にそれなりの安心感を与えてくれるモノだ。

 ここはもう『天骸』とも『顔の無い男』とも関係のない安全地帯なのだと、言外に告げられているようで心がぐっと楽になる。


 一先ずは彼等にこの場所が港区のどの辺りにあるのかを尋ねてみよう。こんな血だらけ痣だらけの格好では警察を呼ばれるかもしれないが、最早背に腹は変えられない。

 手段は問わなくていいから、とにかく今は帰りたい気分だった。なんでもいいから自宅に、一刻も早く筆坂晴の隣という安全地帯に帰りたい。


 樋田はそうして片足を引きずりながら、ゆっくりと人影に近づいていく――――そして月明かりに照らされた彼等の姿を、その両目ではっきりと捉えてしまう。


 その時まで彼は全くもって気付いていなかったのだ。目の前に垂れ下がる蜘蛛の糸が、最初から極楽になど続いていなかったことに。



「えっ」



 港の中に見える数多の人影、何とその全てに


 一人倒すだけでも何度も死にかけた首無しの怪物が、あの強く悍ましい『顔の無い男』が、そこには一、二、三、四、五と、十を軽く飛び越え、二十人はくだらない。

 例え彼等にモノを見るための瞳はなくとも、その全てが一斉にこちらを向いているのは嫌でも分かった。



「アロイゼ=シークレンズ。あの劣等種が考えることも分からぬものよ」



 あまりの衝撃に思考が停止し、樋田は正しく恐怖を認識することすらも出来なかった。そこに突如低めの美声が響き渡り、続いて首無し達の影より一人の男が優雅に躍り出る。


 金の刺繍が施された軍服の上から黒の外套を身に纏い、中折り帽を目元深くまで被った初老の紳士。その顔はまるで死体のように真っ白で、漆黒の強膜と血色の虹彩が真っ直ぐこちらを覗いている。


「ひっ」


 別に樋田はその男を知っているわけではない。別にその男は一目見ただけで分かるような凶悪さ、或いはおぞましさを内包しているわけでもない。


 しかし、それでも心より先に遺伝子の方が屈服していた。

 この男に逆らってはいけない、少しでもその機嫌を損ねてはいけない。そう本能が危機を叫んだのだ。

 事実その男が視界に入ったというだけで、少年の動悸は瞬く間に加速し、吐き出す息は不自然なまでに生温かくなっている。


 そんな彼に向かい、紳士はゆるりと口を開く。

 その姿は何故かまるで怒りに震えているようにも、或いは狂気にあてられているようにも、そして世界の全てがつまらないと幻滅しているようにも見えた。


「……フンッ、酒の肴程度にはなるかと期待していたのが、やはり愚物はどこまで行っても愚物に過ぎぬか。小さき者よ、この『簒奪王さんだつおう』の興を殺いだ罪は重いぞ」

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