第十二話 『充実の代償 前編』


「オイッ、嘘だろ……」


 そのとき、その瞬間、樋田可成ひだよしなりは間違いなく恐怖に飲み込まれていた。瞬く間に喉の奥は干上がり、胸の鼓動が不規則に加速していくのが自分でも分かる。


 いつの間にか距離は詰まり、わずか視線の先三十メートル。

 少年の体に初めて死の恐怖を刻み込んだ首無しの怪物、『顔の無い男フェイスレス』は確かにそこに存在していた。


 そのおぞましい姿が視界に入るだけで、たちまちに昨夜の悪夢が脳裏を駆け巡る。

 息を吸うのも難しく感じるほどの圧倒的な重圧に、腕の肉を引き裂かれた際の耐え難い激痛。その全てが頭にこびついて離れようとしない。


「なんでっ、こんな場所にッ……!?」


 そこからたっぷり十秒ほど時間をかけ、樋田は何とかそんな疑問の言葉を絞り出した。


 されど現実として視線の先の『顔の無い男』は、今も我が物顔で日の当たる人間社会の中を闊歩している。

 もしかしたら奴等も晴の言う『霊体化』なる技術を習得しているのだろうか。確かにそう考えるならば、周りの人間が恐怖に泣き叫ばないことにも納得がいく。


 ――――クソッ、どうすりゃいい……?


 このまま気付かれないうちに立ち去るべきか。それとも晴を呼んで少しでも脅威を排除しておくべきか。

 個人的には今ずくにでも逃げ出してしまいたい気分なのだが、僅かに残った良心が少年の足を何とかその場に踏み止まらせる。

 やはり多少の危険を冒してでも、ここは留まって晴を呼ぶのが最善であろう。


 今は何故か大人しいが、『顔の無い男』は本来何の躊躇もなくヒトを殺める兇暴極まりない存在だ。

 そんな化け物がこうして日の当たる場所に現れてしまった以上、流石の樋田でも見て見ぬふりをすることは出来ない。

 


「オイっ、何する気だアイツ……?」



 しかしその直後、そんな彼の逡巡は即座に無意味と化した。

 これまでは人混みの間を縫うように、つまり出来る限りヒトの体に接触しないように移動していた『顔の無い男』。その赤黒い掌が何と突然、傍に立つ男の肩にそっと触れたのである。


「なっ……!?」


 樋田が思わず間抜けな声をあげたその直後、青年の右肩に現実離れしたのようなモノがジワリと滲んでいく。

 あれも恐らくは『天骸アストラ』を用いた術式――――晴の言葉を借りるならば『権能』、あるいは『聖創』と呼ばれる異能の一種なのだろう。


 件の術式がどのような効果を持っているかは知らないが、それが危険なモノであるということだけは考えずとも分かる。そんな胸のざわつきに任せるがまま、樋田は青年の元へと駆け寄ろうとし、



「――――――――ッ」



 間に合わなかった。最早何もかもが手遅れであった。


 何の予兆も、そして何の前振りも無いまま、青年の体が突如力無く大地へと崩れ落ちる。完全に意識を失っているのか、そこには手で顔を庇おうとする素振りすら見えなかった。


「オイ、マジかよ」

「なんか、やばくね?」


 青年の周りにいた数人の若者が、スマートフォン片手にそんな呑気な声を上げる。たかがヒトが倒れた程度で東京の人間はそれほど驚かない。それも倒れたのが若い男ともなれば、その無関心ぶりにも拍車がかかる。


 彼等はきっと目の前の光景を道端で酔っ払いが潰れた程度のこととしか認識出来ていないのだろう。

 しかし樋田は既に察していた。

 青年の身に起きた異変を正しく理解しているからこそ、彼の歯の根は上手く噛み合わないのである。


 そのうち殊勝な心掛けをした者が何人か出てきて、「大丈夫ですか」と事務的な声色で青年に問いかける。

 直後、彼等の顔色が恐怖に青ざめたのは正に必然の事であった。



「……コイツ、死んでるぞ」



 きっかけはそんな誰かの呟きであった。

 そのとても冗談には聞こえない緊迫した声に、周囲にいる全ての人間がまるで電源でも抜かれたかのように凍りつく。


 平和ボケしきった現代日本人の胸元に、突如明確な現実としてが突き付けられた。

 感覚的には音も色も全てが消え去った世界の中で、目の前の光景を受け入れられずにただただ沈黙する人、人人、人人人、人人人人人人――――――――――。



「きゃあああああああああああああああああッ!!」



 その直後、最早恐怖を抑えきれないとばかりに、絹を裂くような女の悲鳴が炸裂した。


 助けて。救急車は。嫌だ。なんで死んだんだ。吸魂事件か。誰が殺したのか。警察を呼べ。子供には手を出さないでください。ただの心不全でしょ――――と、愚民の群れはいい加減な事を口々にまくしたてる。

 やがて四方八方より湧き上がる小さなパニックが、積もり集まり重なり合い、人々を一種の恐慌状態へと駆り立てていく。

 勿論、そんなストレスの波に当てられたのは、樋田可成とて例外ではなかった。


「オラ、失せろやモブ共オオオッ!!」


 少年は怒鳴り散らし、近場にいた数人の若い男をまとめて突き飛ばす。

 最早首無しがどこに行ったかなんて気にかけている余裕は無い。パニックになる群衆を無理矢理に掻き分けながら、少しでも脅威から距離を置こうと必死に駆けていく。


 ――――ヤバイっ、ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ……!!。


 何故だ、何故あの青年は死んだのだ。

 首無しが殺したのか。まさかあの化け物は手で触れるだけで、人を殺すことが出来るというのか?


 頭の内より次々と湧き上がる疑問と恐怖。しかし心が動揺しているせいか、思考回路が全くもって仕事をしない。

 だから樋田は一度考えることを諦め、ただ逃げることだけに集中することにした。


 例え肺が酸素を求めて痛もうとも、足の筋肉が休息を欲して軋もうとも、それら全てを無視してひた走る。そんな闇雲な全力疾走を続け、一体どれだけの時間が経っただろう。


「ゼェ……、ゼェ……、ここまで来りゃ流石に大丈夫だろ」


 背後から狂乱を伴う喧騒が聞こえなくなったところで、樋田はようやくその足を止める。


 汗で霞みきった視界の先には、見覚えのない景色が広がっていた。どうやら無我夢中で走っているうちに、いつの間にか見知らぬ場所まで来てしまったようである。


「どこだっ、ここ。こんな場所近くにあったか?」


 軽く辺りを見渡してみれば、どうやらそこは巨大な港湾施設のようであった。

 海へ突き出す形の人口的な岬に、そこから横直線にずらりと立ち並ぶ貨物船の群れ。陸の方に目を向けてみれば、四方八方に巨大なコンテナ類が積み上げられており、その背後にはこれまた巨大な倉庫群が数多く聳え立っている。


 規模はそれなりに巨大だが、施設の中にこれといった特徴はない。

 確かに建物だけを見れば、この場所はどこにでもある普通の港にしか過ぎないのだろう。しかし樋田がその空間の異常性に気付くのに、そう長い時間はかからなかった。



「……誰もいやしねぇ」



 そう、今この港湾施設には何故か人が一人もいないのである。

 コンテナを担いだまま停止している重機の運転席は当然のように無人。明らかに警備が必要そうな倉庫群も、そのほとんどが無用心に扉を開けられたまま放置されている。


 超人口過密都市であるこの東京、それも経済の大動脈たる港に人がいないなどあり得るはずがない――――と、そこまで考えて樋田は「いや」と首を横に振った。

 一体自分は何と甘いことを考えているのだろう。

 晴曰く、天界の干渉を多分に受け、更には可能性の力である『天骸』を持ち込まれてしまったこの人間界に、最早「あり得ない」などという言葉は存在しないというのに。



「……こりゃ、もう完全に黒だな」



 口では平静を装いながらも、樋田の頬にはいつの間にか一筋の脂汗が滴り落ちていた。


 直接の物理攻撃はないものの、この異常現象には明らかに『天骸アストラ』を用いた異能の力が関わっているに違いない。

 その正体は先程の首無しか、あるいはまだ見ぬ第三勢力によるものか。


 これならば分かりやすく正面から襲ってきてくれた方がまだマシだ。

 敵の素性も能力も目的も、その一切が不明。そんな圧倒的な情報量の差が、ジワジワと樋田の神経をミクロ単位で削りとっていく。


「クソッ、とりあえず落ち着け馬鹿野郎」


 足だけは忙しなく元来た道を引き返しながらも、樋田はひとまず己にそう言い聞かせる。

 動揺し判断を誤れば、それこそ向こうの思う壺だ。慎重に吸って吐いてを何度か繰り返せば、荒ぶっていた精神状態もそれなりに安定してくる。


「マジで頼むぜ、筆坂ふでさかさんよ……」


 ゴクリと生唾を飲んで気持ちにキリをつけると、樋田はおもむろにポケットの中から携帯電話を取り出した。

 初めからこうしておけば良かったのだ。むしろなぜこれほどまでに動揺していたのかと自分で自分に呆れてしまう。


 たかが首無しの怪物の一匹や二匹が何である。

 はれさえこの場に来てくれれば、あんな連中はきっと二秒で挽肉してくれるだろう。そう思うと途端に肩の荷が下りたような心持ちになる。


 しかしそんな樋田の希望的観測は、直ぐに虚しく霧散することとなった。少年は携帯の画面を一瞥するなり、そのまま白眼を剥いて絶句する。


「……ぎっ、ぐっ、――――っざけんじゃねえぇぇぇぇぇえええええッ!!」


 あまりの理不尽さに、樋田は反射的に携帯を足元に叩きつけてしまう。

 電子画面の左上に表示されているのは、なんと『圏外』の二文字だ。この都会でそんなことがあり得るか、そう理不尽を嘆いても現実は覆らない。現状晴に助けを呼ぶという最強の切札は、最早封じられたモノだと割り切らなくてはならないだろう。


「クソッ、どいつもこいつもこの俺様を馬鹿にしやがってえッ……!!」


 この状況を作り出した何者かは、こちらの慌てぶりをどこかで眺めながら愉快とほくそ笑んででもいるのだろうか。

 樋田可成は無価値な人間だが、性質タチの悪いことに自尊心だけは無駄に高い。まるで誰かの手のひらの上で遊ばされているとしか思えないこの状況に、不良少年の腹わたが煮え繰りかえらないはずがなかった。


「オラ、さっさと出て来やがれチキン野郎ッ、つまんねえことしてんじゃねえぞゴラァアアアアッ!?」


 樋田は決して頭が悪い人間ではない。しかし一度頭に血が上ると、途端に考え無しになってしまうチンピラ特有の悪い癖がある。

 タダでさえ細い瞳を更に細め、無駄に肩を強張らせながら、そこらに怒りをブチまける不良少年。しばらくして怒鳴るのに飽きてくると、彼はどこにいるかも分からない敵を探して、港湾施設の中を闇雲に歩き回り始める。


「野郎ォ、ぜってぇブチ殺してやる……!!」


 そうして彼が辺りに立ち並ぶ倉庫のうちの一つ、丁度その前を横切った次の瞬間であった。



「憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎――――――――ッ」


「あっ」



 唐突なる外敵との遭遇。

 それは即ち、倉庫の影に潜んでいた一体の『顔のない男』。たちまちに心臓が口から飛び出んばかりに跳ね上がる。樋田は慌てて身を翻そうとするが、もう間に合わない。

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