第九十二話 『草壁蟻間』其の一


 随分と静かなものであった。

 ほんの十分前まで、人と悪魔とによる殺し合いが行われていたとは思えないほどに静謐。最早耳に届く音など、精々パチパチと虚しい戦場の残り火と、ダエーワ共が屍肉を貪る咀嚼音ぐらいのものだ。


「初戦としての戦果は上々か」


 戦争は終わった。正しくは殲滅が終わった。

 東京都品川区に位置する工業地帯の跡地。人類王勢力が有する拠点の一つでもあるその場所に、最早生きた人間の姿は一つもない。

 ゾロアスター教に紐付けられし悪魔の大軍。今も自分の足で地を踏みしめていられるのは、この殲滅戦を生き残った彼等勝者のみであった。


「やはり圧倒的な暴力による弱兵の蹂躙ほど爽快極まるものはない。特に正義などいう一個人の主観を、まるで全人類共通の総意であるかのように振りかざす、腐れゴミ野郎共をブチ殺すのは格別だ」


 ダエーワが群れをなす戦場の中心、全殺王は目を細めながら僅かに白い歯を覗かせる。それはまるで、この地で死んでいった全ての命を嘲笑うかのような仕草であった。


「おかげで王としての力も随分とこの体に馴染んできた。時は満ちた。決戦の時だ。善の後塵を拝する臥薪嘗胆の歴史に別れを告げよう。人の世を統べるべき原則は善などという束縛的な概念であってはならないのだからな」


 全殺王アンラ=マンユ。

 善悪二大原理のうち『悪』を司り、その醜悪な原理に基づいて世界を統べようとする大悪魔。

 悪の権化である彼はその性質上、実に世界の半分を掌握しているに等しいと言えよう。そして当然、残りの半分である『善』の勢力に打ち勝つ算段も、既に彼の頭の中には用意されている。


 を超越せし自らの悪性。

 魔王を中心とする強大なダエーワの軍勢。

 そして、そこに加えて最も重要なピースがあと一つ。されどそのピースさえ揃ってしまえば、人の世を悪で覆うことなど勿論、かの憎き天界を滅ぼすことすら夢物語ではない。


あり〜く〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜んッ!!」


 そう、全殺王が理想に想いを馳せていた正にそのときであった。

 凄惨極まる戦場の跡にはあまりに不相応、突如王の背後から蜂蜜の如き甘ったるい嬌声が聞こえてきたのだ。

 全殺王が声の方に首を振ると、そこにはそれぞれ一人の男と女の姿があった。そのうちの一人である妙齢の美女はこちらの姿を認めるや否や、西洋風の傘をガサツに振り回しながら軽快なスキップで駆け寄ってくる。


「もぉ〜、まあたアタシに何も言わずにいなくなってえ〜。前から何度も言ってるけどお、勝手に一人で事を起こすのはやめてよねえ。これでもアタシは貴方の大切なパートナー兼共犯者なんだからあ……まあ、そういう奥さんを一切顧みないクソ亭主関白的な振る舞いも蟻間きゅんの素敵なところではあるんだけどっ♡」


 スキップの勢い余って全殺王の胸に飛び込みつつ、女は下品な恍惚の表情を浮かべて言う。

 未亡人風の黒ドレスに、網がかった黒帽が目立つ黒薔薇の女。ドレスの上からでも凹凸に富んだ身体つきをしていることは一目瞭然。不自然なほど真っ黒な髪はツインテールに結ばれ、帽子にはアクセントらしい紫の髪飾り、加えて目元にも控えめな紫が描かれている。

 少女としての可憐さと、女性としての艶やかさを同時に内包する、男ならば皆問答無用で心を奪われるであろう魔性の魅力をその女は有していた。


「……ふざやがって、空気の読めねえクソ女だなオイ」


 そしてその女の後ろからのそりと現れたのは、狼のように荒々しい風貌をした中年の男であった。

 癖の強い長い髪に、如何にも汚らしい無精髭。右目の周りは皮下の肉が丸出しで、加えて眼球自体も何かカメラのレンズのような機器に置き換えられている。


 やけにご機嫌な黒薔薇の女と、どこか苛立った様子の中年男。全殺王は一瞬両者を見比べ、まずは女の方に首を向けた。


「……アズか。一体何をしに来た」


「はーい、どーも。そう、このアタシこそが業魔王ごうまおう改め蟻間くん専用女の子のアズ=エーゼットちゃんで〜す♡」


 仏頂面の全殺王とは対照的に、業魔王なる女はそこらへんの若いJKの如くキャピルンと横ピースを決める。


 業魔王アズ=エーゼット。

 王という名乗りが示す通り、彼女も全殺王と同様、ありとあらゆる天使の中でも最上位に位置する十三王の一人である。


 その『対応神格』は大暗母アズ。

 アズとはゾロアスターからの派生した一部の宗派において、かのアンラ=マンユの妻としても語られることもある女悪魔である。

 アンラ=マンユを悪魔の王とするならば、アズはまさに悪魔の女王とでも呼ぶべき存在だと言えるだろう。


 しかし、そんなおぞましい肩書きに似合わず、今のアズはただの恋する乙女であった。彼女は全殺王相手に一人で勝手にデレデレしまくり――――しかし、そこでふと我に返ったように態度を一変させる。


「で、何しに来た? じゃないわ。折角腐れ天使共をハントするってんならどうしてアタシも呼んでくれなかったのッ? 今のアタシは身重の体、一杯子供を産むためにはそれだけ一杯食べなきゃいけないのに……これは明らかなネグレクト、最早一種のDVと言っても過言ではありませんッ!!」


 続いて業魔王は足元に転がってたダエーワの死体を拾い上げ、ぐぐっと全殺王の目の前に突き出しながら続ける。


「そして、食料調達は古来より男性の職能です。それもただ持ってくるだけじゃ不合格。ちゃんと洗って、ちゃんと皮を剥いで、ちゃんと骨をとって、ちゃんと食べやすいようにぐちゃぐちゃの肉の塊にしてからアーンしてくれないと絶対に絶対にダメなんだからアッ……!!」


「……」


 対する全殺王と言えばガン無視であった。取りつく島もなしである。彼はただ心の底から迷惑そうに、あるいは腹立たしそうに眉間をしかめる。


「ひっ、酷い。アタシはこれほど蟻間くんのために尽くしているというのに、貴方はたかだか労いの言葉一つかけてくれないなんて……ですがそこが良いんです。これだけたくさん産ませた女に欠片の配慮もしないクソ男感、とっても最低最悪で至極素敵です……」


 しかし、それが業魔王にとっては何よりも喜ばしい一種の御褒美であった。

 彼女は頬を赤らめ、一瞬垂れそうになった唾液を慌てて啜る。そうして女悪魔は無視を続ける全殺王をしばらく艶やかな瞳で見つめ続けていたが――――ふと、その視線がとある死体を捉えた瞬間、彼女は眦が裂けんばかりに目を丸くする。



「ええええええええッ!? なにこれヴィレキア=サルテじゃないッ……!? 」



 そんなものがあるとは予想すらしていなかった上物に驚愕。しかし、それはすぐさま燃え上がる炎の如き怒りへと変わった。


「はああああああ畜生ざっけんじゃねえぞド腐れ下等生物共がッ!! こいつあテメェらみてえな生きてる価値もねえゴミクズ共が口にしていいような代物じゃねえんだよとっとと中身ぶちまけて死にやがれやこんのクソボケがアアッ!!」


 正に一変。アズは人が変わったような罵声をあげながら、右手に持っていた傘をヴィレキアの屍体――――正しくはその死肉に群がっているダエーワ達目掛けて叩きつける。

 圧倒的で一方的な暴力に晒され、身の程知らずなハイエナ共はすぐにグチャグチャの赤い塊と化した。そうして無礼者を排除したのち、アズは見るも無残なヴィレキアの死体にガバリと抱きつくと、


「はううぅ、蟻間くん最低ありえないッ!! なんでこんな上物こんな雑魚に食べさせちゃうわけ。例えるなら金をドブに捨てるどころか、一等の宝クジで糞拭いてトイレに流す並の暴挙ですッ!! あ〜あ、もったいないもったいない、本当信じられないんだからッ!!」


 業魔王は瞳をぬぐいながら鼻をすすり、実にみっともない嘘泣きを披露する。されど、かの絶対悪がそんな如何にもな演技に絆されるわけもなく、


「……なら、それを持ってさっさと自分の役割に戻れ。そもそもダエーワを産み続けること以外に、お前のような愚かな女に期待していることなど一つもない。分かったら二度とこの俺の手を煩わさせるな。使い捨てなら使い捨てらしく、俺の知らないところで勝手に消費されていろ」


「もぉ〜、冷た〜い。まあでも、蟻間くんの言う通りアタシたくさん産んでるよお。たくさんた〜くさんねえ。たとえ膣が裂けてケツ穴と同化したってアタシは貴方のために子供を産み続けるわぁ」


 あと数センチ進めば鼻が触れるような距離、アズなる女悪魔は全殺王の耳元に直接囁くように言う。


「だって、産めばそれだけ愛してくれるんでしょ? ねぇ、蟻間くん♡」


 直後、女は全殺王からバッと離れ、ふんふん鼻歌を歌いながら踊る。

 独楽のように体を回転させ、大きな傘を気ままに振り回す。それはたちまち背景がだだっ広い草原に見えてくるほどに、自由で開放的な踊りであった。



「あ〜あ、私早く食べたいなァ蟻間くんのちんぽッ!!」



 最早辛抱しきれない。そう言わんばかりの媚びた声が響き渡る。

 女の手はいつのまにか踊りながら自らの股座を服の上から弄っていた。次第に布地は湿り、すぐにスカートの裾から何かネバネバした液体が滴り落ちてくる。


「アタシ、楽しみでたまらないの。蟻間くんに挿入れてもらうことも、射精してもらうことも、そしていつか貴方との子供を孕むこともネ♡ 子供はねー、そーねー……三人、うん三人がいいわっ!! あまりたくさんだと一人一人をちゃんと愛することが出来ませんもの。子供達をたくさん愛して、たくさん慈しんで、のびのびと育ませて――――」


 そこで何かを踏み潰すような勢いで足を振り下ろす。感情に身を任せたダンスはお終い。たちまちに慈愛に満ちた母の顔が、恋に邁進する盲目な少女のそれへと切り替わる。


「で、その子たちが一番幸せを感じた時にブチ殺すの。キャハハハハハハハッ!!」


 まるで飼い主に駆け寄る子犬が如く、アズは再び全殺王の懐に飛び込んだ。その大きな瞳を潤ませ、頬を赤く染め、愛欲にまみれた言葉を吐息と共に囁く。


「もしそうしたらあ蟻間くん喜んでくれる? あぁコイツ最悪の女だなあってアタシのこと褒めてくれる? でも愛しちゃダメよ。子供に愛着とかも絶対にダメ。蟻間くんがもしそんなカッコ悪くてクソダッサいことしたら、流石のアタシでも幻滅しちゃうんだからねッ!!」


「――――ま……れ」


「ああアタシ、自分で自分が分からない。アタシは蟻間くんが好きなのに愛しているのに、貴方に愛して欲しいのに、でもアタシを愛して大切にしようしてくれようとする貴方のことは絶対に愛せそうにない。何故なの!? 分からないアタシ分からないわ――――」


「クソ売女が、黙れと言ってるのが聞こえねえのか?」


 忙しなく喚き続ける業魔王の首根っこを、全殺王は問答無用で鷲掴みにした。万力のような、ともすれば首が折れるほどの握力で一気に締め上げる。

 対する業魔王は笑いながら痛い痛いと、もう嬉しいのか嫌がってるのかもよく分からない有様であった。


「お前の心情などどうでもいい。ただ黙って俺に全てを捧げ続けろ。それ以外にお前に価値などないのだからな」


「……ふふっ、本当に酷いヒト。で、捧げ続けたら一体何をしてくれるのかしら……?」


 業魔王の質問に全殺王はふうと一呼吸おき、しかしすぐに邪悪な笑みとともに応える。



「そのときは



 瞬間、業魔王の中の乙女火山は大噴火のときを迎えた。愛欲、性欲、情欲、それら全てが溶岩のように吹き出し、アズの熟れた身体を滅茶苦茶に火照らせていく!


「お・か・し・て・や・る・ッ!? いやあああ蟻間くん蟻間くん蟻間くん、蟻間くんカッコいいですスゴいですぅッ!! そんなアタシのことをまるでモノとしてしか見ていないような言い方……抱いてやるでもなく寝てやるでもなくて犯してやるッ!! そこが素敵です堪りません。えぇ堪りません。もう辛抱を堪りませんともッ!!」


 実際業魔王はもう辛抱しなかった。

 彼女はバッとその場に座り込むと、目にも止まらぬ早さで全殺王のベルトを解く。次の瞬間、その手はもう王のチャックを下ろしにかかっていた。


「我慢とか大嫌いです。お願い聞いてはじめてご褒美貰うとかそれは善に縛られた哀れで可哀想でクソマゾ気質なニンゲンサルモドキ共のやり方です。欲しいものは欲しいと思うがままに奪い、そして犯す。それこそがアタシたちクソッタレの悪魔が有する唯一の行動原理なのですからあッ!」


 全殺王の対応は冷静であった。

 怒りを覚え、殺したいと思った。だから殺すことにした。王はこの色狂いを誅殺しようと、『瘴気』に満ちた左腕に力を込める。

 しかし、そこで両者の間に割って入る声が生じた。


『やめろ、アズッ……お前は俺の女だ。決して許さんぞ……そんなガキの慰めものになるなどッ……!!』


 これから死に行くものが、最後の力を振り絞って残した遺言。そう思えるほどに弱々しい声であった。

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