第九十二話 『草壁蟻間』其の二


『やめろ、アズッ……お前は俺の女だ。決して許さんぞ……そんなガキの慰めものになるなどッ……!!』


 声がしたのは全殺王のだ。彼の腕を覆う『瘴気』の一部が、徐々に人の顔を形作っていく。とは言っても見ようによっては顔に見える程度だ。その口に当たる部分が、まるで酸素を求める金魚のようにパクパク開閉する。


『おのれおのれおのれッ!! 何故だ。何故アンラ=マンユであるこの俺が、絶対悪たるこの全殺王が、たかが人間のガキ程度に屈服せねばならんのだ……覚えておけ。この俺を愚弄したこと、必ず後悔させてくれるッ……!!』


 必死に叫び狂う『顔』に、しかし全殺王は特に感想を抱きはしなかった。『顔』の全殺王に対する憎悪。全殺王の『顔』に対する無関心。それが両者の力関係をそのまま表しているかのようであった。


「……まだ意識があったのか。矮小で愚鈍なの王よ。無駄な抵抗はやめてさっさと俺の中に還元されろ。別にお前の存在が消えたところで何も問題はないだろうが。世界を悪で満たすという役目は、お前に代わってこの俺が果たしてやる」


『黙れ、黙れ黙れ黙れえええええええええええッ!! たかが人間の分際で……たかがクソガキの分際でええええッ!! うぅうううぐぅう、許さん決して許さん……お前は必ずこの俺が殺してやるッ!! 絶対に殺してやるぞオオオオッ!!』


 そして『顔』は続けて業魔王の方を向く。心なしかその顔のようなものは悲しい表情をしているようにも見えた。


『オイ、アズ。何故だ、俺とお前は四千年の時を超え、ようやく再び相見えることが出来たのだぞ。なのに何故そのような男と……そうか、そうだ! 脅されているんだろう! あるいは洗脳されているのだろう! そうだそうに違いない! お前が俺を見捨てるなどありえない。お前は俺なしでは生きていけない哀れな女なのだからなアッ!!』


 必死極まる『顔』の道化っぷりに、全殺王は思わず苦笑する。そうして彼は業魔王アズにチラリ視線をやった。


「えっ? あぁ、あははは〜♫」


 アズは愛する男の言いたいことを即座に察し、左腕の『顔』のもとへと近寄った。そして『顔』が一瞬安堵したような表情を形作った直後、業魔王はそこに痰の絡んだ唾を吐きかけた。


『……………………はあ?」


「はあ、じゃないんだけどぉ? 気安くアタシの名前を呼ばないでくれるかなあ? てかそもそもアンタって誰え〜? アズちゃんこんなダッサイ男知らな〜い」


『……いや、違う。そうだ此奴は洗脳されているのだ。だから、心にもないことを無理矢理言わされているだけ――――――』


「アッハッハ、この便器にこびりついたクソ以下のゴミ存在は一体何を言ってるのかしらあ? 脅されてるだとか洗脳されてるだとか、よくそんな自分に都合のいいただの妄想をあたかも不変の事実であるかのように語れるわねえ。何が絶対悪ぅ? 何が全殺王ぉ? 笑わせないで。。もうアンタはアンラ=マンユでもなんでもない、ただの産業廃棄物に過ぎないんだからさあ♫」


 全殺王。そう、この哀れな『顔』の正体はまぎれもない=である。ただし、今その称号の枕詞には元という屈辱的な一字がつく。

 

 時は遡ること四ヶ月前、ちょうど今年のバレンタインデーの翌日のことだ。

 第二次天界大戦での敗戦により肉体を失い、されど四千年ぶりにようやく『瘴気』の塊として地上に復活した元全殺王は、まずはじめに草壁蜂湖くさかべほうこなる少女の身体を依り代に受肉を果たした。

 しかし、自らの強大な力を御しえないその身体に不満を抱いた悪魔は、続いて彼女の兄である草壁蟻間くさかべありまの身体に乗り変えることとした。


 されど難攻不落の巣鴨プリズンを突破し、独房に収監された草壁蟻間と顔を合わせた瞬間、元全殺王の中で自己矛盾が生じたのだ。


 全殺王、その『対応神格』はゾロアスター教に由来する絶対悪アンラ=マンユである。つまりこの世界のありとあらゆる生命体の中で最も醜悪な悪性を有していることこそが、彼に悪性を統べる王としての役割を付与する根拠となっている。


 話は単純、ただその前提が崩れたのだ。


 元全殺王と草壁蟻間。絶対悪を自称する前者よりも、ただの青年である後者がより醜悪な悪性を有しているのならば――――自然、絶対悪の地位はすぐさまより醜い悪性の方に移動する。

 そして元より肉体を持たない全殺王は、その力ごと青年の体内に取り込まれることとなった。


 あまりに大胆、あまりに荒唐無稽。しかしそれこそが彼等二人の身に起きた事実である。

 草壁蟻間は確かに『天骸アストラ』と天使化への適性こそ有していたが、その人生の中で異能に触れたことは一度もない。それでも彼は全殺王を圧倒し、その全てを奪い去った。極めて醜悪であるという、ただ生まれ持っての性質だけでだ。


『うぐ、ひぎっ、何故だ。何故なのだアズ……』


 『顔』改め元全殺王の形がグニャリと歪む。

 しかし、その魂を焦がすほどの怒りと憎悪は、現全殺王である草壁蟻間よりも、むしろ自分を裏切り見捨てたクソ女の方に向いていた。


『……ふざけるなこんのクソ売女がアアアアアアアッ!! 消えろ今すぐ死に絶えろッ!! 間男と姦通したうえ不義を謝することなく開き直るようなクソ女、この俺の視界に映すことすら穢らわしいッ!! クソッ、この俺をそんな目で見下すなアッ!! 思い上がるなよアズ、はじめから俺はお前のことなど何とも思っていなかったッ……!! お前のことを妻だなどと思い、愛したことは一度たりともなかったわッ……!!』


「キャハハハッ!! 何コイツぅ、ねぇねぇ蟻間くん今聞いたあ? アタシもね、裏切られたのがムカつくからブチ殺してやるってんならまーだ理解出来るわ。うん、まだ理解出来る。でもコイツって倫理に背いてるからって理由でアタシのこと非難してんだよ〜ヤバくない? それって悪魔としてどうなのかなあと思う。だってその思考回路そこらにいるお利口ちゃんな人間ちゃんとまるっきり同じじゃ〜んッ!!」


 業魔王は至極楽しそうに、そして至極呆れたように元全殺王を嘲笑う。

 その言葉がトドメとなった。元全殺王は最早怒りと悲しみと憎しみを抑え切ることが出来なかった。

 発狂、そしてただただ絶叫。まるでヒステリーを起こした女の金切り声のように、絶対悪だったものはひたすら叫んで叫んで叫び続ける。


「あーあーうるさいうるさい。男の僻みほど哀れで可愛いものはないですわねえ。もう、女の子は上書き保存なんだから仕方ないでしょ。だってアンタより蟻間くんの方が断然万倍、いや一億倍最低で最悪でかっこいいですものッ!! キャー、サラマンダーよりずっとはや〜〜い」


『クソックソクソクソクソッ……!! お前らなんか、お前らなんかみんなみんな大ッ嫌いだアアアアアアアアアアアアッ!!』


 気付けば『顔』の絶叫は止んでいた。

 単純に意識を保つのが難しくなったのが、それとも心がポッキリ折れてしまったのか。ともかくなんとか形を維持していた『顔』の形は、霧散するように崩れ、再び草壁蟻間の身体の中へと吸収されていく。

 そうして一度消えてしまえば、最早誰も彼のことを口には出さなかった。


「……おい、アズ。お前少し黙ってろ」

「はっ、は〜い、わかりましたあ。少しだけ、ほんのすこ〜しだけ我慢してあげますう」


 王の口調に含まれた殺意を感じとったのか、業魔王はやや不貞腐れながらも大人しく引き下がる。

 そうして草壁蟻間はようやくと言わんばかりに、先程からずっと黙っていた中年男の方へと向き直った。


「悪いな。そこの馬鹿女と出しゃばり雑魚野郎のせいで時間を取らせた」


「別に問題ねえよ。こちとらあの絶対悪アンラ=マンユ様に謁見させてもらえるってだけで感極まってんだ。急かすなんざとんでもねえ」


 男は仰々しく欠片も思ってもなさそうなことをペラペラと述べる。ただでさえ不快な外見に加え、この如何にもゴミ人間じみた態度。しかし、草壁蟻間にとっては厭うものではない。むしろ悪性を統べる彼にとっては好ましくすらあった。

 王はズボンのポケットに手を突っ込み、微かに白い歯を覗かせながら男の顔をまじまじと見る。


「フン、そうか。それにしてもこの俺に取引を持ちかけるとは随分と肝の座った野郎だ。なあ、古澤ふるさわ。そもそも碧軍へきぐんは俺たち悪の陣営と敵対しているのではなかったのか?」


 このふてぶてしい中年男、その名は古澤百藝ふるさわびゃくげい。国内における大規模霊的武装組織の一つである碧軍、その中でも特別な地位である『司祭しさい』の一人に数えられる男だ。


 碧軍が何かといえば、大方天界の代理執行機関とでも言ったところであろう。かつて天界は人間界に『天骸』を持ち込んでしまうことを恐れていたが、それでも下界の物事に介入しなくてはならないときはある。

 そのようなときに活躍するのが、人でありながら天に通じている彼等の存在だ。即ち碧軍とは兵器と術式を問わない武力を用いて、天使の代わりに天界の意向を実行することを生業とする霊的集団なのである。


 だからこそ、碧軍の『司祭』である古澤が草壁蟻間と接触するのはおかしいのだ。

 天界は今回の案件で明らかに草壁率いるダエーワの勢力を危険視しており、実際その命を受けた碧軍はここ最近ダエーワと何度も刃を交えているのだから。


「ハッ、何言ってんだ。アンタら悪魔は人間なんかよりよっぽど取引に拘る熱心なセールスマンじゃねえか。それに俺は碧軍司祭である以前に古澤百藝つー一人の人間でもあるんだよ。組織が組織全体で享受しようとしている利益と、個人の勝手気ままな思惑がそのままピッタリ一致することの方が不自然ってもんだろ」


 しかし、疑いの目を向けられても古澤百藝は呆気からんとしていた。あの絶対悪と対面しているにも関わらず、馴染みの居酒屋の親父にでも話しかけるような気安い態度。それだけでこの男が草壁や業魔王に勝るとも劣らない異常者であることは明らかであった。


「馬鹿を言うな。取引とは互いが互いの利益となることを確認してはじめて平等に成立する。貴方に私の魂を捧げます。見返りはいりません。そんな契約紛いの進上行為を提案されて、馬鹿正直に首を縦に振る悪魔はいない」


「ただ行けって言われただけの中間管理職にそんなこと聞かれてもな……まあ、とにかく俺の上はアンタの躍進を望んでいる。それだけは確かだ。だから見返りは必要ねえ。アンタは好きなように殺して、好きなように壊してくれりゃあそれでいいんだよ」


 そう言って古澤が放り投げたものを、草壁は難なく空中でキャッチする。

 それは無機質な白いカードであった。しかし、カードと言っても厚さはそれなりにある。まるで形の違うプラスチック片を重ねてミルフィーユにしたような奇妙な物体。その表面にはあみだくじのような金の溝が彫られており、少し『天骸』を流し込むと途端に緑と青の中間のような色が生じた。


「……お前の胡散臭さは否めないが、うん、確かにこれは『かぎ』だな」


 そう言いながら、草壁は懐から全く同じものを取り出す。視界の端では、業魔王もこれにみよがしに同じカードをピラピラ振っていた。


 王とその他の天使を区別する最も大きな基準はなにか? 

 単純に天使としての強さ、天界の指導者としての権力、それとも各王が数千年をかけて開発した『神権代行しんけんだいこう』?

 どれもこれも破格のファクターであることに変わりはないが、王を王たらせる最も重要な要素はこの『鍵』の存在である。


 『鍵』が有する権限は天界へのアクセス権。

 即ち天界に満ちる無尽蔵の『天骸』を、いくらでも自由に引き出すことが出来る王の特権である。


 第二次天界大戦において天界と敵対したことにより、今全殺王と業魔王が持っている『鍵』は天界へのアクセスを禁じられた状態にある。だから新たな『鍵』を提供するという古澤の提案は、彼等にとって正に渡りに船の幸運であったのだ。


「まあ『鍵』が王のみに許された特権である以上、モノの出所は粗方予想がつく。良いだろう。そこまで俺を利用したいというのなら、一度そちらの望み通り踊ってやる。だが、いつまでも高みから舞台を見下ろすVIPの気分でいられると思うなよ。クソヤロウにはそう伝えておけ」


 言いながら、草壁蟻間は天に『鍵』をかざす。

 これでひとまず最後のピースは手に入った。人類王勢力、悲蒼天ひそうてん後藤機関ごとうきかん、碧軍、そして天界。それら全てを敵に回したところで、問題にはならないほどの力がこの手にはある。

 されど、まだ不充分であった。王は自分の持っている『鍵』を他者に奪われたときのために、実際に天界へのアクセスを行う過程にそれぞれ条件を定めている。


 最後のピースは確保したが、使い方が分からないのでは意味がない。いや、そもそも前提として草壁蟻間には決してこの『鍵』は使えないのだ。

 なら諦めるのか? 冗談にしてもタチが悪い。自分で使うことが出来ないならば、ただ使える人間に使わせればいいだけの話である。


 ――――、『鍵』を開く条件は古より受け継がれてきた特異なる血の繋がり……か。


 例えそれがこちらを嵌めるための罠であっても構いはしない。

 実のことを言うとそれで自分が死んだとしても大した問題ではないのだ。ともかく愉しいことになると思った。だから其奴らを嬲ることにした。

 その思考回路に合理性や客観性は欠片も含まれていない。ただ最も心惹かれる悪の衝動に身を任せる。ただそれだけ。その純粋で一途な、まるでそこにあって当然の如き悪性、それこそが草壁蟻間を絶対悪たらしめる唯一の要素であった。



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