第九十一話 『敗軍の希望』 其の二
しかし、逆であった。
確かに一瞬の驚愕はあった。されど、必至の必死を告げられたにも関わらず、菱刈をはじめとする軍兵の諸々は――――むしろスッキリしたような、実に晴れやかな表情を浮かべていた。
「皆もいい加減、撤退戦などという女々しさ極まる戦いには嫌気がさしてきた頃だろう。最早逃げるために刀を振るう必要はなし。解禁だ。殺す、ただそのためだけに殺せッ!! 各々倒れるまでに一人でも多くの敵を屠り、かの悪魔どもに我等の武勇を知らしめてやるのだッ!!」
菱刈の言葉が終わると同時、島津兵の中から豪雨の如き雄叫びが上がる。
「おおおおおおおおおおおおおオオオオオオッ!!」
「クク、玉砕上等ッ。こうなったら精々一秒でも長く生きてやるさ」
「かははッ、良い知らせだ。これで俺も逃げ傷を負わずに死ぬことが出来る」
皆が皆勇ましく声を張り上げていた。彼等は消耗し切っているはずなのに、むしろ万全のときよりも猛っているようにすら見える。
いや、見えるだけではない。実際に彼等は鬼の形相でダエーワを斬り伏せていく。刃が血糊で駄目になれば峰で殴り殺し、それも折れれば今度は鞘を持ち出す。比喩などではなく正に修羅の所業であった。
「なんで……? なんでなんですか。なんでまだ戦えるんですかッ……?」
思わず息を呑む。そして目元が湿り、鼻の奥に熱いものが押し寄せる。
彼等のあり方は確かに勇ましい。されどそれ以上に悲しいものであった。何故彼等が死ななくてはならないのだろう。その理不尽に歯を食い縛る。そしてこの理不尽を覆せない無力な己に失望する。
彼等がいくら死力を尽くそうとも得られるものなど一つもない。にも関わらず最後の一瞬まで命を燃やそうとするその姿に、松下の心と顔は怒りと悲しみと悔しさとでぐちゃぐちゃになっていく。
「ううっ……なんで、なんでこんなことになっちゃったんですかッ!!」
そんな松下の様子を知ってか知らでか、菱刈が思い出しようにこちらへ視線だけを向けた。
「まだいたのか小娘……何を泣く必要がある。確か貴様は『
「……菱刈さん、それはっ」
間接的に逃げろと言ってくれていることは分かる。
だが、そんなことが出来るのか? 皆、命を懸けて戦っている。実際に死んだ者も数知れない。そもそも今この場にいる人達は一人残らず死ぬ。
なのに自分だけが逃げていいのか? 理不尽に抗わず、自分だけが惨めな生き恥を晒すことが果たして許されるのか!?
そんな葛藤の果て、気付けば松下は菱刈の袖元を掴んでいた。
「なんだ小娘」
「……一人、です。一人までなら私の『虚空』で一緒に連れていくことが出来ます。まだこの地獄のような包囲から逃げることが出来るんですよ。貴方の言う通り、私は生き延びます。ですがもう一人だけ、助けられる命は私にも助けさせて下さい」
しかし、菱刈はすぐにその手を払う。
目を細め、遠くを見つけるその顔には、いつしかの日々を思い出すような哀愁が漂っていた。
「冗談を抜かすな。我等島津家中は皆、共に同じ釜の飯を喰らい、同じ戦場を掛けてきた戦友ぞ……俺を幼い頃から知っている者も、俺を兄のように慕ってくれた者ももう先に行った。だから、死ねせてくれ。この世界に俺一人だけ生き残っても意味は無いのだッ……!!」
「でもッ!!」
正にその瞬間であった。
周囲にダエーワの姿はなかった。だからそれは強襲であった。遠くを飛んでいた飛行型ダエーワの一匹が凄まじい速度で菱刈の元に飛び込んで来た。
鋭い牙が大将の横っ首を食らう。肉が裂け、その下より真っ赤な鮮血が霧のように吹き出す。
「ぬぐうううおおおおおおおッ……!!」
「菱刈さああああんッ!!」
しかし心配は無用であった。
菱刈はすぐさま右手の軍刀を、ダエーワの脇へ素早く二度突き入れる。悪魔が怯み、顎の拘束が微かに緩んだ隙を突いて、ダエーワの首に手を回し、勢いよく地面に叩きつける。そして馬乗りになり、後ろからその首を豪快に刎ね飛ばす。
「早く失せろッ……」
しかし、やはり首の傷は致命傷であった。
太い血管が傷付けたられたのか、滝のように傷口から血が流れていく。
「次だ、次に繋げるのだ……ッ!! 大方ヴィレキア殿も考えも同じであったろうよ……全滅してはそれこそ皆の命が無駄になる。一人でいい、だが誰かが生きて戻らねばならぬ。そして、その一人とは貴様だ小娘。ここで見聞きしたものを多くに伝え……次に戦う者達が、我等のような犬死にを晒さぬようにせよ」
息も絶え絶え、その目は最早前が見えているのかも分からない。それでも菱刈の視線は確かに松下に向いていた。死の恐怖に怯え、隣人の死に震え、戦場の残酷さに心を蝕まれた少女の姿に、武人は血が滲むほどの強さで歯を噛みしめる。
「だから、小娘が首を突っ込むなと言ったのだ……これが最期だ。失せろ。そして、二度と斯様な場所に戻っては来るなッ……!!」
「ッ…………!!」
それが、最後のきっかけとなった。
されど松下は分かったと言うわけでも、嫌だと拒絶するわけでもない。結局声に出して具体的な答えを返すことは出来なかった。
啜り泣き、唇を噛み、それでも彼女はやがて菱刈に背を向ける。そしてその直後、戦場から一人の少女の姿がパッと手品のように消え失せた。
♢
「……それでいい」
直後、その場に一人残された男はバタリと充電の切れたロボットのように崩れ落ちる。
残念である。無念極まりない。折角戦友と共に戦いながら死ねる舞台があるにも関わらず、菱刈の体は既に限界を迎えていた。
体が重い。頭がぼうとする。直前に考えていたことすら思い出すことが出来ない。
両目の視界もまるで霧がかかったようであった。そして、なにより眠い。眠くて、寒くて堪らない。このまま目を瞑れば温かくなれるのだろうか。らしくもない弱気が脳裏をよぎる。
「おのれ、あの小娘のせいで吸いそびれたわ……」
そこで、菱刈はポケットに入っていた煙草の箱を取り出した。血と汗でぐしゃぐしゃになったその中から、震える手でなんとか一本引き抜く。それをいつものように口にくわえ、安物のライターで火をつけようとする。
しかし、結局その煙草に火が灯されることはなかった。
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