第九十一話 『敗軍の希望』 其の一


 ハアハアと荒い息を吐く。

 服は不快な汗でびしょ濡れで、喉の奥から絶え間なく吐き気が押し寄せる。そして、酷く喉が乾く。まるで脳が干からびたのかと思ってしまうほどにカラカラであった。

 それでもなんとか一歩を踏み出す。その度にダエーワに裂かれた体の傷が痛む。足も疲れ――いや、疲れてはいない。傷付いた身体を無理矢理動かし続けるうちに、両足の感覚はいつのまにかなくなってしまっていた。


 血の匂いで満ちた戦場の中は、大人達の必死な怒号がひっきりなしに飛び交い続けていた。最早怒鳴りつけるを通り越して叫んでいるに等しい。喉から血が出るのではと思うような声量で、またどこからか悲痛な叫び声が上がる。


「クソッ、また一人落ちた。祁答院けどういん隊残り四ッ!!」

「誰でもいい、予備の軍刀を寄越せ。俺のは血糊で使い物にならんッ!!」

菱刈ひしかり様、北郷きたごう武良たけよし様以下北郷隊ほぼ全滅の様子。最早回収は不可能かとッ!!」


 正しく四面楚歌、まるで地平線の彼方まで広がる大海原の如く、視界の届く限りの全てがダエーワの群れ埋め尽くしていた。

 彼等が海ならば、こちらは精々それに揉まれる魚群とでも言ったところか。ヴィレキア卿と全殺王が激突した後、生き残っていた人類王勢力の一部はどうにか合流することが出来た。されど、今ここにいる幾らかの島津兵と松下希子まつしたきこのみ。それ以外の味方の生存は最早絶望的なものであった。


「怯むなッ!! 大まかでいい、円陣を組め。気炎万丈なる者で外周を囲い、戦えなくなった者は随時内側に退避させろッ!!」


 菱刈の下知に指揮官クラスが応と答え、瞬く間に島津兵の隊列は横長の円形となる。全員が背中を気にすることなく、前方の敵のみに注力出来る陣形だ。

 そうして彼等は隊列を保ち、なおかつ迫り来るダエーワを切り飛ばしながら、少しずつ隊全体を西へ西へと逃していく。


「山田ッ、あと何人残っているッ!?」

「……二十、三人です」

「――――ッ!! まさか島津家中たる我等がここまでの損害を被るとは……いや、だがまだ二十二人残っている。この二十二人には必ず生きて帰ってもらうぞッ!!」


 菱刈が隣の山田なる男と言葉をかわすのを、松下希子は円の内側から眺めていた。

 誇張抜きに今この場所は地獄であろう。島津兵は生き抜くために修羅と化し、ダエーワ達もこちらを狩り潰すために死兵の如く群がってくる。

 ただ守られるだけなど出来るはずもない。松下も陣の内側でその身を休めながら、ときたま音撃を飛ばして島津兵を援護するのだが、


 ――――ヴィレキア卿ッ……!!


 少女の必死な顔が、更なる悲痛にぐにゃりと歪む。

 その身にサンダルフォンの因子を宿す松下は異常なまでに発達した聴覚を有している。だから彼女はヴィレキアと全殺王なる大悪魔の戦いをリアルタイムで聞いていた。

 松下は知っている。彼がアンラ=マンユを足止めするためその場に残ったことを。そして全殺王が卿天使と謳われた彼すら圧倒して見せたことを。そして、彼が今この瞬間ダエーワに食われて死んだこともだ。


 ――――……立派な最期でした。貴方の遺したくれたものを決して無駄にはしませんッ……!!


 ヴィレキアがその死の間際、全殺王に関する情報を叫んだのは、耳の良い松下が聞き取ることを期待してのことなのだろう。

 そして今、彼の死を知っているのもまた松下だけだ。黙っていいはずかない。他の者はともかく、皆の命を預かっているあの男にだけは伝えなければならない。だから松下は覚悟を決め、陣の内側から外側、その最前線へと向かっていく。


「進路を変えるッ!! 右方へ四分の修正、包囲の薄い箇所を確実に突いていけッ!!」

「菱刈さん……」


 一人でも多くを生かそうと懸命に指揮を振るい、自らも先頭に立って奮戦を続ける菱刈某。松下は躊躇いつつも、その背中に一言声をかけようとする。しかし、続く言葉は不要だった。


「……ヴィレキア殿は、敗れたのか」


 振り返りはしない。ただ驚くような、されど、どこかそのことを予感していたような絶句の声が漏れる。そんな菱刈の様子に松下はただ震える声で「はい」と答えることしか出来なかった。


 ヴィレキア卿が死んだということは当然、まもなく全殺王がこの追撃戦に参加しするということを意味する。

 あの卿天使すら数分の足止めがようやくだった相手を、松下や島津家中の人間だけでどうにか出来るはずもない。


 だから、その一言は半ば自分達に向けた死刑宣告でもあった。ヴィレキアは死んだ。最早包囲を抜ける望みは万に一つもない。今この戦場にいる人類王勢力の面々は一人残らず死ぬのだと、そう断言するに等しい。


 斯様な理不尽を告げられ、一体彼等は何を思うだろう。残酷な現実に怒るのだろうか、それとも自分達の無力感に悲しむのだろうか。


 否、そのどちらでもない。島津を率いる菱刈はそこで、ふうと食後の一服じみたため息を漏らすと、


「総員傾注ツ!!」


 まるで雷が落ちたのかと思うほどの大声を張り上げた。

 その一喝で、兵達の意識の一部が菱刈に割かれる。全ての男達は目の前のダエーワを殺すことに専念しながら、一方耳だけは菱刈の次なる言葉に備えていた。


「ヴィレキア殿は討ち死になされたツ!!」

「ちょっ!!」


 驚愕。

 されど、菱刈は情報を隠すわけでも誤魔化すわけでもなく、純粋に今ある事実を味方に告げた。


殿しんがりが斃れた以上、全殺王なる天使は必ずや我等の背を襲うだろう。そして、全殺王はあのヴィレキア卿すら打ち倒せなんだ猛者である。残念ながら、最早我々がこの包囲の外に出ることはありえない。既に我等の死は決定したに等しいッ……!!」


 松下は戦慄する。

 そして、何故そのようなことを態々言うのかと困惑する。それは今まで必死に戦ってきた仲間を絶望の谷へと突き落とすようなものだ。ならば敢えて事実を伏せ、自分達が全滅するその瞬間まで、まだ可能性はあると希望を持たせた方が遥かに良いだろうに。


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