第九十話『剣の誉れ』其の三

 されど、全殺王はその更に上を行く。

 二枚の翼を備えていた王の背中、そこから更に四枚の翼が追加で飛び出したのだ。


 あとはもう驚愕のうちに終わっていた。

 悪魔の六翼が一斉にヴィレキアの翼盾を激しく打つ。ただそれだけで天使の体はまるで爆撃でも受けたかのように吹き飛ばされる。


「グッ、ゴバァッ……!!」


 口からこれでもかと血を吐く。

 それはあまりにも致命的な一撃であった。


 確かにヴィレキアは優れた天使であるが、その一方秦漢華のように防御系の術式を備えているわけではない。つまり攻撃は高火力な一方、その防御は比較的貧弱なのだ。


 まるで体が内側から弾け飛ぶような感覚、体のどこかが引きちぎれなかっただけでも奇跡に近いだろう。

 そして、ゴンという鈍い音と共に頭から地上に叩き落される。妙に後頭部が地面の中に沈む。いや、違う。正しくは地に叩きつけられる衝撃で頭蓋骨が潰れたのだ。

 瞬く間に内なる出血で目の前が真っ赤になる。熱い、妙に体が熱い。なのにその末端は自分でも驚くほどに冷え切っている。まるで死にかけの虫みたいに、全身の筋肉がピクピクと痙攣していた。


「どうやら潮時のようだな。だが、安心しろ。幸いお前は試金石としての役割を充分に果たしてくれた。そこだけは感謝してやってもいい。よくやったな」


 倒れ臥すヴィレキアから少し離れたところに、悪魔の王はふわりと優雅に降り立つ。そして、倒れ臥しているヴィレキアに向けて、『瘴気』に包まれた右腕を突き出す。


「だが最早不要だ。よってここで処分させてもらう」


 あとは全殺王が『瘴気』を噴射すれば、ヴィレキア=サルテは体が腐り落ちて死ぬ。そうして物語の幕は降りるのだと誰もが思っていた。


「……ふざ、けるな」


 ピクリと動いたのだ。

 頭の半分を潰され、最早意識も薄いであろうに関わらず、ヴィレキア=サルテはまだ動いていた。


 はじめは足の先が震える程度の微かな動き。それでも彼はやがて身を起こし、その場に自分の足で立ち上がる。

 両腕を失い、『天骸』を使い果たし、更には頭部に致命的な重傷を負ってなお、武人は諦めることを良しとしなかった。

 正に風前の灯。立つことすらまともに出来てはおらず、何もしなくても彼の天使体は近いうちに崩壊するだろう。


 だがそれでも卿天使は屈しない。

 そんな彼の必死な様に、全殺王はただ純粋に小首を傾げる。


「何をしてる。まさかそんな半分死んだような体でまだ何か出来るとでも思っているのか? さっさと諦めて、とっとと死ね。こちらとしても最早お前という産業廃棄物から得られるものはなにもないからな」


 全殺王が何か言っていたが、ヴィレキアにとってそんなことはどうでも良かった。辛うじて耳に残ったのは諦めろという一言だけ。だが例え他の全てを譲ったとしても、その甘い囁きだけは受け入れてやることは出来ない。


「屈する、わけには……いかないッ……!!」


「…………ほう」


「人類王、勢力……あの者たちは、この私を信じてくださった。こんな私を頼ってくださった。主人を守ることすらできず、オメオメというのに地上まで逃げてきたこの私に、彼等はまだ希望を託してくださるのだ」


 最早息も絶え絶え。何度も何度も言葉に詰まりながら、それでも卿天使は最期の瞬間まで抗おうとする。


「だから、私は戦う……このヴィレキア=サルテ=ヤーデスクライ=ルルースク。今この一瞬だけは卿天使として忠を尽くすのでも、天界の防人として正義をなすのでもない。今度こそただ一人の人間として私は……いや俺は、自分の護りたいと思ったものを護るためにこの命を燃やすのだッ!!」


 本当は、泰然王の変で敗将として死にたかった。

 主君たる黄道王を喪った時点で、敵軍の中に突撃でもして死ぬべきであったのだ。

 だが出来なかった。正しくはしなかった。黄道王の後を考えなしに追うことよりも、今はこの場を逃げ延び、主の代わりに生きて泰然王を討つことこそが真の忠義だと判断したからだ。


 されど、そう頭で分かっていても心が納得してくれるわけではない。如何に高尚な理由を並べようとも、自分が自分の護るべきものを護らず逃げた卑怯者であることに変わりはない。


 だからこの戦いは彼にとって救いであった。

 今はヴィレキア=サルテが命尽きるまで敵を足止めすることこそが最善。だから感情を合理性で縛ることなく、ただ盟友のために死力を尽くすことが出来る。武人として、一度でも剣を取ったものとして、これ以上に誇らしいことが他にあるだろうか。


「……フフッ」


 対して全殺王が返すのは嘲るような笑い声。

 それまで苛立ちを覚えていた悪魔の顔に、まるで新しいおもちゃを見つけたような薄い笑みが浮かぶ。


最高最悪だ。最高最低美しい醜いな、それ。よし、気が変わった。先程諦めろと言ったのは取り消させてくれ。俺はお前のその覚悟を、自分の身を犠牲にしてでも僅かな希望を掴もうとするその高潔な善性を――――」


 大悪魔はそこで無駄に言葉を溜め、


「暴力という理不尽をもって完膚なきまでに踏み躙りたくなった。お前の覚悟を、信念を、その全てを冒瀆したい。そうだ、既に諦めた者を殺して何が楽しい。絶対に絶望しない善なる者を絶望させる、それこそが絶対悪たるこの俺のみに許された至極の背徳ではないのか?」


 全殺王はゆっくりと歩み寄ってくる。

 だが、まだだ。まだ終わっていない。攻撃手段は尽きてもまだ機動力は生きている。勝つことは出来なくても負けないようにすること出来る。悪魔の攻撃をかわし続ければ、それだけこの王をこの場に釘付けにし、人類王勢力が戦場から撤退するだけの時間を稼ぐことが出来る。

 それがあと五分か十分か、それより短いか長いかも分からない。だがそれでもまだこの命に使い道は――――、



生存と斃死ナールギァ



 全殺王は囁く。ヴィレキアはその言葉で自分の体に何が起きたか分からなかった。いや、正しくは受け入れることが出来なかった。何故ならそれはあまりにも理不尽であったから。そんな理不尽な力が存在してはいけないと、心の底から嫌悪すべきものであったから。


「あぁ……」


 ヴィレキア=サルテは全殺王の一言によって死亡した。مرگナールギァ、そのペルシア語が指し示す意は死。悪を統べる王というからには当然といえば当然、人間が古来から最も忌み嫌う死の概念を操れないという方がおかしい。

 だが、それでも認めたくなかったのだろう。言の葉一つで命を奪える、全殺王アンラ=アンユがそれほどまでに恐ろしい存在だと信じたくなかったのだろう。


 気力は未だ充分、されどヴィレキアの天使体は遂に肉体としての死を迎える。

 『天骸』で象られた偽りの体は、蛍のような小さな光となって、淡く宙に溶けていく。燃えるような赤い髪と褐色の肌は、それぞれが元の青と金に戻る。更には人間としての彼が本来有していた色彩、即ち黒い髪と茶の瞳にと変わっていく。

 天輪がなければ、翼もない。黄道王直属たる卿天使の一人に数えられ、インドラになぞえられたその男は、まぎれもない一人の人間と化していた。


 抵抗する術は、今度こそ何もない。卿天使の命に意味はなくなった。いや、もしかしたら最初から無意味だったのかもしれない。こんな僅かな時間で人類王勢力が包囲を抜けられたのだと、願うことは出来ても信じることは出来ない。


 最早、そこには絶望しかなかった。


「さてと」

「グフッ…………!!」


 この世の終わりのような表情を浮かべるヴィレキアの顔面を、全殺王は首がギリギリ折れない程度の力で蹴り飛ばす。

 そして、倒れ伏した卿天使の顔を渾身の力で踏みつける。何度も何度も踏みつける。ヴィレキアの顔面がただの赤い塊となっても蹂躙をやめようとしない。


「結局足止めにもならなかったな。華々しい幕引きを穢された気分はどうだ? 誇りと命を賭けて戦って、それが全て無意味に終わった感想はどうだ?」


 そしてニヤリと、声は出さず口元だけで下卑た笑みを表現する。


「余裕だ。まだ時間的猶予はたっぷりある。人類王勢力と言ったか、一人残らず殺してやるさ。全員まとめて畜生の餌にしてやろう。弁当箱の隅に張り付いた米粒を、残らず食べ切るように徹底的にな」


 しかし、そこで全殺王はあっと我に返ったような声を上げると、


「あぁ、いかんな。ここであまりお前に構っていては本当にお前の死に意味を与えかねない……さて、もういいぞ。あとは好きにしろ」


 その一言がきっかけとなった。

 それまで二人の周囲から離れていたダエーワ達が、まるでハイエナのようにヴィレキアに襲いかかる。ある個体は横腹に噛みつき、ある個体は残った足を引きちぎり、その肉を余すことなく捕食しようとする。

 最早ヴィレキアは何も言わない、何もすることが出来ない。全てを諦め、悲鳴をあげることもせず、ただ食われる肉として沈黙する。いや、最早彼は既に事切れているかもしれない。だから、全殺王も最早彼を気にかけることなく、そのままこの場を去ろうとする。


「……此度の、黒幕」

「はあ?」


 絞る出すような声に、大悪魔は思わず振り返る。

 肉に集るダエーワの山、その下からあの武人の怒鳴り声が聞こえてきたのだ。


「その正体は全殺、王。第二次天界大戦において、泰然王に敗れたもの。対応神格はゾロアスター教の……絶対悪アンラ=マンユッ!!」


 遺言であろうか、それとも全殺王の情報を死ぬ間際に残そうとしているのか。哀れ、周囲に人類王勢力の姿はなく、その声は誰のにも届かないというのに。


「……有する権能は、『対立概念提示』。対象に対立する、二つの概念を提示し、対象が悪と思った方の概念を自在に操るッ、だが一度に操れる概念は一つのみ――――ギグワアアアアアアアアアッ!!」


 横腹を食らっていたダエーワが中身を引きずり出す。最早ダエーワの下でヴィレキアがどうなってるのかは分からない。


「…………翼数は六翼セラフィム。瘴気に触れれば、体が腐る。攻撃を打ち消す、飛行体を撃ち落とす、術式を乱す……そして、言葉のみで人を殺すッ!!」


 脈絡のない言葉、まるで箇条書きのような断片的な情報。それでも卿天使は残す。未だ希望は途絶えていない。そう信じて、言葉と希望を託すのだ。


「全殺王。其の方は……お前は、ただ俺に勝っただけだ。俺達に勝ったわけではない。人間は決してダエーワなどに敗れない。俺が倒れたとしても、立ち上がる。その次が殺されたとしても、必ず誰かがお前を倒すッ!! またすぐに眠らせてやる、何度蘇ったっところで、その度に殺してやる。そのことをゆめゆめ忘れるな、全殺王ッ!!」


 それがヴィレキア=サルテ=ヤーデスクライ=ルルースクの最期の言葉になった。最後の最期に声を張り上げ、それで遂に事切れた。


 だが、彼は笑って死んでいった。

 精神的に覚悟を踏みにじられ、物理的に腹を食い破られ、それでも笑って死んでいった。

 自分が死んでも後に続く者がきっといる、そんな根拠のない希望だけで笑うことが出来たのだ。


 結局、全殺王はその卿天使を絶望させることは出来なかった。


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