閑話 『あの日 中編』


 悲鳴をあげる余裕はなかった。

 具体的な対応なんて取れるはずもなかった。

 そもそもその瞬間に一体何が起きたのかを、彼女達は認識することすらも出来なかった。


 鼓膜を破らんばかりに耳をつんざく爆音。

 まるで暴れ馬のようにのたうちまわる地面。

 建物のあちこちが悲鳴をあげ、ガラスの割れる嫌な音が嵐のように吹き荒れる。


 爆発の瞬間、松下は紗織を庇おうと、反射的にその身の上に覆いかぶさっていた。胸の中で爆発しそうな恐怖と不安を抑え込むように、二人は互いの体を強く固く抱きしめ合う。


「――――何が――――起きたんですか」


 そのまま二人でひたすら衝撃に怯え続け、いったいどれだけの時間が過ぎただろうか。

 やがて爆発音が落ち着き出すと、松下は煤だらけになった顔をこすって、不意に辺りを見渡そうとし、


「……ッ!!」


 その惨劇のあまりの凄まじさに、ガクリと膝から崩れ落ちてしまう。


 人々の笑顔で溢れる休日のショッピングモールは、先程の大爆発を以って阿鼻叫喚の地獄と化していた。

 そこら中の壁や床やらは滅茶苦茶に吹き飛ばされ、狭い階段の中を瞬く間に炎と黒煙とが満たしていく。加えて今この瞬間も、建物の骨組みは少しずつ崩れかけつつあり、視線の先では天井からバラバラと瓦礫が降り注いでいる様が見てとれた。


「……ははっ」


 何も面白くないはずなのに、思わず乾いた笑いがこみ上げてくる。

 そのとき、松下は今自分が生きていることをまるで奇跡のように感じていた。そしてそれ以上に、先程の爆発で、想像もつかない数の人たちが亡くなってしまったことを確信していた。


 きっとメインフロアの方は今松下が思っているよりも、ずっと酷いことになっているに違いない。事実そちらの方に意識を集中させてみると、途端に喉が裂けるような慟哭の嵐がこちらまで聞こえて来た。

 ある者は言葉にならない叫び声をあげ、またある者は死んでしまったであろう知り合いや家族の名を、ひたすらに呼び続けている。


『――――――ぶふっ、ぎゃはっ、ぎゃははははははははははははアアアアアアアアアアアアッ!! 』


 しかし、そんな悲鳴と慟哭とで溢れる地獄の中に、あまりにも場違いな笑い声が一つ。この大惨事を引き起こした張本人、古澤百藝ふるさわびゃくげいは盛り狂う炎を背景に、心底愉快そうに笑い狂っていた。


「はぁ、おもしろ。やっぱな、女子供が混ざってると悲鳴の質が違うんだよ。まさか自分が死ぬとは思ってない連中をこうしてブチ殺す方が、なんかこう背徳感があるっていうか、より勃つっていうか――――』

『テメェやりやがったなアアアアアアアアアッ!! 思い上がるなよ天界、犠牲を許容する革命に未来はねぇぞおオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』


 対する色男の怒りはそれはもう凄まじいものであった。その美しい顔はあまりの憤怒に歪み散らし、歯を食いしばり過ぎたのか口元からは鮮血が滴り落ちている。

 しかし、当の古澤はこの地獄に相応しくない怠惰な表情を浮かべていた。


『……あ〜あ〜本当ゴチャゴチャ小うるせえガキだなテメェは。仕方ねぇだろ、こうでもしなきゃテメェらいつまでも追っかけ回してくるじゃねぇか。そうだな、言うなりゃこれは正当防衛だ、正当防衛。恨むならテメェの無力さを恨むんだな正義のヒーローさんよ』


 そこで古澤は色男達を嘲笑うように、下手くそな敬礼を決めて見せる。


『さて、それでは清く正しい『悲蒼天ひそうてん』のみなさんッ、いつも通り人命救助の方よろしくッ!!』


 古澤百藝はそんなふざけた言葉だけを言い残して、引き連れてきた『碧軍へきぐん』と共にどこかへと去ろうとする。しかし、それで激情に駆られたあの色男が、大人しくこの場から引き下がるはずもない。


『待ちやがれこのクソ野郎オオオオオオッ!!』


 彼はその身を焼くような憤怒に突き動かされるがまま、すぐに奴等の背中を追おうとする――――が、そこで不意に肩を後ろから掴まれてしまった。


『なにしやがんだ鈴久すずひさッ!! いくらテメェでも容赦しねーぞッ!!』

『いいから少し落ち着け。そうやってすぐにカッとなるのはお前の悪いところだ。今は奴等を追うよりも、被害者を救出する方が優先だろう』

『カッとなって何が悪いッ!! 俺はテメェみたいな冷血野郎とは違うだよッ!!』

『……お前には、私たちが怒ってないように見えるのか?』


 はじめは気でも触れたかのように怒り狂っていた色男であるが、男女の言葉によってその高ぶった感情を徐々に沈めていく。そしてやがて彼は体の中身が入れ替わりそうなほどに、深く長い溜息をついた。


『……悪りーな、今ので頭冷めたわ。分かった、俺は上に取り残された人間がいねぇか探してくる。お前は下の連中のフォローをしてくれ』

『それでいい。今は私たちに出来ることをするしかない』


 そうして二人はもう一度互いに目を見合わせると、人間離れした素早い動きで嵐のように去っていった。


「なんなんですか、あの人達は……?」


 そうして確認の為に周りを見渡してみるが、今度こそ今自分たちの周りには誰もいない。そこでようやく恐怖に固まった体が解放され、彼女達はその場から動き出すことが出来た。

 まだ頭は状況に追いついていないが、いうまでもこんなとこにいては、命がいくつあっても足りなくなる。


「逃げましょう」


 松下がそう言うと、紗織は心ここに在らずといった具合にコクコク首を縦に振る。

 ダメだ。この子はもう完全に心が参ってしまっている。やはり、ここは彼女の代わりに自分が頑張らなければならない。時には姉として、時には親友として、そして時には幼馴染として、松下はいつも紗織のことを守り続けてきたのだから。


「ほら、行きますよッ!!」


 松下は腰を抜かしかけている紗織の手を引き、炎と黒煙が満ちるなかを搔き分けるように進んでいく。

 売り場の方は既に火の手が回っており、その中を進むには道を大きく迂回する必要がある。それにあの爆発の衝撃では、エレベーターの方も故障しているに違いないだろう。

 幸い階段の方はまだ無事だったので、二人はそれを使って転げ落ちるように下へと下へと降りていった。


「――――紗織ッ!! ――――どこにいるのッ!?」

「この声は?」


 そうして三階ほど下に下ったところで、メインフロアの方から聞き覚えのある声が微かに聞こえてぬる。松下達が慌ててそちらに駆け寄ってみると、そこには炎と黒煙が跋扈するなか、必死に二人を探す紗織の母の姿があった。

 その顔は煤で大いに汚れてしまっているが、幸い特に大きな怪我はしてなさそうである。


「お母さんッ!!」


 母がまだ生きていることを確かめられ、一気に緊張の糸が切れてしまったのだろう。

 紗織は今にも泣きそうな声をあげながら、その懐へと真っ先に飛び込んでいった。対する紗織の母も、涙ながらに己が娘を抱き寄せる。


「良かった……紗織も希子ちゃんも無事でッ!!」

「――――ねぇお母さん、は?」


 涙ながらに二人の無事を喜ぶ紗織の母であったが、そんな娘からの言葉に思わず顔を歪ませてしまう。奥歯を噛み締め、目を泳がせ、そんな不自然な間の後に、彼女はポツポツとこう続けた。


「……お父さんはね、あのときタバコを吸いたいからって外に出てたの。だから、心配いらないわ。そんなことより今は早くここから出ないとッ!!」

「うん、分かった」

「はっ、はい……」


 それはまるでこれ以上は話したくないと言わんばかりの、強引な話の切り方であった。松下はそこから、先程の爆発で紗織の父が亡くなってしまったことを何となく察してしまう。

 確か紗織の父は元々タバコなんて吸う人ではなかったはずだ。そんなことすらも忘れてしまうほどに、この母子は混乱しているのだろうか。

 今は考え事などしてる暇はないというのに、どうしてもそのことが気になってしまう――――だから、彼女はその爆撃じみた崩壊の予兆に、咄嗟に反応することが出来なかったのかもしれない。 

 残りの二人から少しだけ遅れて走っていた彼女の体は、突如巨大な影によって包み込まれることとなった。



「ん」



 松下が反射的に上を見ると、そこには天井部分が崩れて降り注ぐ、圧倒的な質量の濁流があった。

 今更気付いたところで、最早絶対に避けきれない範囲と速度。その瞬間、彼女は子供ながらに自らの死を確信していた。


 ああこれは絶対に助からないな――――とまるで他人事のように思っていると、時の流れが何故か異常なまでにゆっくりに感じられる。もしかして、これが俗に言う走馬灯というものなのだろうか。


 しかし、別にそんな猶予を与えられても、一々あれはよかっただとか、これは楽しかっただとか振り返れるほど長い生涯は送っていない。

 強いて言うならば、自分が死んだあと誰が紗織を守ってくれるのか心配になったぐらいだ。しかし、そんな思考もやがて意識から消える。幼い少女の心の中には、そんなどこか自分らしくない諦念と、死に対する漠然とした恐怖だけがあった。



「――――えっ」



 しかし次の瞬間、自らの死を悟ったとき以上の衝撃が、少女の頭を電撃のように突き抜けた。

 何故だ、何故あなたがそこにいる。

 瓦礫の濁流が少女の体を押し潰す直前、こちらに向かって必死に飛び込んで来た一人の影。それは間違いなく紗織の母の姿であったのだ。


「うっ……!!」


 その無我夢中な両腕に弾き飛ばされ、松下の小さな体は床の上を跳ねるように転がっていく――――その直後、走馬灯のようになっていた時の流れは元に戻り、先程まで松下がいた場所を瓦礫の山が一挙に押し潰した。



「――――嘘」



 それはあまりにも呆気ない一瞬であった。

 人が死ぬところなど一度も見たことがない少女にとって、その光景はあまりにも現実からかけ離れており、目の前で何が起きたのかを認識することも出来なかった。


 松下はまるで何かを求めるように、朱に染まった瓦礫の方に手を伸ばす。

 積み重なるコンクリートの山の中からは、かつて紗織の母であったものの腕だけが微かに飛び出しており、その足元をどこかドロドロした赤い液体が伝っていく。

 そこで彼女はようやく紗織の母が自分をかばって死んでしまったことを理解した。僅か七歳の未熟な幼子の心に、人の死が確かな実感として刻み込まれていく。



「痛い痛い痛い痛いッ!! 痛いよ希子ッ!!」



 しかしその絹を裂くような親友の悲鳴に、松下はその場でハッと我に返った。

 慌てて後ろを振り向くと、そこでは紗織もまた瓦礫の山に両足を巻き込まれていた。松下は慌てて彼女の元に駆け寄るが、その上に覆いかぶさるコンクリートはあまりに巨大で、とても小学生の細腕では取り除けられそうにない。


 どうしようどうしようと、焦りで手が震える。

 燃え盛る火炎と、胸の内の焦燥感が、瞬く間に口の中から水分を奪っていく。

 このままでは大切な親友の命が危ないというのに、少女の頭を埋め尽くすのは堂々巡りな思考ばかりで、何も具体的な行動を起こすことは出来なかった。


「えっ」


 そうして松下が意味無くもたついているうちにも、紗織は一つの残酷な事実に気づいてしまう。


「――――お母っ、さん?」


 松下を挟んだ向かい側の瓦礫の山。そこから飛び出す右腕を目にした途端、少女の顔から全ての感情が消失した。

 そうしてその正体を理解すると共に、彼女の魂は燃え上がり、そして猛狂った。先程の悲鳴とは比べ物にならないほどの慟哭、そしてその小さな体から発せられているとは思えないほどの絶叫。彼女は自分の足が滅茶苦茶になることを構いもせず、無理矢理に母の方へと手を伸ばそうとする。


 しかし、それでも幼子の貧弱な力では瓦礫の拘束を振り払うことは出来ない。足を引きちぎってでも母の元に駆け寄りたいのに、彼女にはそんなことすらも許されないのだ。


「――――希子」


 だから紗織は最後に、松下の方へ縋るような視線を送った。

 それは希子はいつも自分を助けてくれたのだから、このどうしようもない状況だってどうにかしてくれるという、一方的で無責任な盲信の表れであった。


 そんなことはありえないのだと分かっていても、紗織は自分だけのヒーローにそう縋らずをえない。今の彼女にとって、それ以外に母を救う道はないのだから。


「お願い希子ッ!! 私のことなんていいからお母さんを助けてッ!!」

「で、でも」

「助けてよ希子ッ、またいつもみたいに助けてよッ!! お願いだからっ、お母さんを助けてよおおおおおおッ!!」


 それでも紗織は喉に血が滲まんばかりに叫び散らす。それは先程の悲鳴とは比べものにならないほどに、必死で懸命な魂からの懇願であった。


「――――私はっ、私はっ」


 それでもやはり、松下希子にはこの母子を救い出すだけの力はない。

 だって仕方がないではないか。こんなの力のある大人の男にだってどうにか出来ることじゃない。それをこんな幼く小さな体で、一体何をなせというのだ。


 仕方がない。止むを得ない。詮方ない。

 そんな心地の良い言い訳が少女の心を満たしていく。そしてそれと同時に、今の自分では紗織を守ることは出来ないのだと思い知ってしまった。


 そしてそんな諦めが、そんなアイデンティティの崩壊こそが、松下希子をこの場に繋げとめていた最後の鎖を遂に引きちぎった。


「ごめん紗織。私、大人の人呼んでくるから……」

「――――待ってよ希子ッ!!」


 そうして松下は親友を地獄に残し、一人で当てもなく走り始めてしまう。

 去り際に残した言葉が、ただの言い訳に過ぎないことは自分でも分かっている。それでも怖かったのだ。自分では紗織を助けられないことが分かってしまったのに、それでも自分を信じて縋ってくる瞳が怖くて、何よりその期待を踏み躙ってしまうのが怖くて――――松下希子は逃げ出してしまったのだ。


 遥か後方では、まだ紗織の絹を裂くような叫び声を上げている。しかし、それはもう彼女の耳には届いていなかった。

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