閑話 『あの日 後編』


 松下希子と隼志紗織。彼女達二人の日常が崩れ落ちたあの日から、今日でちょうど一週間になる。

 その日、松下はなけなしの小遣いで買った花束を抱えながら、覇気のない瞳でとある病院の中をうろついていた。


 死傷者三百人を数える大惨事となったあの事件は、最近背景不明の大規模テロが多発するこの国でも大いに注目を集める結果となった。

 この三春町には政府から非常事態宣言が宣告され、今では軍人達が街の中をゾロゾロと巡回している姿もよく見かけるようになった。そのせいか街の人間は誰も彼もがどこかギスギスしており、この街が未だ事件の衝撃から立ち直れずにいるのは明らかなことであった。


 ――――意外と静かですね。


 とは言ってもそれは事件のあったショッピングモール近辺の話で、そこから大分離れたこの病院の中は比較的マシな空気であるように感じられる。事件当初はこの病院にもテロ被害者の多くが収容されていたらしいが、一週間も経った今ではそれなりに落ち着きを取り戻すことが出来たのだろう。


 ――――それでも面会の許可が下りるまでは長かったですが。


 面会の相手というのは勿論紗織だ。

 松下が紗織を置いて逃げ出してしまったあの後、彼女は幸いにも軍と消防による救助の中で無事助け出されたらしい。

 彼女の両親はやはり亡くなってしまったようだが、松下としては紗織が生き残ってくれただけでも、神に感謝したいくらいであった。


 しかし、それで彼女が助かったというのはあくまで結果論だ。

 松下があの日、紗織を見捨てて逃げてしまった事実に変わりはない。そして、だからこそ彼女は己が親友に会うために、今日この場所へとやって来たのである。

 一つは紗織の様子を確かめるため、もう一つは彼女に己が不甲斐なさを謝るため、そして何より、あの日起きてしまった悲劇の真相を彼女に話すためにだ。


 紗織の母が松下の身代わりになったことを、彼女はよく分かっていないようだが、それでもこのままその事実を黙っているわけにはいかない。それはあまりにも無責任が過ぎる、人として恥ずべき行いだ。


「――――ここ、ですね」


 そうして、松下はようやく紗織の居る病室の前までやって来た。

 試しにコンコンとノックをしてみるが、ドアの向こうから返ってくる声はない。彼女は一度掴んだはずのドアノブから思わず手を離しそうになり、それでも最後には心を決めて扉を開ける。


「紗織」


 入り口から見て一番奥のベットの上、そこで隼志紗織はまるで亡霊のように佇んでいた。

 松下が部屋の中に入って来ても、彼女がこちらを振り返ることはない。少女はまるで魂でも抜かれてしまったかのように、ただ呆然と窓の外を眺めていた。


「……久しぶりですね、紗織」

「ん」


 松下がベットの近くまで近寄ってはじめて、彼女はようやくこちらを振り向いてくれる。しかし、その虚ろな瞳に光は無く、顔付きの方もまるで別人のように弱々しいものになっていた。


「へぇ、希子も無事だったんだ。良かったね」


 そのまるで感情のこもっていない平坦な言葉に、松下は何も言葉を返すことは出来なかった。

 嗚呼、やはり彼女の心は壊れてしまったのだろう。松下もこうなることはある程度予想していたのだが、こうして実際に現実として見せ付けられると、今にも胸が張り裂けそうな気分になる。


 それきり二人の間に会話が続くことはなく、どこか気まずい空気が病室の中をどんよりと包み込む。そんな沈黙に耐えることが出来ず、松下は気付けば当たり障りのないことを口走っていた。


「病院での生活はどうですか?」

「別に問題はないよ。傷口はまだ確かに痛むけど、先生も看護師の人達もみんないい人達ばっかりだから」

「……そうですか」

「まあ使生活に慣れるのは、まだまだ時間がかかりそうなんだけどね」


 足が使えない。

 そんな紗織の何気ない一言に松下はギョッと目を見開いてしまう。病院からは命に別状はないと聞いていたので、てっきり後遺症も無いものだと思い込んでしまっていたのだ。

 そうして紗織が視線をやった方を見てみると――――そこには松下の予想通り、見慣れない児童用の車椅子が置いてあった。


「あれって、もしかして……?」

「うん、私もう歩けないんだって。なんかあのとき変にもがいたせいで、神経が切れちゃったみたいでさ」


 そう言って紗織はたははと笑う。

 それはまるで世間話をするような軽い口調であったが、その声には確かな諦念と強がり、そして有無を言わせぬ悲壮感が漂っていた。


「お父さんもお母さんも死んじゃったしね」

「……紗織」

「ウチの親ってカケオチ? らしいから引き取ってくれそうな親戚もいないみたいでさ。本当これからどうするんだろうね」

「紗織ッ!!」


 そこで松下は良心の呵責に耐えきれず、思わず声を張り上げてしまっていた。

 しかし、真っ直ぐにこちらを見つめてくる紗織の瞳が恐ろしくて、中々次の言葉が出てこない。それでも彼女はなんとか荒ぶる呼吸を抑え、遂に一つの真実を口にする。


「ごめんなさい紗織……、私のせいで貴方は……」

「別に希子が謝ることじゃないでしょ。そうやってなんでかんでも自分のせいにしなくても――――」

「違うんです。あの日おばさんは……、紗織のお母さんは、私のせいで死んだようなものなんです……」


「えっ」


 その瞬間、紗織の目の色がガラリと変わったのを松下は見逃さなかった。


「それ、どういうこと?」

「言葉通りの意味です……あのとき天井が崩れてきてじゃないですかっ。本当はあれで死んでいたのは私のはずだったんです。でも、それを紗織のお母さんがかばってくれて……」

「……本当に、お母さんは希子をかばったから死んじゃったの?」


 しかし、紗織は特に激昂することも嘆くこともなく、まるで事務的な確認作業のようにそう繰り返す。その有無を言わせぬ物言いに松下はコクリと首を縦にふるしかない。


「……そうです」

「へぇ、そうだったんだ」

「本当にごめんなさい。私のせいで紗織のお母さんは――――」


「それってさ、謝って済むことなのかな?」


 紗織はそう言ってバタリとベッドに倒れこむと、枕元に置かれたカチューシャを一瞥する。最早母の形見にも等しくなったそれを視界に収めながら、彼女はスゥーとその大きな瞳を細めていく。



「ねぇ、なんで希子なのかな」



 瞬間、松下は頭を金属で力任せに殴られたような衝撃に襲われていた。

 その言葉の続きは態々言われなくても分かる。それでも彼女はそのとき確かに混乱し、困惑し、そして動揺していた。

 初めから許されるだなんて思ってはいない。それでもいつも温厚で、人の悪口など一度も口にしたことのない紗織が、まさかそんな言葉を口走るなどと思いもしなかったのだ。


「いやっ、それは」

「ねぇ、なんで希子が生き残ったの」

「違うんですよ紗織。私はただ――――」

「違う? えっ、違うって何が違うの?」

「それは……」



「だからさ――――なんで希子の代わりにお母さんが死ななきゃいけなかったかって聞いてんでしよッ!!」



 そしてそのヒステリックな絶叫こそが、松下希子と隼志紗織の関係が崩れ落ちるきっかけとなってしまった。


「ふざけないでよッ!!」


 彼女は枕元にあった花瓶を掴むと、容赦無く松下の顔に向かって投げつけてきた。花瓶は松下の頭に当たって砕け、その破片がざっくりと少女の額を引き裂いてしまう。

 たちまちに目の前が真っ赤になるが、それでも松下は悲鳴をあげることもなくただ黙って耐えていた。頭は割れるように痛いし、怖いくらいに血も出ているが、それでも決して泣き言を言うことは許されない。


「なんで、なんで私ばっかりなのッ!! なんでお父さんもお母さんも死ななきゃいけなかったの。私何も悪いことしてない……私何も悪いことしてないのにッ!!」


 そう叫びながら暴れ狂う紗織の姿は、まるでこれまで溜め込んでいたストレスが一斉に弾けたかのようであった。

 彼女はそうして激情に駆られるがまま、腕に痣が出来そうな勢いで、傍の車椅子に何度も拳を振り下ろす。


「こんなの、要らないッ!! もう歩くことも出来ないってどういうことなの。ヤダよそんなの。なんで希子はそんな元気なのに私だけ……なんで、なんでなんでなんで私ばっかりッ!!」


「――――ちょっと、紗織ちゃんどうしたのッ!!」


 そんな緊迫した声と共に、一人の看護師が慌てて病室の中に駆け込んで来た。周囲のものを手当たり次第に投げつけようとする彼女を、看護師はその身を呈して必死に抑え込もうとする。


「許さないッ……!! 絶対に許さないんだからああああああああああああッ!!」


 しかし、それでも紗織は抵抗をやめようとはしなかった。

 看護師の腕に噛み付いてでも、拘束を振り払おうとするその姿に、松下が知っているこれまでの紗織の面影はない。

 その瞬間、松下はまぶたに熱いものがこみ上げてくるのを感じ、慌てて顔を手で隠してしまう。ダメだ、こんな顔を紗織にだけは見せるわけにはいかない。


「……ごめんなさい、紗織。またっ、明日も来ますからッ」

「ちょっと待って君ッ!?」


 そうして松下はまるで逃げるように紗織の病室を後にした。背後から降りかかる紗織の怒号と看護師の声を振り払おうと、彼女の足はいつの間にか駆け出していた。

 そうして走って走って走って走り続けて、逃げて逃げて逃げて逃げ続けた先――――少女は今自分がどこにいるのかも分からなくなり、その場へ崩れ落ちるように座り込んでしまう。

 また涙がこぼれそうになるのを、彼女は慌てて袖で拭い去る。しかし、焼き石に水であった。いくら目を閉じても、何度目元を袖で拭っても、次から次へと滝のように涙が溢れてくる。


「違う、違う違う違うッ!! なに泣いてるんですか。私に泣く権利なんてっ、どこにもないじゃないですかァッ……!!」


 そうだ。松下希子は両親を失ったわけでも、一生自分の足では歩けない体になったわけでもない。一番辛いのは紗織の方なのだ。それは分かっている。自分が泣いてはいけないことは分かっているはずなのに、どうしてこうも涙が止まらないのだろう。


 何が姉だ、何がお姉ちゃんだ。くだらない、あまりにもくだらない。そうやって思い上がって、一人でなんでも出来る気になって、バカみたいに優越感に浸って、そのくせいざとなったら結局何も出来ないではないか。たった一人の親友を守ることもろくに出来ないではないか。

 こんな無力で傲慢な口だけの人間に生きている価値なんてない。やはりあのとき死ぬべきだったのは松下の方だったのだ。なんで自分なんかが代わりに生き残ってしまったのだと、少女は爪が肉に食い込むほどの力で固く両手を握りしめる。そして――――。


「どうしてッ、どうしてみんな紗織から大切なものを奪うんですか……あの子が一体何をしたっていうんですか……」


 この欠陥だらけの世界は至極残酷だ。いつも善人ばかりが幸せになるとは限らない。強いて言うならば松下も紗織も、弱いことこそが悪であったのだろう。

 あの大惨事を引き起こしたクソ野郎も言っていたではないか。恨むならば己の無力を恨め、と。


「……やっぱりそれしかないですよね」


 その言葉が頭をよぎった途端、まるで頭の中身がスゥーと一つにまとまっていくような感覚があった。先程まで滝のようだった涙も、いつの間にか途切れ途切れになっている。

 そして、松下は力強く病院の壁に拳を突き刺すと、まるで己の心に言い聞かせるように、爆撃じみた大声をあげた。


「もう、彼女からは何も奪わせはしませんッ……!!」


 そうだ、松下希子にこうして泣き崩れている暇などない。

 確かにもう過ぎてしまったことを今から覆すことは出来ないが、これから先の未来ならば、まだいくらでも良い方向に導き直すことができる。

 だから、もしこの先もう一度、誰かが紗織の幸せを奪おうとするようなことがあるならば、そのときはどれだけ残酷で卑劣な手段を使ってでも、彼女をその魔の手から救ってみせよう。


 紗織はもうあまりにも多くのものを奪われすぎた。これ以上彼女の幸せを誰かに踏みにじらせるわけにはいかない。あの日助けてもらったこの命は、彼女を幸せにするための時間に全てを捧げよう。


 それで少女の胸の中から凡ゆる迷いは消え去った。

 僅か七歳の少女は心にそう固く誓うと、元来た道を一歩一歩確かに引き返していく。例えもう彼女に許してもらえなくても構わない。

 それでも、紗織が松下にとって、大切な親友であることに変わりはないのだから。


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