第八話 『貪る者』

 

 無限の可能性を内包する神の力――――即ち『天骸アストラ』は、森羅万象ありとあらゆるものの本質を歪める力を持つ。生物や無機質は無論のこと、例えその対象が時間や歴史、文明といった抽象的な概念であろうとも例外ではない。


 万物が数多の物理法則によって支配されているこの人間界。そこへそのような混沌カオスが持ち込まれれば、一体世界はどこまでそのありようを変えてしまうのだろう。


 最早災いの種は撒かれたあとだ。

 今や異能を伴う怪異と惨劇の予兆が、世界中で次々と芽吹き始めている頃合であろう。そしてここ港区のとある寂れた繁華街の一角にも、時代の流れは既にその鋭い荊の先を突き立てていた。

 裏路地から更に奥へと進んだ場所に立ち並ぶ雑居ビルの一つ。いつのまにか人々の記憶から忘れ去られてしまったその廃墟は、今やこの関東一円において随一の『異常領域』と化している。


 天より、一柱の隻翼せきよくが舞い降りた。


 ただそれだけの事実が、この古びた廃墟の本質を、世界より隔絶されたある種の『異界』へと変貌させてしまったのである。


 具体的に言うならば、『天骸アストラ』によって情報と存在の質を最低限に圧縮された『異界』が、廃ビルという限定された空間の中へ無理矢理にねじ込まれているのだ。敢えて何かに例えるとするならば、巨大なスポンジを極限まで握り潰し、元のそれよりも明らかに小さな容器の中へ突っ込むイメージに近い。


 たかだか面積一五〇坪、高さ一五メートルの空間の中に内包される巨大で希薄な『異界』。それは正しくその天使の、そして天界の傲慢が形となったものだと言うこともできるだろう。


 『天骸アストラ』はありとあらゆる概念を歪めてしまう。そして何よりも『天骸』は人の心を歪めてしまう。無いものを有ると言い、ならぬことをなると言い張る無責任な全知全能が、この世界に存在するありとあらゆる人間を狂わせていくのだ。


 最早人間界の辞書から不可能の三文字は消え去った。

 それは果たして人類にとって、そしてにとって幸となるか、それとも不幸となるか。

 凡ゆる望みを追い求めることが許され、代わりに諦める選択肢を奪われたこの世界で、王を名乗る天使は一人寂しげに夢を、そしてその胸に燻りし野望を謳う。




 ♢




 卿天使きょうてんし鎮魂王直属第一位ちんこんおうちょくぞくだいいちい、そして『簒奪王さんだつおう』。

 その使を形容する言葉は数あれど、今は彼が己が手で勝ち取った『簒奪王』の名が、最もその存在を言い表すのに相応しいと言えるだろう。


 最早庭園と言える程の体積にまで引き伸ばされた『異界』の中心に、この世界の象徴と言わんばかりに聳え立つ巨大な洋館。その最上階の更に中央、燭台の焔だけが怪しく揺らめく暗い一室に、この『異界』の創造主たる天使は幽玄と坐していた。


 金の刺繍が施された軍服の上から黒の外套を身に纏い、中折り帽を目元深くまで被った初老の男。その端正な顔のほとんどは包帯で覆われており、布の隙間から僅かに覗く漆黒の強膜と血色の虹彩が特徴的である。


 その身が纏う荘厳な雰囲気は、正しく『全てを手に入れた』支配者たる者のそれと言って遜色ない。王はその身に相応しい居城を築いただけではなく、己の為だけに一つの『世界』すらと創造してみせたのだ――――だがしかし、それだけの栄華を極めようとも、王の心が、そしてその欲望が真の意味で満たされることはない。


 足りない、何もかもが足りないのだ。胸の奥から止めどなく溢れ出てくる理想の濁流の中で、王はもがき、そして苦しんでいた。


 それは物欲か、性欲か、それともあるいは権力欲か。際限の無い強烈な渇きが、王の体から、心から、そして魂からひたすらに瑞々しさを奪い取っていくのである。


 この身が渇くのは、あまりにも長く戦争たたかいの場に身を置き過ぎてしまったからかもしれない。

 この心が渇くのは、あまりにも長く理想を追い求め続けてしまったからかもしれない。


 血が足りぬ、肉が足りぬ、そしてそれ以上に名誉と功名がまるで足りない――――と、魂がまるで腹を空かせた獣のように猛り、そして狂うのだ。


 王はその口から熱い息を漏らすと、己が右の掌に刻まれた『刻印』へおもむろに視線をやる。その赤黒い文様が表すは正しく簒奪王の権能の象徴、即ち生者の魂を喰らう人狼の牙である。


悲蒼天ひそうてんの連中にを刻まれたか。全く、彼奴等も中々に厄介な術式を使うものだ」


 そこから己の『天骸アストラ』が宙へと様を眺めながら、王は思わず苦笑する。

 正しく飼犬に手を噛まれるとはこのことであろう。己の権能によって自分自身が追い詰められる羽目になるなど、最早興が醒めるどころの話ではない。



「――――少し、傲慢が過ぎたか」



 ぼそりと呟かれた『簒奪王』の玉音ぎょくいんは低く、そして重い。

 天界は勿論、この人間界にも絶対的な安寧など存在しない。全ての生物は食う者でありながら、また食われる者でもある。例えこの『簒奪王』と言えども、その法則の例外ではないのだ。


 王としての余裕は当然保つべきだが、必要以上の傲慢は、漸く手に入れたこの王権を喪失することにも繋がりかねない――――と、王は再び己が魂へ綿密に自省を刻み込んでいく。


「志半ばで倒れるなど、王たる者として考え得る限り最悪の醜態ではないか。己を抑えよ、未だ嗤うには些か時が早い」


 連中をたかが人間相手だと高を括ったのは、過ちであったと素直に認めよう。だがしかし、王の覇道は次の過程をもって、遂にその最終局面へと至る。

 あとは己が全身全霊をもって、最後の試練を乗り越えれば全てが終わるのだ。いや、寧ろ全てが始まると言った方が正しいだろう。


を含めればおよそ三百五十年、随分と長い回り道をしてしまったものだ……されど――――」


 と、王が感慨深げに呟いたその直後であった。

 それは空気を震わせる程の音楽の濁流。時を知らせる巨大な鐘の音が、天上より豪快に鳴り響いたのである。


「ようやくか。いや、命の値段が高騰したこの時代のこの国では仕方のないことか」


 『簒奪王』は思わずといった具合に口元を歪めると、そのまま背後のテラスを潜って部屋の外へと出た。途端に淀んだ空気と、世界に満ちる不気味な赤黒い光がその身を包み込んでいった。


 王が生み出した『異界』の空には、当然のように月も星も浮かんではいない。それでも最上階から眺めるこの景色だけは、何度目の当たりにしても到底飽きることはない。


 先ずはじめに王の視界に映ったのは、洋館前の広場で整列する首無しの怪物達の姿であった。彼等には頭部と皮膚組織が存在せず、黒衣の隙間からは肉と臓物を混ぜ合わせた様な醜い肉団子が見え隠れしている。

 続いてその背後に立ち並ぶを一瞥し、簒奪王はその口元に獰猛な笑みを浮かべた。


「喧しい。されどは充分ということか」


 眼下に耳を澄ませてみれば、「死にたくない、死にたくない」という哀れな悲鳴が聞こえてくる。

 首無しに囲まれる形でその場に跪いているのは、サル目ヒト科ヒト属に連なり、俗に『人間』と呼称される生物の群れであった。

 数は凡そ百程で、老若男女が入り乱れるその様に統一性は無いが、彼等のを鑑みれば態々気にする事でもないだろう。


 己が手足となって忠節を尽くす首無し達と、王の威光に平伏す人間の群れを一瞥し、王は思わず口の端を満足気に歪まずにはいられない。

 これこそが簒奪王ワスター=ウィル=フォルカートが心より欲した権力の形。即ち己が統帥する軍、そして己が統治する国の姿であった。


 その直後、突如として天から強風が吹き荒れた。その風は洋館の屋根の頂に掲げられた第二王朝旗――――即ち簒奪王の署名トゥグラが刻まれた月星章旗を豪快にたなびかせ、その存在を雄大に強調していく。


「ククッ、……カハッ」


 まるで『簒奪王』の君臨を祝福するかのように吹き荒れる吉兆の風。そのあまりの間の良さに、王は心底愉快そうに一歩前に進み出ると、


「――――民よ、恐れることはない」


 そのたった一言で、眼下に広がる全ての人間が一斉にこちらを振り向いた。恐れ慄く群衆達に気を良くしながら、簒奪王は高らかに言葉を紡ぐ。


「なぜならば余は卿等を愛している。余は余を礼賛する卿等を、余を畏怖する卿等を愛している。余に支配され、余に使役され、余に従属し、余に奉仕する卿等を、何よりも愛しているのだ」


 今口にした言葉は決して嘘ではない。王たる者ならば、民の安寧と繁栄の為に力を尽くすのは至極当然のことだ。『簒奪王』は本当に民を、そして己に従う人間達を愛しているのである。


 恐らく彼等群衆にとって、王の言葉は意外なものであったのだろう。そうしてあからさまに動揺する群衆を愉悦の表情で眺めて暫し、一呼吸置いたのち王はようやく話の本題を切り出した。



「人間よ、余は世界を救おう」



 瞬間、人間の群れの中に緊張が走るが、無論この言葉にも嘘はない。圧倒的な暴力を手に入れ、それに付随する権力をも手に入れた『簒奪王』に、支配者として欠落している唯一のもの――――即ちそれは名誉である。

 逆にそれさえ果たして手に入れてしまえば、『簒奪王』の王器は完全に満たされるのだ。


 王はこの人間界において一体どんな功績を成そうと欲するか。

 そんなことは態々帰るまでもない。現在進行形で人類を混沌へと導かんとしている諸悪の権化が、丁度いいことに今この世界には存在しているのだから。


 そう、つまりは『天界の粉砕』。それこそが、『簒奪王』が望む覇業の最終到達点であった。


「我が領土たる人間界で狼藉を働く彼奴等を、どうしてこの簒奪王が誅殺せずにいられようか。臣民よ、余はかの高慢な天界をこの地上へと引き摺り下ろしてやろう。臣民よ、余はかの傲慢な天使共を残らず地に叩き堕としてやろう。余は卿等に益をもたらす者であり、卿等を害する者の敵である。余の威光に従っている限り、卿等の安寧が崩れ去ることは決してない」


 王は一思いに言い切ると、そこで意味深に言葉を切る。

 ちらりと眼下を伺ってみれば、ここからでも人間達の顔が微かに緩んでいるのがよく分かった。きっと簒奪王の語る言葉の意味は分からずとも、何となく自分達が悪いようには扱われないことを察したのだろう。

 突然このような『異界』に引きずり込まれ、半ば命を諦めていたからこそ、またその感動も一塩であるに違いない。



「――――されど」



 大衆の中に微かながらも確かな安堵の色が広がっていくのを眺めながら、王は誰にも聞こえないようにぼそりと呟く。


 その瞬間、『簒奪王』の赤黒い瞳が怪しく光ったのに気付いた人間は、きっと誰もいないだろう。


 群衆達はまだ知らないのだ。彼等はまだ『簒奪王』の――――『支配欲と功名心の怪物』の本質を知らないのだ。

 そんな民達があまりにも愚かで、あまりにも哀れで、あまりにも惨めで、それでいてあまりにも愛おしくて、王は思わず彼等のことを――――――。



使



 



 そんなやけに冷たくはっきりとした一言とともに、簒奪王は軽快に右手を西から東へと振るう。本当に、ただそれだけのことであった。



 次の瞬間、群衆の中にいた一人の男のがぼとりっ、と呆気なく地に



 あまりにも唐突に投げ込まれたリアルな死、そして現実として迫る命の危険。きっと群衆達は一瞬世界が止まったかのような錯覚に包み込まれたことであろう。

 彼等が次にとった反応は、それこそ千差万別なモノであった。目の前の現実を理解できず呆ける者、口元を押さえて吐き気を堪える者、或いは腰を抜かしてその場に崩れ落ちる者。

 先程までの優しく温かい安堵の色など最早どこにも存在しない。平等に割り振られた恐怖と衝撃が、群衆を一種の恐慌状態へと駆り立てていく。



 そして彼等の中の誰かが、ゴクリと生唾を飲んだ次の瞬間。まるで堰を切ったかのように、止まっていた時間と恐怖が一斉に暴発した。



 誰か、母さん、助けて、なんで、おかしい、幻だ、警察は、あり得ない、夢だ、死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない――――――哀れな人間の群れは口々に叫びながら、ありもしない出口を求めてただ只管に逃げ惑う。 

 ある者は隣を走る幼児を押し除け、ある者は前にいた老人を邪魔だと蹴り飛ばす。それは正しく人が人間らしい理性と誇りを完全に捨て去り、ただの獣に戻った瞬間だとも言えるだろう。


 意味のない言葉を叫ぶ者、我を忘れて笑い狂う者、人としての尊厳を失い糞尿を撒き散らす者。そこら中から人の嗚咽が次々と湧き上がり、天へ向かって慟哭が何度も打ち上げられていく。


「ああ、当に


 そんな醜い民衆達へ向かい、王は何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度もその右腕を振るう。ただそれだけで大量の血飛沫が舞い上がり、数多の肉片が飛び散り、瞬く間に真っ赤な肉塊の山が築かれていく。

 きっと彼等はつい先程まで平穏に自らの生が続くことをこれっぽっちも疑ってはいなかったに違いない。きっと彼等には愛する者がいて、また彼等を愛する者だっているのだろう。


 だがしかし、それでも『簒奪王』は躊躇しなかった。両親の名を、子供の名を叫んだ者から優先的に戮殺していく。

 凡ゆる権力の中でも最上に位置する生殺与奪の権利。命の値段が高騰した現代人に対して、これを勝手気儘に振るえることのなんと胸がすくことか。天使は人間の希望を、善性を、愛情を、侮辱し、軽蔑し、その全てを嘲笑う。


 それから一体どれだけの血が流れただろう。どれだけの肉が引き裂かれただろう。どれだけの命が奪われ、どれだけの人の尊厳が踏み躙られたのだろう。


 人権なんて言葉を鼻で笑うかのように繰り広げられた虐殺の嵐は、僅かものの三分で幕を閉じた。嗚咽どころか呼吸音一つ聞こえない静寂がなんとも清々しい。

 軽く百を超える数の人間がいたというのに、彼等は一人残らず物言わぬ肉の山と成れ果てたのである。



「貴様等、いつまで眠っているつもりだ」



 しかし、例え彼等が死という安寧の床に着こうとも、『簒奪王』の暴虐は全くもって止まらなかった。



「臣民よ。余の臣下としての義務を果たせ」



 そんな残酷な号令と共に天高く掲げられた王の右腕、強く握りしめられたその拳から突如青白い焔が溢れ出す。

 まるで魂を可視化したような美しい光――――『天骸アストラ』が一閃したその直後、百の亡骸もどこかからか湧いた青白い炎によって全てを包み込まれていく。


 それは正に万を遥かに超える天使の中でも『王』を名乗るに値する圧倒的な力だ。空気が震えるほどの『天骸アストラ』の嵐が吹き荒れるなか、今ここに簒奪王の『神権代行しんけんだいこう』が発動する。



天骸アストラ抽出完了。神権代行術式展開。第一聖創せいそう――――『未練の奴隷エターナルアクト』」



 最初はそんな一言がきっかけであった。


 その異常な光景は正に奇奇怪怪としか言いようがない。とっくのとうに絶命し、あとは腐り果てるのを待つだけだった死体の山。それらがまるで息でも吹き返したかのように突如痙攣を始めたのである。


 勿論死体に起きた変化はそれだけに留まらない。

 一度引き裂かれた肉塊は独りでに集まりだし、そのままお互いを潰し合うようにして形を整えていく。瞬く間にその場に生み出された肉団子の数は概算でおよそ百、それは丁度簒奪王が殺めた人間と同じ数であった。


 そして次に王が再び拳を握りしめると百の肉団子達が徐々に人の姿を型取っていく。

 肉塊が手を生やし、脚を生やし、そして胴体の形さえ整えてしまえば、その姿は最早普通の人間と比べても大差ないと言って差し支えない。ただ一つ、その首の上に頭部が乗っていないことを除けば、であるが。


「……美しい」


 新たに生み出された百を超える首無しの勇姿を、簒奪王は恍惚の表情で満足そうに見下ろしていた。人間も人間で確かに愛しているが、肉塊はそれ以上に好ましい。

 彼等は命令に反することも、王命よりも己が利益を優先することも無ければ、主人の王権を掠めとろうと暗躍することもない。所詮は魂を失ったただの肉の塊だが、指示さえ与えてやれば、首無し達は目的に向けて淡々と邁進する忠実な下僕となる。


 己が命令に絶対忠実な軍と国。至大の暴君たる『簒奪王』にとって、これより愉快で好ましいものは他に存在しない。



「言葉は要らぬ、見識は要らぬ。趣向は要らぬ、思想は要らぬ。人間種の特殊性と尊厳の源、個性の象徴たる頭顱とうろを捨てよ。ただ無意味に生にしがみつく未練の奴隷として、我が覇道の礎となるが良い」


「――――――――――――――ッ!!」



 王より直接下された絶対命令の前に、群衆もとい首無しの怪物達が言語化出来ない鬨の声で応える。

 これまで無粋な『原理主義者』共との戦いで、既に五百の首無しを使い潰し、王は大きく弱体化することを余儀なくされた。此度の補充を加味しても王の軍勢は既に二百を割っていることだろう。

 だがしかし、それでも『簒奪王』は、この現代日本へと降り立った功名心の怪物は最早止まらない。最早誰にも止めることはできない。


 この人間界に『燭陰ヂュインの瞳』が存在する限り、王の野望はこの街の全てを巻き込み、そして磨り潰していく。


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